砂嵐の墓標、決戦前夜
頭上から迫る百斤の金剛鉄槌の影を見つめながら、蕭落行は左手の裂けた傷口から血を流しつつ、最後の力を振り絞って鞘を構え直した。
嵐の夜、雨脚はさらに激しさを増し、代官所の裏庭は底なしの泥濘と化していた。熊覇の両手に握られた一対の「金剛鉄槌」が、落行の頭上を完全に覆い尽くす。筋肉が不自然に膨張し、黒光りする硬気功の皮膚が、雨粒を瞬時に蒸発させて白い霧を噴き上げていた。
「死ねぃ、蕭長風の野良犬がァ!」
地を裂くような咆哮とともに、百斤を超える二つの鉄塊が、落行の脳天に向けて同時に振り下ろされた。落下する鉄槌の風圧だけで、周囲の泥水が円状に吹き飛び、落行の衣服が激しく引き裂かれる。まともに受ければ、鉄大叔が鍛造した「残陽の特製鞘」ごと、肉体も骨も粉砕されて赤土に還ることは明白だった。
(剛なる力を、剛で受けてはならぬ。柳の枝の如く、逸らせ――)
落行は「砂塵聴音」で、鉄槌が空気を物理的に圧縮する不気味な鳴動を正確に捉えた。右腕は「経絡封印」の秘孔により、完全に冷たく麻痺して力なく垂れ下がっている。使えるのは、裂けて鮮血を噴き出す左手一本のみ。
落行は「千斤墜」を解除し、逆に「砂海歩法」の極意を起動した。足裏の内力を泥の流動に同調させ、滑るようにして自らの重心を後方へとわずかに傾ける。直撃の軌道から数寸だけ身を引くと同時に、左手に握った黒鉄の鞘を、斜め四十五度の角度で鉄槌の側面に滑り込ませた。
キィィィィン!
耳を劈くような金属摩擦音が響き、激しい火花が泥雨の中に散った。鉄槌の持つ圧倒的な剛力が、鞘の滑らかな表面を滑り、落行の左腕全体に凄まじいねじれの衝撃を与える。左手の親指の付け根から、さらに血が激しく噴き出し、骨が軋む音が落行の脳内に響いた。しかし、彼は奥歯が砕けるほどに噛み締め、鞘の角度を死守した。
『借力打力の理論』の極限の発動である。
熊覇が放った絶対的な一撃のエネルギーは、落行の鞘を滑り落ちることで、その進行方向を物理的に「横」へと強引にねじ曲げられた。百斤の鉄槌は落行の脇腹をかすめ、そのまま代官所の裏庭を支える巨大な石造りの外壁へと、凄まじい勢いで叩きつけられた。
ドゴォォォン!
石壁が一瞬にして粉砕され、大量の瓦礫と崩れた泥土が、爆発のように周囲へと吹き飛んだ。外壁の崩落の衝撃により、代官所の屋根の梁が物理的に崩れ落ちる。落行はその崩落の瞬間を冷徹に見極め、左足で泥濘を強く蹴って後方へと跳んだ。
「な、何だと……!?」
熊覇が驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。落行が受け流した鉄槌の衝撃によって崩壊した数トンの石壁と梁が、巨大な土砂崩れとなって熊覇の巨体を真上から完全に押し潰したのだ。
ズガガガガッ!
激しい崩落の音が雨音を掻き消し、代官所の裏庭には、瓦礫の巨大な山が築かれた。その下に埋もれた熊覇は、自らの放った剛力によって自滅し、身動きを完全に封じられたのだ。
「お兄ちゃん……!」
木箱の隙間から、小泥が震える声で呼びかけた。落行は激しく喀血し、黒い血を泥濘に吐き散らしながらも、左手だけで彼女を木箱から引きずり出し、その細い身体を抱きかかえた。
「……行くぞ」
落行の喉から、掠れた声が漏れる。彼は懐から、劉大肥に書かせた「西門解放の命令書」を取り出し、闇の中から現れた阿飛の手に押し付けた。
「阿飛……これを持って、西門の兵を退かせろ。住人たちを、今すぐ街から逃がすのだ」
「あ、兄貴! その体は……左手も血まみれじゃねえか!」
「俺のことはいい。小泥を、頼む」
落行は小泥を阿飛の腕へと託した。小泥は「お兄ちゃん!」と泣き叫びながら落行の衣服を掴もうとしたが、落行は冷たくその手を振り払い、背を向けた。彼の瞳には、人間らしい感情がすべて削ぎ落とされた、死神の如き冷徹な光が宿っていた。
「阿飛、小泥を廃寺の道安のもとへ。明朝、嵐が来たら街を出ろ」
「兄貴……まさか、一人で屠万里の砦へ行く気か!?」
落行は答えることなく、泥濘む闇の中へと消え去った。背中の錆びた無銘の鉄剣は、一度も抜かれることなく、黒い特製鞘の中で不気味な熱を帯びたまま静止していた。残り抜刀回数は、十一回のまま維持されている。
***
決戦前夜。落日鎮の郊外に佇む廃寺の周囲は、不気味な黄色い霧に包まれていた。
北西の果てしない砂漠から、大気を物理的に押し潰すような重苦しい熱風が吹き込み始めている。すべてを飲み込む巨大な「大砂嵐」の襲来が、数時間後に迫っていた。砂塵が空を覆い尽くし、太陽は沈む前から不気味な赤黒い光となって地平線を染めている。
落行は廃寺の崩れかけた門前に立ち、左手で錆びた鉄剣を背負い直していた。左手の親指の付け根は、阿飛が巻いてくれた白い布で固く縛られているが、滲み出た血がすでに布を赤く染めている。右腕は完全に感覚を失い、包帯の下で氷のように冷たくなっていた。体内の熱毒が砂漠の熱気と共鳴し、胸元に刻まれた「残陽の寿命刻印」が、衣服の裏でかすかに赤く発光している。肉体の崩壊は、確実に進行していた。
「……そこを動くな」
落行は、闇と砂塵の向こうに向けて、冷たく言い放った。
風に舞う黄色い砂の向こうから、白い道衣を纏った一人の少女が、静かに姿を現した。華山派の若き女天才、岳霊児。彼女の長髪は激しい熱風に乱れ、その手には名剣「秋水剣」が握られていた。しかし、落行に向けるその剣先は、不自然なほどに激しく震えていた。
彼女の美しい顔は涙と泥に汚れ、その瞳には、世界のすべてが崩壊したかのような絶望が浮かんでいた。彼女の左手には、落行が代官所から強奪し、雷三を通じて街に流した「劉大肥の裏帳簿」の写しが握りしめられていた。
「これが……父上の筆跡だというのか……?」
岳霊児の声は、嵐の風音にかき消されそうなほどに震えていた。彼女にとって、武林同盟盟主である父親・岳天行は、正義の象徴であり、生ける伝説そのものだった。しかし、その帳簿に記されていたのは、辺境の貧しい民を搾取し、馬賊と結託して巨万の富を築き、さらには義兄弟であった蕭長風を裏切って惨殺したという、血塗られた欺瞞の真実だった。
「お前が信じていた『正義』の正体だ」
落行は剣を抜くこともなく、ただ冷たい眼差しを彼女に向けた。
「嘘だ……! 父上が、そんな非道なことをするはずがない! お前が、魔教の残党が父上を陥れるために作った偽りの書だ!」
岳霊児は叫び、秋水剣を落行の胸元に向けて突き出した。しかし、彼女の剣気には、かつての凛とした鋭さは微塵もなかった。迷いと絶望に満ちた、ただの悲痛な足掻きに過ぎない。
落行は「砂海歩法」の最小限の動きで、滑るようにしてその突きをかわした。右腕が動かないため、重心のブレを左脚の踏み込みだけで強引に補う。胸の寿命刻印が疼き、喉の奥に熱い血の味が広がったが、彼の表情は一寸の乱れも見せなかった。
「お前の父親は、俺の養父・蕭長風を十二人の仇敵を使って闇討ちした。この帳簿に押された印章が、何よりの証拠だ。……岳霊児、お前が立ち塞がるなら、お前も斬る」
「お前の剣は……お前のやっていることは、ただの殺人よ! 復讐のために血を流し、すべてを破壊して、その果てにお前に何が残るというの!?」
岳霊児の秋水剣が、再び落行の喉元へと迫る。彼女の目から、大粒の涙が泥の地面へとこぼれ落ちた。
「弱者を守るために悪を斬る。それが、蕭長風の教えだ」
落行は左手の特製鞘を鋭く振り抜き、秋水剣の刃先を最小限の力で弾き落とした。借力打力の妙技。岳霊児の剣は大きく逸れ、彼女の身体は泥濘の上に崩れ落ちた。
「お前の父親が掲げる『正義』こそが、この辺境を血で染め、民を家畜のように扱ってきたのだ。俺が自らを滅ぼす魔道の剣であろうとも、その偽善をすべて地獄へと引きずり下ろす」
大砂嵐の猛烈な熱風が、廃寺の古い泥壁を激しく叩き、黄色い砂の壁が視界を完全に遮断し始める。岳霊児は泥の上に膝を突き、秋水剣を握りしめたまま、ただ静かに涙を流して俯いた。彼女はもう、自らの剣を落行に向ける大義名分を、完全に失っていた。
落行は彼女に背を向け、黄色い闇と化した大砂嵐の中へと、静かに歩み出した。彼の前方に、巨大な「鉄血沙門砦」の不気味な影が、墓標のようにそびえ立っている。
第一級の最終決戦の幕が、今上がる。
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