死を売る闇市場
砂嵐の咆哮が、落日鎮の泥壁を激しく叩きつけていた。夕闇が街を包み込む中、蕭落行は身を屈め、灰色衣のフードを深く被り直した。右腕が熱い。黒い革の包帯に幾重にも縛られた右腕の奥で、経絡を流れる血が沸騰した油のように煮えくり返っていた。
「くっ……」
落行は壁に手をつき、荒い息を吐き出した。胸元をまさぐると、衣服の裏で黒い日輪の痣――「残陽の寿命刻印」が、まるで生き物のように不気味な熱を放って脈打っている。残陽剣法を修めた代償。抜刀せずとも、体内に宿る熱毒は刻一刻と彼の命を蝕み、心臓を焼き尽くそうとしていた。これを抑えるには、極寒の岩陰にのみ自生するという稀少な生薬「氷心草」がどうしても必要だった。
落行は痛む右腕を左手で抱え、足跡を残さない「砂海歩法」を使いながら、落日鎮の最も汚れた路地裏へと滑り込んだ。目指すは、この無法地帯の物流を裏で支配する「砂海密売同盟」の秘密の取引所。そこを仕切る「鉄爪の雷三」という男だけが、この辺境で氷心草を調達できる唯一の牙行(ブローカー)だった。
腐った羊肉の臭いと安酒の匂いが漂う地下道の階段を下り、落行は鉄格子の嵌められた重い木扉を三回、叩いた。中から鋭い視線が覗き、やがて低い軋み音と共に扉が開く。
薄暗い部屋の奥、山積みにされた密輸品の毛皮や武器の真ん中に、その男は座っていた。片目に眼帯をつけ、分厚い毛皮を羽織った巨漢。その右腕の先には、鈍い銀色に光る五本の鋼鉄の義爪――「鉄爪の雷三」が不気味に佇んでいた。
「……おいおい、誰かと思えば、酒場で鉄血沙門の連中を骨抜きにしたっていう灰色衣の餓鬼じゃねえか」
雷三は義爪をカチカチと鳴らし、眼帯のない左目で落行をねめ回した。その視線は、落行の背中に背負われた錆びた無銘の鉄剣に一瞬だけ留まり、奇妙な光を宿した。雷三はかつて、落行の養父である蕭長風に命を救われた過去を持っていた。だが、商人としての彼は、それを表に出すほど甘くはない。
「用件を言え、餓鬼。ここは命を安売りする場所だが、情報は高く売る」
「氷心草をくれ。お前が持っていることは知っている」
落行は掠れた声で言い、懐から小さな革袋を取り出して卓の上に放り投げた。中から、砂漠の河川で命がけで採取された鈍い輝きを放つ「砂金」がこぼれ落ちる。
雷三は鉄爪を使って器用に袋を拾い上げ、その重さを確かめると、満足げに口元を歪めた。しかし、彼の目はすぐに落行の右腕へと向けられた。包帯の隙間から、黒く変色した経絡の筋が首筋まで這い上がろうとしているのを、百戦錬磨の闇商人が見逃すはずはなかった。
「砂金は確かに受け取った。だが……小僧、お前のその体、尋常じゃねえな。心臓の鼓動が早すぎる。まるで体内に火炉を埋め込まれたように熱気が漏れてやがるぞ」
「お前に関係のないことだ。薬を」
落行の冷たい一言に、雷三は肩をすくめ、背後の冷たい地下貯蔵庫から、濡れた麻布に包まれた小さな粘土の器を取り出した。器の蓋を開けると、周囲の空気が一瞬にして凍りつくような極寒の冷気が立ち上る。その中には、透き通るような青い葉を持つ一株の薬草――氷心草が静かに収められていた。
「これがお前の命綱か。だが、警告しておくぜ」
雷三は器を落行に手渡しながら、その顔を近づけ、声を極限まで潜めた。
「鉄血沙門の副門主『蠍三』が動き出した。酒場でお前が使った錆びた鉄剣……あの柄頭の家紋を見た斥候が、砦に駆け込んだらしい。蠍三は今、お前が蕭長風の残党かどうかを確かめるために、落日鎮の全域に密偵を放って血眼で捜索している。あの毒蠍は執念深い。お前の持つ剣の正体を暴くためなら、街を焼き払うことも躊躇わねえぞ」
蠍三。かつて養父・蕭長風を裏切り、惨殺した十二人の仇敵の一人。その名を聞いた瞬間、落行の脳裏に激しい殺意が燃え上がった。心臓が跳ね、体内の熱毒が急激に活性化し始める。右腕の包帯の下で、肉が焦げるような鋭い痛みが走った。
「……忠告は受けておく」
落行は氷心草の器を左手でしっかりと握り締め、背を向けた。その時だった。
ウゥゥゥ――!
地下室の天井を通り抜け、地上から不気味な角笛の音が響き渡った。続いて、無数の馬蹄が砂を踏み鳴らす地響きと、鉄甲が擦れ合う冷たい金属音が近づいてくる。
「ちっ、もう来やがったか!」
雷三が吐き捨て、鉄爪を構えて立ち上がった。「鉄血沙門の哨戒部隊だ。街の包囲を始めやがった」
「俺が引きつける」
「馬鹿言え、お前はそのボロボロの体で戦う気か? ここで暴れられたら俺の商売が上がったりだ。こっちへ来い!」
雷三は壁に掛けられた古びたタペストリーを乱暴に引き剥がし、その奥にある狭い隠し扉を押し開けた。暗く湿った、ネズミの這い回る地下の泥道が奥へと続いている。
「この『枯れ井戸の暗道』は代官所の裏路地へ繋がっている。これを持っていけ」
雷三は落行の懐に、金属製の奇妙な計器――「砂漠の羅針盤」をねじ込んだ。砂嵐や暗闇の中でも、地磁気を捉えて正確な方角を示す特殊な方位計だった。落行は無言で頷き、闇の中へと身を投じた。
狭く暗い泥道を、落行は「砂海歩法」を駆使して音もなく駆け抜けた。足裏から微細な内力を放出し、ぬかるんだ泥の上を滑るように進む。だが、体内の熱毒は限界に達しつつあった。氷心草を今すぐ服用しなければ、経絡が焼き切れる。しかし、地上へ出るまでは薬を練る余裕などなかった。
やがて、頭上に古い木製の格子戸が見えた。落行は息を殺し、格子戸を押し上げて地上の夜気の中へと這い出た。そこは、落日鎮の代官所の裏手にある、崩れかけた adobe(泥レンガ)の廃屋が立ち並ぶ路地裏だった。
ヒュゥゥゥ――
砂嵐の風が、路地のゴミを巻き上げて吹き抜ける。落行が物陰に身を潜めた瞬間、前方の路地から松明の明かりが揺らめき、数人の人影が近づいてくるのが見えた。
「おい、灰色衣のガキを見つけたら、その場で四肢を叩き斬れ! 門主と副門主からの直命だ!」
鉄血沙門の馬賊たちだった。彼らは手中に剛刀を握り、殺気立って路地の隅々を捜索している。さらに、高い物見櫓の上からは、異常な視力を持つという斥候長「鷹目」が、特製の遠眼鏡を覗き込んで路地裏を監視していた。風が砂塵を巻き上げる一瞬の隙間、鷹目の遠眼鏡のレンズが、落行が潜む廃屋の影を捉えようとゆっくりと回転する。
(見つかれば、囲まれる……)
ここで剣を抜けば、一瞬で敵を屠ることはできる。だが、それは同時に「残陽剣法」の二度目の抜刀を意味し、己の寿命をさらに縮めることを意味していた。さらに、今手に入れたばかりの氷心草を服用する前に内力を激しく消費すれば、薬効は熱毒に相殺され、延命の機会は完全に失われる。
(抜いてはならない。絶対に……)
落行は背中の錆びた鉄剣の柄から左手を離した。彼は呼吸を整え、蕭長風から授かった内功の極意「亀息功」を起動した。
吸う息を極限まで細くし、吐く息を完全に消す。丹田の気の流れを遮断し、自らの鼓動を通常の十分の一以下へと物理的に低下させていく。ドクン……ドクン……と、心臓の脈動が果てしなく遅くなり、体温が急激に低下して周囲の冷たい泥壁と同化していく。
その瞬間、落行の五感は異様な変化を遂げた。自らの鼓動が止まりかけたことで、周囲の音が異常なほど大きく、鮮明に脳裏へと響き渡るようになった。雨のように降り注ぐ砂粒が廃屋の木の葉を叩く音、馬賊たちの荒い息遣い、彼らの革靴が乾いた土を踏みしめる鈍い振動、そして遠くの物見櫓で鷹目が遠眼鏡を調整する「カチリ」という微細な金属音までが、頭の中で立体的な地図となって描き出される。
しかし、亀息功による気配遮断の代償は凄絶だった。心臓の鼓動を強引に止めたことで、体外へと放出されるはずだった「残陽の熱毒」が、逃げ場を失って体内の経絡の奥深くへと滞留し始めたのだ。心臓の周囲が、赤く焼けた鉄を直接押し当てられたように白熱していく。
(熱い……経絡が、焼ける……)
全身から冷たい汗が噴き出し、激しい眩暈が落行の視界を真っ暗に染め上げようとする。喉の奥に熱い血が込み上げてくるのを、彼は歯を食いしばって強引に飲み下した。今、一息でも乱せば、亀息功は破れ、鷹目の監視網に引っかかる。それは即ち、死を意味していた。
ザッ、ザッ、ザッ。
馬賊の捜索兵たちが、落行が張り付いている泥壁のすぐ目の前まで歩いてきた。松明の赤い炎が、壁の煤けた影を不気味に照らし出す。馬賊の一人が、落行のわずか一尺先で立ち止まり、不審そうに壁を見つめた。
「おい、何か焦げ臭い匂いがしねえか?」
「気のせいだろ、砂嵐のせいで鼻がおかしくなってんだよ。早く行くぞ、蠍三様がお待ちだ」
落行の皮膚から漏れ出しかけた微細な熱毒の匂いを、馬賊は砂嵐の熱気と勘違いし、そのまま通り過ぎていく。彼らの足音が路地の奥へと消えていくのを、落行は鼓動を止めたまま、静かに見届けた。
鷹目の遠眼鏡が別の方向へと向いた一瞬の隙を突き、落行は亀息功を解除した。激しい呼吸と共に、体内に溜まっていた熱気が口から白い蒸気となって噴き出す。彼は「砂海歩法」を使い、砂の上を滑るように無音で退散し、闇の中へと消え去った。
落日鎮の外れにある崩れかけた廃寺。その冷たい石畳の上に滑り込んだ落行は、ようやく左手で氷心草の器を砕き、その青い薬草を生のまま口に含んで噛み砕いた。
極寒の氷のような冷気が喉から食道、そして心臓へと流れ込み、暴走しかけていた熱毒を物理的に凍らせていく。激しい喀血が止まり、落行は荒い息を吐きながら、錆びた鉄剣を抱きしめて横たわった。右腕のしびれは一時的に和らいだが、指先の感覚は以前よりも確実に鈍くなっている。
その時、暗闇の中から、昼間の酒場で助けた少女・小泥が怯えながら姿を現した。彼女は落行のボロボロの姿を見て、涙を浮かべながら近寄ろうとする。
「お兄ちゃん……大丈夫……?」
「来るな」
落行は冷たく突き放したが、その声には確かな疲弊が混じっていた。自らの寿命は、今回の亀息功の無理な使用によっても確実に削られている。残り十二回の抜刀を残しながらも、肉体はすでに崩壊の予兆を見せていた。
その時、廃寺の梁の上に、音もなく一つの影が降り立った。落行は鋭い眼光を向けたが、それは敵ではない。密売人の雷三だった。雷三は義爪を静かに収め、落行を見下ろしながら不気味な口調で言った。
「生き延びたか、餓鬼。だが、本当の地獄はこれからだ。砦の斥候から報告を受けた蠍三が、お前の持つその錆びた剣の家紋に気づいた。あの毒蠍は、蕭長風の残党を根絶やしにするため、お前をおびき出す最悪の罠を準備しているぞ……」
雷三の不気味な忠告が、廃寺の静寂の中に冷たく響き渡り、落行の胸の寿命刻印が再び小さく疼いた。
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