牙を剥く鉄槌、血砂の罠
落日鎮代官所の裏口から抜け出た蕭落行の視界を、細く冷たい雨が遮った。辺境の乾いた赤土が水分を含み、重苦しい泥となって靴底にまとわりつく。冷雨は、彼の熱を帯びた皮膚に触れた瞬間に白い蒸気となって消えた。体内を巡る「残陽の熱毒」が、急激な気候の変化に抗うように、経絡の深部で狂ったように脈打っている。
「……がはっ」
落行は口元を押さえ、黒い血を泥の中に吐き捨てた。胸元が引き裂かれるように痛む。先ほど代官所の地下で、用心棒である鉄骨の放った『金剛拳』の衝撃波を正面から浴びた代償は、想像以上に深刻だった。肋骨は軋み、呼吸をするたびに肺腑が焼けるような激痛を訴える。さらに右腕は「経絡封印」の秘孔を突いたことで完全に冷たく麻痺し、感覚すら失ったまま、ただの重荷のように肩から垂れ下がっていた。
「お兄ちゃん……」
落行の左腕に抱えられた小泥が、怯えた声で彼の衣服を握りしめた。落行は何も言わず、ただ彼女を抱きかかえる左腕に微かに力を込めた。懐には、劉大肥から力ずくで奪い取った「西門解放の命令書」と、自らの復讐の前提を覆す絶望の書「不正の裏帳簿」が収められている。
(残陽剣法は、俺を岳天行の生贄にするための罠……)
脳裏をよぎる黒幕の影が、落行の心を氷のように冷たく、そして鋭く研ぎ澄ます。剣を抜けば、己の寿命は確実に縮み、岳天行の望む「完成された果実」へと一歩近づく。だが、剣を抜かねば、この包囲網を突破することはできない。残り抜刀回数は十一回。この呪われたリソースを、これ以上無駄に消費するわけにはいかなかった。
その時、前方の竹林の闇から、大地を物理的に揺らすような不気味な地鳴りが響いてきた。
ウゥゥゥ――!
雨音を切り裂き、鉄血沙門の突撃を告げる角笛が響き渡る。泥濘む赤土を踏みしめる無数の蹄の音。代官所の庇護を失い、劉大肥を人質に取られたことで完全に孤立した馬賊どもが、落行の首を獲るために最後の総力戦を仕掛けてきたのだ。
「小泥、そこに隠れていろ。決して音を立てるな」
落行は代官所の裏手に積まれた古い交易用の木箱の隙間に、小泥を静かに滑り込ませた。小泥は涙を浮かべながらも、落行の冷酷な、しかし揺るぎない眼光を見て、無言で小さく頷いた。これで、左手の自由は完全に確保された。
落行は左手で、腰に下げた『残陽の特製鞘』をしっかりと握り締めた。錆びた無銘の鉄剣は、未だ黒い鞘のなかに眠っている。抜刀の禁忌を破ることなく、この包囲を突破せねばならない。
「ハハハ! 見つけたぞ、蕭長風の野良犬め!」
竹林の闇を割って現れたのは、身長八尺を超える熊の如き巨漢だった。鉄血沙門の門主・屠万里が最も信頼する第一幹部、熊覇。その全身の筋肉は鋼のように硬化し、衣服の上からでもその異常な肉体の強度が伝わってくる。そして何より、彼の両手には、百斤を超える巨大な一対の鉄塊――『金剛鉄槌』が握られていた。
ドォン!
熊覇が地面を踏みしめるたびに、泥が大きく跳ね上がる。彼の周囲には、槍を構えた十数人の騎兵たちが落行を取り囲むように陣形を展開していた。
「鉄骨の奴を沈めたそうだが、あんな紙吹雪のような硬気功など、俺の鉄槌の前には塵に等しい! その動かない右腕ごと、肉塊にしてやる!」
熊覇は咆哮すると、右手の金剛鉄槌を大きく振り回した。百斤の鉄塊が空気を引き裂く不気味な重低音が、雨音を完全に掻き消す。その一振りが放つ風圧だけで、周囲の竹が物理的にへし折れ、落行の頬に鋭い痛みが走った。
(二流・内力萌芽……。正面から受ければ、鞘ごと骨が粉砕される)
落行は冷徹に敵の質量を見極めた。熊覇の武功は、技術ではなく圧倒的な「質量」と「剛力」に特化している。左手一本の鞘防御だけで耐えきれる相手ではない。
「死ねぃ!」
熊覇が地を蹴り、落行に向けて突撃してきた。大柄な体躯からは想像もつかない踏み込みの鋭さ。頭上から振り下ろされる金剛鉄槌が、落行の脳天を物理的に押し潰そうと迫る。
落行は「砂海歩法」を起動した。足裏から微細な内力を放出し、ぬかるんだ泥濘の上を、滑るようにして横へと身をかわす。寸前で鉄槌の直撃を回避した。
ズガァァァン!
凄まじい破壊音が響き渡り、代官所の裏庭の石畳が一瞬にして粉砕された。砕け散った石片と赤土が、爆発のように周囲へと吹き飛ぶ。だが、真の脅威は直撃だけではなかった。鉄槌が大地を叩き割った瞬間に発生した、物理的な「衝撃波」が、落行の足元を激しく襲ったのだ。
「くっ……!」
衝撃波が泥濘を伝わり、落行の身体を宙へと吹き飛ばそうとする。体勢が崩れれば、周囲を取り囲む騎兵たちの槍の餌食になる。落行は瞬時に「千斤墜」を起動した。
内力を一瞬にして下半身へと集中させ、大樹が大地に深く根を張るように、自らの体重を強引に増加させて泥濘に足を固定する。強烈な衝撃波が落行の足を直撃し、彼の両脚の筋肉と骨に凄まじい不可がのしかかった。先日の戦闘で負った左太ももの槍傷が再び引き裂かれ、温かい血が衣服を濡らす。膝の骨が悲鳴を上げ、落行は喉の奥から込み上げる血を強引に飲み下した。
「ハハハ! 耐えたか! だが、次でその骨をすべて噛み砕いてやる!」
熊覇は落行の体勢が崩れかけているのを見逃さず、左手の第二の鉄槌を、今度は横薙ぎに振り抜いた。落行の動かない右側の死角を完全に狙った、回避不能の一撃。
千斤墜によって大地に足を固定している落行には、もう「砂海歩法」で退避する時間は残されていなかった。右腕は包帯に縛られて動かない。左手一本で操る黒い鞘だけが、彼の唯一の防具だった。
(剛なる力を、剛で受けてはならぬ。柳の枝の如く、逸らせ)
落行は「砂塵聴音」で、鉄槌が風を切る不気味な鳴動を正確に捉えた。彼は正面から受け止めるのではなく、左手の『残陽の特製鞘』を斜めに構え、鉄槌の側面へと滑り込ませるようにして接触させた。『借力打力の理論』の極限の発動である。
キィィィン!
黒鉄の鞘と金剛鉄槌が接触した瞬間、耳を劈くような金属摩擦音が響き、雨の夜闇に激しい火花が散った。百斤の鉄槌が持つ圧倒的な剛力が、鞘の滑らかな表面を伝って、落行の左腕全体を物理的に引き裂こうとする。
「がっ……あぁっ!」
落行の左手の親指の付け根が、凄まじい摩擦と衝撃に耐えかねて物理的に裂け、鮮血が飛び散った。左腕の筋肉が断裂しかけ、激痛が脳髄を突き刺す。だが、彼は歯を食いしばり、鞘の角度をミリ単位で維持し続けた。鉄槌の破壊的な進行ベクトルを、自らの力で押し返すのではなく、その遠心力を利用して「横方向」へと強引に受け流したのだ。
ズザザザッ!
軌道をねじ曲げられた金剛鉄槌は、落行の身体をわずかにかすめただけで、彼の真横を通り過ぎた。そして、その破壊的な質量は、落行のすぐ後ろに控えていた鉄血沙門の騎兵へと、そのままの勢いで叩きつけられた。
ドシャァッ!
肉と骨が物理的に粉砕される凄惨な音が響き渡る。熊覇の放った鉄槌は、味方の騎兵を馬ごと一撃で叩き潰し、赤い泥濘の上に肉塊の山を作り出した。馬の悲鳴が雨の中に消えていく。
「な、何だと……!? 俺の力を受け流しただと!?」
熊覇は自らの放った一撃が味方を破壊した光景を目撃し、白濁した瞳を驚愕と激しい怒りに染めた。しかし、落行もまた、その場に片膝を突き、激しく黒い血を床に吐き出していた。左手首は激しく震え、特製鞘を握る力は限界に達している。
「小僧……よくも俺の力を利用しやがったな……!」
熊覇の全身の血管が不自然に膨張し、彼の「横錬気功」が最大出力で暴走し始める。彼の皮膚は鋼鉄のような黒い輝きを帯び、周囲の雨粒が彼の放つ内力の熱で一瞬にして蒸発し始めた。
熊覇は、両手で一対の金剛鉄槌を頭上高くへと掲げた。百斤を超える二つの鉄塊が合わさり、落行の頭上を完全に覆い尽くす巨大な影を作り出す。大気が物理的に圧縮され、落行の呼吸を完全に停止させるほどの強烈なプレッシャーが、雨夜の赤土を支配した。これこそが、すべてを無に帰す、絶対的な一撃の構えだった。
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