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偽善の帳簿、暴かれた金流

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咆哮する獣が、血の霧を噴き上げながら迫り来る。


 自ら胸の秘孔を突き、痛覚を遮断して生命力を暴走させた用心棒――金剛手・鉄骨の突撃は、まさに肉体の自爆そのものであった。膨張した筋肉から血が噴き出し、その巨体は地下牢のぬかるんだ石床を激しく踏み荒らす。標的はただ一人、蕭落行の命。相打ちを狙うその拳には、一寸の躊躇も、一切の理性の残滓もなかった。


「死ねぇぇ、魔教の残党ォォ!」


 迫り来る大気の壁。落行の胸部には、先ほどの戦闘で受けた『金剛拳』の衝撃による激しい打撲が残っており、呼吸するたびに肋骨が軋み、喉の奥から熱い血が逆流しそうになる。左太ももの槍傷も深く、泥濘に足を取られれば、その瞬間に巨漢の拳に物理的に押し潰されるだろう。


 だが、落行の瞳は、地底の暗黒よりも深く、静かに澄み渡っていた。右腕は黒い革包帯に巻かれ、完全に生命の通わない死に体として体に固定されている。左手一本で握るは、黒い鉄製の『残陽の特製鞘』。


(怒りは気の流れを乱す。力に剛を以て応じてはならない)


 落行は「静心訣」の呼吸を深く行い、体内で沸騰しつつある熱毒の疼きを強引に押さえ込んだ。心拍数を下げ、冷徹な理性を研ぎ澄ます。


 鉄骨の拳が、落行の鼻先に肉薄した瞬間だった。


 落行は「砂海歩法」を極限まで駆動し、泥濘む床の上を、まるで氷の上を滑るように横へと滑り込ませた。鉄骨の拳が空振りに終わり、その凄まじい前進エネルギーが、彼自身の巨体を前へと引きずり込む。


 落行はその一瞬の隙を逃さず、左手の鞘を、突進する鉄骨の右足首へと滑らせるように差し入れた。「借力打力の理論」――鉄骨が暴走させて放った凄まじい突進の剛力を、落行は自らの力で受け止めるのではなく、鞘の傾きを利用してその進行方向をわずかに「逸らした」のだ。


「がっ……!?」


 力のベクトルを物理的にねじ曲げられた鉄骨は、自らの暴走する勢いを制御できず、地下牢を支える巨大な石柱へと真っ直ぐに激突した。


 ドゴォォォン!


 凄まじい破壊音が地下に響き渡り、石柱に深い亀裂が走る。鉄骨が自ら暴走させた内力が、激突の衝撃によって自らの肉体へと逆流した。彼の強靭だった骨格が、内側から爆発するように砕け散る音が聞こえた。鉄骨は血を吐きながらその場に崩れ落ち、二度と動かなくなった。自らの捨て身の剛力が、自らの命を刈り取ったのだ。


 落行は荒い息を吐きながら、左手で胸元を押さえた。熱毒臨界点が近づき、視界がかすかに赤く染まる。しかし、立ち止まる時間はない。


「小泥、ここで待っていろ。決して動くな」


 石柱の影から怯えた瞳で見つめていた小泥に、落行は掠れた声で囁いた。小泥は小さく、しかし力強く頷き、泥仏の裏の安全な隙間へと身を潜めた。


 落行は錆びた無銘の鉄剣を鞘に収めたまま、代官所の最深部へと、影のように音もなく侵入を開始した。鉄骨の暴走による騒動の最中、代官所の警備兵たちは地下へと駆け下りており、上層の廊下は不気味なほど静まり返っていた。


 高い塀に囲まれた代官所の奥。贅沢な絹の帳が垂れ下がる、代官・劉大肥の寝所。


 バァン!


 落行は左足で重厚な扉を蹴り開け、無音の歩法で室内に滑り込んだ。ベッドの上で、酒の臭いを漂わせながら眠りこけていた劉大肥が、激しい音に目を覚ます。


「な、何奴……!? 護衛! 鉄骨はどこへ行った!」


 はち切れんばかりに太った劉大肥が、豪華な絹の布団から這い出ようと悲鳴を上げる。だが、その叫びが室外に届く前に、落行の左手が動いた。


「風斬り」の超高速の鞘振りが、空気を切り裂く無音の軌道を描く。次の瞬間、劉大肥が大きく開けた口の中に、冷たい黒鉄の『残陽の特製鞘』の先端が物理的に捩じ込まれていた。


「が、うぐっ……!」


 喉元を鞘で強固に圧迫され、劉大肥の顔が恐怖と窒息で一瞬にして土気色に変わる。脂汗が彼の肥った顔から滝のように流れ落ち、シーツを濡らした。


「声を出すな。動けば、このまま喉笛を突き破る」


 落行の声は、冷たい地底の風のようだった。右腕は包帯に縛られて垂れ下がっているが、左手一本で操る鞘の圧力は、劉大肥の命を容易に刈り取れるだけの絶対的な死気を孕んでいた。


「お、お前は……蕭長風の……」


 劉大肥の瞳が、激しい恐怖で細く見開かれる。落行は鞘をわずかに引き、冷たく命じた。


「今すぐ、落日鎮の完全封鎖を解除する命令書を書け。西門を開放しろ」


「わ、分かった! 書く、書くから命だけは……!」


 劉大肥は震える手でベッド脇の机にしがみつき、筆を握った。しかし、その臆病な瞳の奥に、一瞬だけ卑劣な光が宿るのを、落行の「砂塵聴音」は見逃さなかった。劉大肥の左手が、枕の下に隠されていた朝廷の「軍事笛」へと、音もなく伸びていく。警報を鳴らし、官兵を呼び寄せる腹積もりだった。


 フッ、と落行の左手が動いた。抜刀ではない。鞘を引いた一瞬の動作で、劉大肥の左手首を正確に強打した。


 ベキィッ!


「ぎゃぁぁぁっ!」


 指の骨が砕ける鈍い音が響き、軍事笛が床へと転がり落ちた。劉大肥は砕かれた左手を抱え、涙と鼻水にまみれて床に転がり、声にならない悲鳴を上げた。落行はその肥った胸元を、特製鞘の先端で冷酷に踏みつける。


「次はない」


「ひ、ひぃぃ! 書く! 今すぐ書く!」


 劉大肥は右手だけで、血と冷や汗にまみれながら西門解放の命令書を書き殴り、代官の公印を震える手で物理的に押し付けた。落行は左手でその書状をひったくり、懐へと収める。これで、阿飛たちの退路は確保された。


 しかし、落行の真の目的はこれだけではなかった。彼は劉大肥の首元に再び鞘を突きつけ、冷たく問いかける。


「雷三が言っていた『裏の帳簿』はどこにある」


「な、何のことだ……そんなものは……」


 劉大肥が視線をわずかに部屋の隅の屏風へと泳がせる。落行はそれ以上言葉を重ねず、屏風を左足で蹴り倒した。その背後には、頑丈な鉄製の隠し金庫が壁に埋め込まれていた。


 金庫を開けようと落行が近づいたその瞬間、彼の懐にある『砂漠の羅針盤』の針が、不自然に激しく左右に揺れ始めた。金属の磁気の乱れ。落行は直感的に足を止めた。


(罠か――)


 金庫の扉の隙間に、微細な鋼糸が張られていた。強引に開ければ、内部から毒矢が放たれる仕組みだった。落行は冷静に「砂塵聴音」で金庫内部のバネの軋み音を聴き、特製鞘の先端を使って鋼糸の結び目を正確に押し潰し、トラップを物理的に無力化させた。カチリ、と静かな音がして、金庫の扉がゆっくりと開く。


 なかには、大量の砂金や財宝が乱雑に詰め込まれていた。だが、落行の目は、その奥に置かれた一冊の赤い革で装丁された厚い帳簿に釘付けになった。


 これこそが、劉大肥が隠し持っていた「裏の帳簿」だった。


 落行は左手で帳簿を掴み取り、ページをめくった。そこに記されていたのは、落日鎮の貧しい住人たちから搾取された砂金や塩の、不自然な流動記録であった。辺境の代官が蓄財した金流は、その大部分が極秘裏に中原へと送られていた。


 送金先の名を見て、落行の息が止まった。


「少林寺……特定の高僧……。そして……」


 帳簿の頁には、武林の正義の象徴であるはずの「少林寺」の一部の僧侶たちの名が、生々しい金額と共に記されていた。彼らは辺境の搾取金を受け取り、劉大肥や鉄血沙門の暴政を「黙認」していたのだ。正派の最高峰すらも、この腐敗した金流によって内側から汚染されていた。


 だが、真の絶望は、帳簿の最後のページに隠されていた。


 そこには、見覚えのある、力強くも冷酷な筆跡で、一文が書き残されていた。


『残陽剣法が完成せし時、その生命の果実を回収すべし――岳天行』


 その文字を目にした瞬間、蕭落行の全身の血が、一瞬にして凍りついた。


 岳天行(ガク・テンギョウ)。


 武林同盟の盟主であり、養父・蕭長風の義兄弟でありながら、彼を裏切り、惨殺したすべての元凶。その男の名が、なぜこの辺境の汚職帳簿に、そして「残陽剣法」という呪われた武功の名と共に記されているのか。


(生命の果実を……回収する……?)


 落行の脳裏に、凄絶な戦慄が駆け巡る。心臓の熱毒が激しく脈打ち、胸元の寿命刻印が衣服の裏で燃えるように熱くなった。


「残陽剣法」は、失われた古代の絶技などではなかった。それは、岳天行が最初から仕組んだ、邪悪極まりない「罠」だったのだ。使い手が復讐のために剣を抜き、自らの生命力を極限まで高めて剣法を「完成」させたその瞬間、岳天行はその最大化された内力を一気に吸い取る。落行が強くなればなるほど、彼は岳天行にとっての「最高の生贄の果実」へと育っていく。


 自らの復讐の旅路そのものが、 foster father の仇である岳天行の掌の上で踊らされていたという、残酷極まりない真実。


 落行は激しい眩暈に襲われ、口から黒い血を激しく喀血した。床に散らばる金貨が、彼の血で赤く染まっていく。右腕は動かず、身体はボロボロになり、寿命を縮めてまで戦ってきたその意味が、根底から崩れ去ろうとしていた。


「う、うあぁ……!」


 落行は左手で秘密の帳簿を強く握り締め、絶望と怒りの狭間で、激しく身体を震わせた。背後の闇から、落日鎮を包囲する鉄血沙門の残党たちの、不気味な足音が再び近づいてくる気配がしていた。

HẾT CHƯƠNG

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