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枯れ井戸の暗黒に潜む牙

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闇。それは光を拒絶した地底の深淵であり、生者を静かに拒む墓標のようでもあった。


 廃寺の泥仏の裏にある干上がった枯れ井戸の縁から、蕭落行は暗黒の奈落へと身を投じた。激しい夜風と、背後から迫る韓鉄ら捕卒たちの怒号が一瞬にして遠ざかり、代わりに湿った冷気と、ねっとりとした死の匂いが全身を包み込む。


「お、お兄ちゃん……!」


 落行の左腕のなかで、小泥が恐怖に身を震わせながら、か細い声を漏らした。落行は無言のまま、残された左手で彼女の小さな身体を強く抱きしめ、落下の衝撃に備えて全身の内力を下半身へと集中させた。


 ドスン、と湿った泥と腐葉土が混ざり合った地底の床に、落行の両足が着地した。凄まじい衝撃が泥濘を通じて脳天へと突き抜け、同時に先日の戦闘で負った背中と脇腹の傷口が激しく引き裂かれる。灰色衣の裏側に、温かい血が一気に溢れ出すのが分かった。


 しかし、落行は痛みに声を上げることもなく、静かに膝を伸ばした。右腕は完全に死んでいた。「経絡封印」の秘孔を自ら突き、右腕全体の血流を遮断したあの日から、この腕は感覚も体温もない、黒い革の包帯に縛られた一本の枯れ木のようだった。重心の狂いに耐えながら、落行は小泥を抱きかかえたまま、周囲の暗闇を油断なく見据えた。


 完全な暗黒。目を開けているのか閉じているのかすら判別できないほどの漆黒の帳が、彼らを支配していた。空気は重く、鼻を突く硫黄のような有毒ガスが地を這うように漂っている。この有毒ガスが肺に入り込むたび、落行の心臓に宿る「残陽の熱毒」が不気味に疼き、肺腑を内側からじりじりと焼き焦がすような激痛が走る。熱毒を抑えるための「氷心草」は、劉大肥による街の完全封鎖によって完全に底を突いていた。冷却剤を失った体内の火炉は、徐々にその温度を上げ、落行の生命力を静かに削り落とそうとしている。


(チチチ、パタパタ……)


 暗闇の足元で、湿った土を這い回るネズミたちの微かな爪音が響く。天井からは、冷たい水滴が不規則に滴り落ち、泥水に弾ける音が不気味な反響音となって暗道を満たしていた。


「小泥、そこから動くな。この石柱の影に隠れていろ」


 落行は小泥の耳元で、風の囁きほどの掠れた声で命じた。小泥は涙を浮かべながらも、落行の冷たい左手を握り返し、静かに頷いて崩れかけた古い石柱の影へと身を潜めた。これで左手の自由が完全に確保された。


 落行は左手で、腰に下げた「残陽の特製鞘」の柄をしっかりと握り締めた。錆びた無銘の鉄剣は、未だ鞘のなかに眠っている。残り抜刀回数は十一回。こんな雑魚の伏兵相手に、己の寿命を削る「残陽一閃」を放つわけにはいかない。抜かずに、すべてを終わらせる。


 その時、落行の「三十歩の殺気感知範囲」の端が、空気の不自然な歪みを捉えた。風の音すら存在しない地下通路において、大気が微かに「震えた」のだ。


(来る――)


 シュッ、と大気を切り裂く無音の風圧。落行の死角である右側、すなわち動かない右腕の方向から、鋭い冷鉄の刃が肉薄してきた。鉄血沙門の伏兵長「土行」が操る、砂の流動性を利用して地中から奇襲を仕掛ける「砂潜りの術」であった。


 目に見えるものは何もない。しかし、落行の脳裏には、研ぎ澄まされた「砂塵聴音」の技術により、周囲の空間が立体的な地図として鮮明に描き出されていた。滴り落ちる水滴の波紋、ネズミの這う足音、そして迫り来る槍先が押し出す空気の微細な摩擦音。それらすべての「音」が、闇のなかの敵の位置を正確に指し示していた。


 落行は最小限の動きで、首を左側へとわずかに傾けた。その刹那、土行の放った「特製三叉槍」の鋭い刃先が、落行の首筋を数ミリの差でかすめ去った。首筋の皮膚が風圧で裂け、一筋の赤い血が滴り落ちる。


「ほう、この暗黒のなかで避けるか。蕭長風の残党め、噂通りの化け物だな!」


 闇の奥から、土行の低く湿った声が響いた。しかし、その声の位置は一瞬にして変化する。土行は突きが外れたことを悟るや、即座に泥土の壁の中へと吸い込まれるように消え去った。砂が不気味にうねり、気配が再び完全に遮断される。死人のように体温を下げ、呼吸を抑える「亀息功」の応用。完全に闇と土に同化した敵に対し、通常の武芸者であれば焦燥に駆られて無駄に内力を消費するだろう。


 だが、落行の心は氷のように静まり返っていた。張三の涙ながらの裏切り――家族の命を銭満堂に握られ、恩義を捨てて隠し通路を密告した男の悲哀。その醜くも哀しい人間の弱さを目撃したことで、落行の胸には冷たい傷が刻まれていた。もう誰も信じない。ただ、目の前の敵を冷酷に排除するのみ。その静かな怒りが、彼の集中力を極限まで高めていた。


 ズズズ……と、落行の足元の泥土が急激に流動し始めた。土行が地中から内力を放ち、落行の足場を底なしの流砂へと変貌させようとしているのだ。ぬかるんだ泥が落行の両脚を捉え、底へと引きずり込もうとする。重心が狂い、回避の姿勢が大きく制限される。


(千斤墜――!)


 落行は呼吸を吐き出し、内力を一瞬にして下半身へと集中させた。彼の身体の物理的な質量が、まるで千斤の巨岩であるかのように急激に増加し、流砂の流動を強引に押さえつけて大地にその身を固定する。泥が爆発するように周囲へと吹き飛んだ。


 しかし、その瞬間、死角である背後から、土行の部下である二人の伏兵が同時に槍を突き出してきた。ぬかるんだ足場と、暗道に漂う有毒ガスを吸引したことによる微細な眩暈。落行は暗闇のなかで、敵との正確な距離をわずかに測り違えた。


 ザクッ、と冷たい鉄の感触が、落行の左太ももを貫いた。深い突きではなかったが、鋭い槍先が肉を裂き、温かい鮮血が泥の中に滴り落ちる。激痛が脳髄を駆け巡り、心臓の熱毒が激しく脈打った。口のなかに、鉄の味が広がる。


「仕留めたぞ!」


 伏兵が歓喜の声を上げた。だが、その声は彼らの最期の言葉となった。


「風斬り――」


 落行は激痛を無視し、左手で抱えていた「残陽の特製鞘」を闇に向けて鋭く振り抜いた。抜刀はしない。鞘に収まったままの重厚な鉄塊が、空気の壁を切り裂き、半円の軌道を描く。


 ゴッ、という鈍い音が暗闇に響き渡り、一人目の伏兵の頭蓋骨を正確に粉砕した。落行はそのまま鞘の遠心力を利用して半回転し、二人目の伏兵の胸元へと鞘の先端を突き出した。「借力打力の理論」――敵が槍を突き出してきた勢いを、落行は鞘の滑りを利用してそのまま相手の胸骨へと滑らせ、弾き返したのだ。二人目の伏兵は、自らの突進の威力をそのまま胸に受け、胸骨を完全に砕かれて数丈後ろへと吹き飛び、泥の中に沈んだ。


 静寂が戻る。しかし、真の脅威は未だ闇の中に潜んでいた。伏兵たちの死に、土行は一切の動揺を見せず、さらに地中の奥深くから落行の命を狙っていた。


 落行は深く息を吸い込んだ。有毒ガスが肺を焼き、胸元の「残陽の寿命刻印」が赤く脈打ち始める。戦闘可能時間は残り僅か。これ以上の引き延ばしは、熱毒の暴走による自滅を意味していた。


(目に見えるものに頼るな。耳と肌、そして体内の熱毒が、外部の気の熱に共鳴する感覚を信じろ)


 落行は目を閉じ、「熱毒共鳴」の感覚を全身に研ぎ澄ませた。土行は「亀息功」によって鼓動と呼吸を消しているが、地中を移動する際、彼の経絡を流れる内力が放つ微細な「熱の波動」までは完全に消し去ることはできない。落行の沸騰する心臓の毒が、土行の内力の熱と微細に反応し、暗闇のなかに不自然な「熱の陽炎」としてその位置を浮かび上がらせた。


 左斜め前方、壁の裏。土行が地中から飛び出す一瞬の予兆。


 土行が砂の壁から音もなく現れ、落行の喉元に向けて「特製三叉槍」を突き出してきた。その突きは、完全に無音であり、風の音すら消し去っていた。まさに一撃必殺の奇襲。


 しかし、落行はその槍先が喉元をかすめる一瞬前に、土行の放つ不自然な体温の動きを完全に捉えていた。


「そこだ」


 落行は左手の「残陽の特製鞘」を、闇に向けて真っ直ぐに突き出した。槍先を避けることなく、逆にその突進の軌道の内側へと、鞘の先端を滑り込ませる神速の点撃。これこそが、視覚を完全に捨てた落行の、極限の感覚集中戦術であった。

HẾT CHƯƠNG

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