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汚職代官の包囲網

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完全に風の音を失った無音の死線が、蕭落行の喉元へと肉薄する。柳双の放つ「疾風功」を極限まで高めた突きは、大気そのものを凍りつかせるような錯覚を伴っていた。


 しかし、落行は目を閉じ、耳を研ぎ澄ました。「砂塵聴音」の極意が、静寂のなかに潜む微細な歪みを捉える。無音の突きとはいえ、刃が空気を切り裂く際に生じる極微の真空の摩擦音までは消し去れない。落行は左手一本で「残陽の特製鞘」を斜めに構え、滑らせるようにしてその刃先を受け流した。


「借力打力の極限」――柳双の突きの速度と威力を、鞘の鉄面で滑らせて軌道を円状に逸らす。刹那、柳双の顔に驚愕が走った。


「なっ……!」


 落行は体勢を崩した柳双の隙を逃さず、手首を鋭く返した。そして、重厚な特製鞘の物理的な質量を、柳双の細剣の側面へと叩きつけた。柳双の「無影双剣」は、速さに特化した極薄の軽量鋼。手数の多さと引きの速さを誇る反面、直接の強打には極めて脆いという物理的脆弱性を、落行はすでに見抜いていたのだ。


 パキィン!


 夜の砂漠に、凍てついた氷が砕けるような高い金属音が響き渡る。柳双の右手に握られていた細剣の一振りが、中央から無残にへし折れ、破片が月光を浴びて砂の上に飛び散った。


「う、うあぁっ!」


 武器を破壊された衝撃と、受け流された自らの内力の反発により、柳双は数歩後退して砂丘の砂に足を取られた。折れた剣の柄を握りしめ、彼は屈辱と恐怖に満ちた目で落行を凝視する。片腕が麻痺した満身創痍の少年に、自慢の快速剣を完膚なきまでに破られたのだ。


「この借りは……必ず返す!」


 柳双は残された一振りの剣を構え直すこともせず、砂塵の霧のなかへと身を躍らせ、這う這うの体で逃げ去っていった。その気配が完全に消え去るのを確認し、落行は小さく息を吐いた。だが、その瞬間に激しい眩暈が襲い、口元から黒い熱い血がどっと溢れ出た。背中と脇腹の傷口が再び開き、灰色衣の裏側をじわじわと濡らしていく。


「兄貴!」


 砂丘の影から、阿飛が小泥の手を引いて駆け寄ってきた。小泥は涙を浮かべ、落行の動かない右腕を心配そうに見つめている。落行の右腕は「経絡封印」の秘孔を突いたことで、完全に冷たく麻痺したまま、力なく垂れ下がっていた。


「……街へ戻るぞ。代官所の動きが不穏だ」


 落行は痛覚遮断の激痛に耐えながら、阿飛に馬車を出させた。しかし、彼らが落日鎮の郊外へと辿り着いたとき、目の前に広がっていたのは、最悪の光景だった。


 夜闇に包まれているはずの落日鎮の周囲を、無数の松明の赤い光が幾重にも取り囲んでいた。街の出入り口である西門は完全に閉鎖され、朝廷の官兵たちが槍を突き立てて厳重な検問を敷いている。代官・劉大肥が、蠍三の死と落行の暗躍に激怒し、ついに「代官所による街の完全封鎖」を断行したのだ。


「おい、お前たち! 怪しい灰色衣の少年を見かけなかったか!」


 門番の兵たちの怒号が遠くから響く。阿飛は馬車を物陰に隠し、焦燥に駆られた表情で落行を振り返った。


「兄貴、西門が完全に塞がれてやがる。このままじゃ街に入れない。それに……兄貴の熱毒を抑えるための『氷心草』がもう底を突きそうだ。俺がちょっと様子を見て、闇ルートから薬草を仕入れてくる!」


 阿飛は落行の静止を聞かず、馬車を降りて西門の検問へと強引に近づこうとした。しかし、街の流通を完全に握った劉大肥の網は執拗だった。阿飛が検問の隙を突こうとした瞬間、周囲の物陰から十数人の官兵が一斉に現れ、長槍を突き出した。


「曲者だ! 捕らえろ!」


「うわっちゃあ!」


 阿飛は自慢の軽功で辛うじて槍先をかわしたものの、愛用の馬車を兵たちに包囲され、強奪されてしまった。彼は命からがら砂丘を駆け下り、這う這うの体で落行たちのもとへと逃げ帰ってきた。


「すまねえ、兄貴……! 馬車を奪われちまった。街の交易ルートが完全に遮断されて、雷三の旦那の密売ルートも機能してねえ。氷心草の供給が、完全にストップしちまった……!」


 阿飛は悔しさに地面を叩いた。落行は無言で彼の肩を左手で叩き、静かに首を振った。だが、落行の体内の熱毒は、冷気による冷却を失ったことで再び急激に活性化し始めていた。胸元に刻まれた「残陽の寿命刻印」が、衣服の裏で不気味に熱を帯び、脈打つたびに肺を焼くような激痛が走る。


 彼らは監視の目を掻い潜り、落日鎮の外れにある崩れかけた「廃寺」へと徒歩で退避するしかなかった。廃寺の管理人である道安は、満身創痍の落行と怯える小泥を温かく迎え入れ、本尊の泥仏の裏にある隠し空洞へと案内した。


 その時、廃寺の天井に小さな羽音が響いた。白い伝書鳩「小白」が、暗闇を滑るようにして落行の左肩に舞い降りたのだ。雷三からの緊急の連絡だった。落行が左手で鳩の脚から小さな筒を取り出し、なかの紙片を開くと、そこには雷三の走り書きがあった。


『街は完全に封鎖された。劉大肥は鉄血沙門の残党と結託し、お前を逆賊として抹殺するつもりだ。だが、代官所の地下金庫には、劉大肥がこれまでに搾取した砂金や、中原の岳天行へと送った賄賂の記録が記された「裏の帳簿」が保管されている。それを奪えば、包囲網を内側から崩壊させられる。地下への侵入経路は、お前たちがいる廃寺の枯れ井戸から繋がっているはずだ』


「裏の帳簿……」


 落行の瞳に、冷徹な光が宿った。正面から官兵の大軍と戦えば、抜刀回数を浪費し、自らの命を縮めるだけだ。劉大肥の首元に直接刃を突きつけ、その不正の証拠を握ることで、包囲網を自壊させる――それこそが、限られた命で復讐を果たすための唯一の戦術だった。


 しかし、運命は彼らに息をつく暇さえ与えなかった。廃寺の外から、不気味な算盤の音が響き渡ったのだ。


 パチ、パチ、パチ……。


 静まり返った夜の廃寺の周囲に、金属製の算盤を弾く冷酷な音が規則正しく響く。劉大肥と結託した強欲な金貸し「銭満堂」が、松明を掲げた多数の私兵と代官所の捕卒たちを引き連れて、廃寺の周辺に住む貧民たちを強制的に集めていた。


「さあ、勘定を始めようか」


 銭満堂は仕立ての良い衣服に身を包み、細い目をさらに細めてニヤニヤと笑った。彼の足元には、廃寺の周辺で暮らす貧しい住人たちが、縄で縛られて泥の上に跪かされている。


「お前たちの借金の利子は、今日でさらに倍になった。だがねえ、劉代官からお触れが出ている。蕭長風の残党である灰色衣の少年の居場所を吐いた者には、すべての借金を帳消しにし、さらに巨額の賞金を出すとね。……さあ、誰から話してくれるかね?」


 住人たちは怯え、互いに顔を見合わせて震えていた。銭満堂は冷酷に算盤を弾き、私兵たちに命じて一軒の粗末な民家に松明の火を投げ込ませた。激しい炎が立ち上り、住人たちの悲鳴が夜空に響く。


「言わねば、次はお前たちの子供を連れて行く。命の価値を、よく計算することだ」


 その脅迫の前に、一人の男が耐えかねて銭満堂の前に進み出た。落日鎮の商人「張三」だった。彼はかつて、蕭長風に飢えから救われた恩義がある男だった。しかし、銭満堂の私兵に首元へ刃を突きつけられた自らの妻と子の姿を見て、彼の心は完全に砕け散った。


「す、すいません……! 許してください!」


 張三は地面に額を擦りつけ、涙と泥にまみれながら、廃寺の方向を指差した。


「あ、あの廃寺の奥です! 泥仏の裏に隠し空洞があり、そこから地下の枯れ井戸へと続く抜け道があるんです! 少年はそこに潜んでいます!」


 張三の悲痛な裏切りの叫びが、廃寺のなかにいる落行の耳に届いた。落行は泥仏の影で、動かない右腕を抱えたまま、静かに目を閉じた。養父への恩義すらも、家族の命の恐怖の前には無力に消え去る。その「人間の弱さ」と醜い現実が、落行の心に冷たい、そして深い精神的な傷を刻み込んでいく。


「よし、よく言った」


 銭満堂の傍らに立つ代官所の捕頭「韓鉄」が、冷酷な目で廃寺を見据えた。彼は腰の鉄刀を引き抜き、松明を掲げた捕卒たちに鋭く命じた。


「廃寺を包囲せよ! 地下の抜け道を塞ぎ、逆賊・蕭落行を燻り出せ!」


 無数の松明の火が、廃寺の古びた泥壁を不気味に照らし始める。捕卒たちの足音が、門を踏み破って堂内へと雪崩れ込んでくる。落行は小泥の小さな手を左手で強く握り締め、泥仏の裏にある干上がった枯れ井戸の底を見つめた。深淵のような暗黒が、彼らを待ち受けていた。

HẾT CHƯƠNG

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