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錆びた軍牌と若き槍

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廃寺の堂内を支配する、耳が痛くなるほどの静寂。泥仏の裏側、冷たく湿った暗闇のなかで、蕭落行の喉元には、辺境守備隊長・曹猛の放つ鋼鉄の槍先が突きつけられていた。距離はわずか一寸。槍先から放たれる「烈火功」の鋭い殺気が、落行の皮膚をピリピリと震わせる。


 落行の右腕は、自ら施した「経絡封印」によって完全に死に体と化し、黒い革の包帯の下で氷のように冷たくなっていた。指一本動かすことも、感覚を得ることも叶わない。無理な「亀息功」の維持により、体内の熱毒が心臓へと微細に逆流し、胸の奥で焼け付くような痛みが脈打つ。だが、落行の目は冷徹な鏡のように澄んでいた。


 ここで戦えば、曹猛を殺さねばならなくなる。だが、曹猛は腐敗した代官・劉大肥のような悪党ではない。義父・蕭長風が遺した「弱者を守る剣」という信念が、落行の無駄な殺生を拒んでいた。


(賭けるしかないか……)


 落行は、僅かに残された左腕を不器用に動かし、内衣の裏へと手を滑り込ませた。指先が触れたのは、冷たく、そしてずっしりと重い真鍮の感触。彼はそれを静かに引き出し、隙間から差し込む松明の赤い光の下へと提示した。


 曹猛の鋭い眼光が、その手元に留まる。槍先が微かに揺れた。


「……待て。それは……」


 曹猛の声が、初めて規律の仮面を剥ぎ取られ、激しく動揺した。彼は左手に持っていた松明をさらに近づける。炎の揺らめきが、落行の左手に握られた「錆びついた真鍮の兵符」を照らし出した。そこには、牙を剥く虎の意匠と、辺境防衛軍の最高指揮官のみが持つことを許された「蕭」の文字が刻まれていた。


「蕭長風将軍の……軍牌……! なぜ、お前がそれを持っている?」


 曹猛の呼吸が乱れる。彼の父はかつて辺境の死線において、蕭長風将軍の「鉄血歩法」に救われ、一命を取り留めた恩義があった。守備隊の若い兵たちにとって、蕭長風は今なお語り継がれる伝説の英雄であり、その軍牌は至高の忠義を象徴する聖遺物に他ならなかった。


「俺は蕭長風の養子、蕭落行だ」


 落行は亀息功を解き、静かに、しかし冷徹な声で告げた。泥仏の空洞のなかで、小泥が彼の衣服をぎゅっと握りしめる手が、微かに震えている。


「蕭長風殿の息子……。だが、お前は蠍三を惨殺した魔教の残党として、劉大肥から指名手配されているのだぞ」


 曹猛の長槍は、未だ落行の喉元から退かない。しかし、その殺気には明らかな「迷い」が生じていた。軍人としての規律は目の前の指名手配犯を捕らえることを命じているが、英雄への恩義と忠義が、その腕を物理的に縛り付けている。


「将軍の血脈が、真に魔道に堕ちたのか……。あるいは、劉大肥の言う『正義』が偽りなのか。……蕭落行、お前が真に将軍の鉄を継ぐ者か、俺の槍で確かめさせてもらう!」


 曹猛の瞳に、武人としての烈火のごとき闘志が宿った。彼は一歩退き、長槍を大きく回して廃寺の中央へと躍り出た。それは逮捕のための捕縛ではなく、魂の真偽を測るための sparring(技量試し)の要求だった。


 落行は泥仏の裏から静かに歩み出た。右腕は包帯で体に固く固定され、完全にぶら下がっている。彼は左手だけで、背負っていた「錆びた無銘の鉄剣」を特製鞘ごと引き抜いた。抜刀はしない。抜けば寿命が縮む。彼は鞘に入ったままの鉄塊を左手一本で構えた。


「片腕か……。見くびるな!」


 曹猛が地を蹴った。彼の「烈火功」が起動し、鋼鉄の長槍が赤い気の軌跡を描きながら、落行の胸元に向けて真っ直ぐに突き出される。無駄のない、極めて堅実な「軍隊槍法」の一突き。


 キィン!


 落行は「砂海歩法」を起動し、泥濘む廃寺の床を滑るようにして半歩身をかわした。同時に、左手の特製鞘を斜めに傾け、槍先を鞘の鉄面で物理的に受け止める。鋭い金属音が堂内に響き渡る。


 曹猛は驚破の表情を見せる間もなく、長槍を翻し、落行の動かない右側の死角を狙って連続の突きを繰り出した。鋭い槍の風圧が、落行の頬をかすめ、一筋の赤い傷を刻む。右腕の麻痺による重心のブレが、落行の回避能力を物理的に制限していた。


(速い……。だが、この槍には殺気がない。迷いがある)


 落行は目を細め、義父から授かった「借力打力の理論」を脳裏に駆動した。


 空気を引き裂く曹猛の三の突きが、落行の左肩を狙って放たれる。落行は反発せず、自らの特製鞘を槍の刃先に滑らせるように接触させた。剛の力を剛で受けず、柳の枝のごとく受け流す。槍先が鞘の表面をミリ単位で滑り、曹猛の放った強力な前進エネルギーが、そのまま彼の肘関節へと逆流した。


「なにっ!?」


 曹猛の体勢が大きく崩れ、槍先が床の石畳を深く穿つ。その反動を利用し、落行は「砂海歩法」で一瞬にして曹猛の懐へと踏み込んだ。左手の鞘の先端が、曹猛の喉元にピタリと静止する。


 沈黙が再び廃寺を満たした。曹猛は、自らの喉元に突きつけられた黒い鞘を見つめ、やがて静かに長槍を引き、石突きを床に立てた。


「……見事だ。片腕でありながら、将軍の『借力打力』をここまで体現するとは。お前の剣には、邪悪な魔功など一寸も宿っていない。宿っているのは、ただ純粋な不退転の意志だけだ」


 曹猛は深く息を吐き、堂内の兵たちに向けて手を挙げた。「槍を引け。ここには魔教の残党などおらん。いたのは、仏に仕える老僧と孤児だけだ」


 兵たちが戸惑いながらも長槍を収める。曹猛は落行に歩み寄り、声を極限まで潜めて告げた。


「蕭落行、恩人の息子よ。今すぐこの町を去れ。劉大肥は鉄血沙門の門主・屠万里と結託し、お前を逆賊として街ごと封鎖するつもりだ……。彼らは、お前を袋のネズミにするための大包囲網を、明朝にも完成させる」


 その言葉は、落日鎮全体が巨大な血の檻と化す、恐るべき防衛線の始まりを告げていた。

HẾT CHƯƠNG

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