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凍てつく右腕、代償の刻印

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落日鎮の夜は、乾いた砂風とともに更けていく。無法の地を覆う闇は冷たく、そして重い。


「静かに、小泥。声を出すな。俺にしっかり掴まっていろ」


 阿飛は、息を切らしながら満身創痍の蕭落行を背負い、廃寺の重い木門を物理的に押し開けた。彼の肩には、意識を失いかけた落行の細い身体が乗り、その背後には、恐怖に震えながら落行の衣服の裾を握りしめる少女、小泥が必死に付いてきていた。


 万蛇窟の焦土から命からがら脱出した彼らを迎えたのは、埃っぽい静寂と、本尊の崩れ落ちた仏像が佇む「落日鎮の廃寺」だった。


「蕭殿の御子息が、これほどまでに……」


 廃寺の管理人である老僧、道安が無言で彼らを迎え入れ、その惨状を目にして深い悲哀の溜息を漏らした。落行の右腕は、黒い革の包帯を内側から突き破るようにして黒く炭化し、そこから微かに焦げた血の匂いが漂っていた。初の抜刀――「残陽一閃」がもたらした代償は、あまりにも凄絶だった。


「お兄ちゃん、死なないで……私を助けるために……」


 小泥は落行の冷たくなりゆく左手を両手で握りしめ、涙を流して床に膝を突いた。彼女にとって、落行は自らの命を救うためにボロボロになった唯一の家族だった。


 落行は廃寺の埃っぽい奥の間に横たえられた。彼の意識は、心臓の奥で暴れ狂う「残陽の熱毒」の猛火と、経絡を閉ざそうとする極寒の虚無の間を彷徨っていた。胸元に浮かぶ黒い日輪の痣――残陽の寿命刻印は、すでに不気味にその光を一つ失い、残り抜刀回数が「十一回」になったことを冷徹に告げていた。


「……クッ……!」


 深夜、落行は自らの肉体が放つ異様な異変によって目を覚ました。いや、それは「激痛」ですらなかった。右腕全体の感覚が完全に消失しているという、恐るべき虚無感だった。


 左手で右の指先を触ってみる。しかし、触れられているという感覚すら、脳に届かない。指一本、ピクリとも動かなかった。右腕は、血の通わない一本の黒い死木のように、彼の肩からぶら下がっているだけだった。


(動かない……これが、剣を抜いた代償か)


 落行の心臓の奥から、沸騰した油のような熱い逆流がせり上がってくる。初の抜刀によって爆発した熱毒が、焼き切れた右腕の経絡から逃げ場を失い、今度は心臓へと逆流しようとしているのだ。このまま熱毒が五臓六腑を焼き尽くせば、確実に即死する。


 落行は、残された左手を不器用に動かし、自らの右肩の急所――気の結び目である秘孔を深く突き刺した。


「経絡封印(けいらくふういん)」――。


 それは、右腕への血流と気の循環を物理的に完全に遮断する、極限の応急処置だった。突き刺した瞬間、右腕は氷のように急激に冷たくなり、皮膚は紫色に変色して力なく垂れ下がった。心臓への毒の逆流は辛うじて食い止めたが、引き換えに、右腕は完全に「死んだ肉」と化し、右手の感覚麻痺は決定的なものとなった。精密な剣の制御は、もう右手では二度と行えない。


 その時、廃寺の静寂を破るように、外から不穏な地響きが近づいてきた。


 無数の馬蹄が砂を踏み鳴らす音。そして、甲冑が擦れ合う冷たい金属音。代官所の捕卒たちではない、より組織的で規律ある足音だった。


「兄貴、大変だ!」


 見張りをしていた阿飛が、顔を青ざめさせて奥の間に飛び込んできた。


「代官所の兵じゃねえ。辺境守備隊の……若き隊長『曹猛』率いる精鋭部隊が、この廃寺を完全に包囲してやがる!」


 曹猛。劉大肥のような腐敗した役人とは異なり、規律を重んじる実直な将校。彼は、万蛇窟の焦土から回収された蠍三の死体の懐から、蕭長風の真鍮の軍牌が発見された手がかりを追い、この廃寺へと辿り着いたのだ。


「蕭殿、小泥を連れて仏像の裏へ。私が時間を稼ぎましょう」


 道安が毅然とした態度で静かに立ち上がる。落行は無言で頷き、動かない右腕を左手で抱えながら、小泥を促して本尊の巨大な泥仏の裏側へと身を潜めた。仏像の背面には、経年劣化で開いた大きな空洞があり、大人が二人、辛うじて息を潜められる隙間があった。


 バァン!


 廃寺の古い門が乱暴に押し開けられ、松明の赤い光が、埃の舞う堂内を一瞬にして照らし出した。長槍を手にした兵たちが、殺気を孕んだ陣形を組んで堂内へと雪崩れ込んでくる。その先頭に立つのは、鋼鉄の長槍を手にし、鋭い眼光を放つ曹猛だった。


「夜分に騒がせてすまない、住職」


 曹猛の声は、規律正しくも冷徹に堂内に響き渡った。


「我々は辺境守備隊。蠍三の死体から、かつての英雄・蕭長風将軍の軍牌が発見された。我々はその手がかりを追っている。ここに、錆びた鉄剣を背負った灰色衣の少年が逃げ込んでいないか?」


 道安は本尊の前で静かに経を唱え、首を振る。「ここには、哀れな浮浪児と、仏に仕える身の者しかおりませぬ」


 しかし、曹猛の観察眼は常人を超えていた。彼は松明を床にかざし、ゆっくりと歩を進める。彼の靴が石畳を踏むカツン、カツンという音が、落行の「砂塵聴音」によって立体的に脳裏に描かれる。


「……ほう」


 曹猛が立ち止まった。石畳の隙間に、赤黒く凝固した「黒い血の痕」が点々と残されていた。落行が先ほど吐き出した、熱毒の喀血の残滓だった。道安が必死に隠そうとしたが、完全には消しきれていなかったのだ。


 仏像の裏の暗闇で、落行は「亀息功(きそくこう)」を起動した。自らの鼓動を通常の十分の一に低下させ、呼吸を完全に停止する。体温すらも消し去り、自らを「死体」と同化させる極限の隠密術。


 小泥は、落行の胸元に顔を押し付け、自らの口を両手で塞いで必死に涙を堪えている。


 外では、阿飛が裏口からわざと大きな物音を立てて走り出た。「裏に誰かいるぞ! 追え!」と兵たちの一部が外へと走る。しかし、曹猛はその囮に惑わされなかった。彼の視線は、真っ直ぐに仏像の足元へと向けられていた。


(ここで曹猛と交戦すれば、彼を殺さねばならなくなる。彼は劉大肥のような悪党ではない……)


 落行は、亀息功を維持しながら、体内で暴走しかける熱毒を「静心訣」の呼吸で必死に抑え込んだ。右肩の経絡封印が無理な息止めによって軋み、心臓の奥に焼け付くような激痛が走る。だが、彼は一切の気配を消し続けた。


 曹猛が、ゆっくりと仏像の裏側へと歩み寄る。彼の長槍の石突きが、粘土の台座を軽く叩いた。


 コン、コン――。


 鈍い音のなかに、微かな「空洞の反響音」が混じる。曹猛の目が、暗闇のなかで鋭く細められた。彼は長槍を両手で構え直し、仏像の薄い隙間へと、その鋭利な槍先をゆっくりと差し込んできた。


 暗闇のなか、冷たい鉄の刃先が、落行の喉元からわずか一寸の距離にまで迫る。槍先から伝わる、曹猛の堅実な「軍隊槍法」の殺気が、落行の皮膚をかすかに震わせた。

HẾT CHƯƠNG

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