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毒蛇の深淵、血気の目覚め

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万蛇窟の暗黒が、一瞬にして深紅の光に塗り潰された。


「な、何だこの熱気は……!」

 石舞台の上で、鬼眼の毒蠍・蠍三が悲鳴に近い声を上げた。彼の白濁した左眼が、落行の右手から放たれる異様な赤光を反射して血のように染まる。零れ出た熱風は、地下の湿った毒気を瞬時に焼き尽くし、万蛇窟の壁にへばりついていた苔を一瞬で炭化させていく。


 落行が錆びた鉄剣を鞘からわずか「一寸」引き抜いただけで、この地底の奈落は沸騰する火炉へと変貌したのだ。崑崙派の俊英・徐青風が放った極寒の剣気は、落行の周囲に届く前に物理的に蒸発し、白い水蒸気となって霧散した。地中から奇襲を仕掛けようとしていた影沙の暗殺者・冷骨も、足元の土壌が急激に熱せられたことに驚愕し、たまらず砂の中から飛び出して後退した。


「化け物め……! だが、その腕で何ができる!」

 蠍三は本能的な恐怖を打ち消すように絶叫した。彼は左手に握った麻縄の端を、手挟んでいた短刀で一気に切り裂いた。宿命の引き金が、ついに引かれたのだ。


「お兄ちゃん!」

 小泥の短い悲鳴が響く。縄を切られた彼女の小さな身体は、重力に従って、数千、数万の有毒な砂蛇が蠢く万蛇窟の底へと真っ逆さまに落下し始めた。奈落の底で、飢えた蛇どもが一斉に鎌首をもたげ、獲物を迎え入れようと不気味な顎を開く。


(――義父上。私は、自分の命が惜しくて剣を拒んでいたわけではない)

 落行の脳裏に、かつて辺境の廃寺で錆びた剣を研ぎながら語り合った、養父・蕭長風の温かい手の温もりが蘇る。『剣は人を守るためにある』。その教えが、今、落行の冷酷な復讐心の中に、不器用な正義の炎となって燃え上がった。


(目の前の命一つ救えぬ剣に、何の侠客の魂がある!)


 落行は、完全に麻痺し、黒く炭化していたはずの右腕を強引に跳ね上げた。頭部に刺さった保命銀針が激しく振動し、脳髄に焼き付くような電撃を走らせる。心臓に宿る残陽の熱毒が、右腕の経絡へと怒涛の如くなだれ込んだ。革の包帯の下で、経絡が物理的に焼き切れる凄絶な音が響き、皮膚から赤い血の霧が噴き出す。だが、その激痛すら、落行の澄み切った瞳を曇らせることはなかった。


 彼は地を蹴った。「砂海歩法」を極限まで駆動し、泥濘む足場を滑るようにして空中に身を躍らせる。彼の身体は、赤い彗星のように奈落の空間を横切った。


「残陽――一閃!」


 落行の右手が、錆びた鉄剣を完全に引き抜いた。その瞬間、万蛇窟の暗黒が物理的に両断された。


 それは剣撃というよりも、凝縮された太陽の爆発だった。錆びついていた無銘の刃が、血のような赤熱を帯びて輝き、空間全体に真っ赤な熱風の波を放つ。落下する小泥の身体の真下を、落行の放った赤い一閃が通り抜けた。その圧倒的な剣気と熱量により、小泥を飲み込もうとしていた底の蛇どもは、一瞬にして灰へと焼き尽くされ、万蛇窟の底には赤黒い焦土だけが残された。


 落行は空中で左腕を伸ばし、落下する小泥の小さな身体をしっかりと抱きとめた。彼女の涙で濡れた顔が、落行の胸元に押し付けられる。


「ひ、開け! 防げっ!」

 石舞台の上で、蠍三が狂ったように叫んだ。彼は自らの「五毒功」の内力を最大に高め、特製の「毒蠍鞭」を激しくしならせて防御の壁を作ろうとした。彼の鞭術「蠍尾針」が、不規則な軌道を描いて赤光の波に対抗する。


 しかし、残陽の一撃の前に、凡庸な武功は何の役にも立たなかった。落行の放った熱風が鞭に触れた瞬間、鋼鉄を編み込んだ鞭は一瞬にして赤熱し、液体となって蒸発した。そして、赤い閃光は一寸の衰えもなく蠍三の肉体を通り抜けた。


「ば、馬鹿な……岳天行様……の罠が……」

 蠍三は白濁した鬼眼を大きく見開いたまま、その場に凝固した。次の瞬間、彼の身体は斜めに真っ二つに裂け、切り口から噴き出した血が熱風で瞬時に蒸発しながら、左右へと崩れ落ちた。鉄血沙門の副門主であり、養父を裏切った仇敵の一人が、ここに塵へと帰したのだ。


 徐青風と冷骨は、残陽一閃の余波である凄まじい熱衝撃波に吹き飛ばされ、万蛇窟の石壁に激突した。彼らの武器は激しく振動し、手首の骨が軋むほどの衝撃に、二人は驚愕の表情を浮かべて息を呑んだ。名門崑崙派のプライドも、影沙の冷酷な暗殺術も、この絶対的な「一撃必殺」の破壊力の前には、ただの子供騙しに過ぎなかった。


 落行は小泥を抱いたまま、焦土と化した万蛇窟の底へと静かに着地した。彼の左手は、錆びた鉄剣を再び黒い「残陽の特製鞘」へと収めた。カチリ、と冷たい金属音が暗闇に響く。


 その瞬間、代償が支払われた。


「ガハッ……!」

 落行の口から、沸騰した油のような黒い熱い血が噴き出した。右肩の秘孔から黒い血が噴水のように噴き出し、右腕の経絡は熱毒の暴走によって完全に焼き焦げ、皮膚は炭のように黒く変色した。保命銀針による痛覚遮断すら耐えきれず、右手の指先から完全に感覚が消失していく。肉体が内側から崩壊していく凄絶な感覚が、落行の意識を暗黒の深淵へと引きずり込もうとする。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん、目を開けて!」

 小泥が落行の胸にしがみつき、激しく泣き叫びながら彼の顔を揺さぶる。しかし、落行の身体は急速に冷たくなり、右腕は氷のように凍りついて動かなくなっていた。彼の胸元に浮かぶ「残陽の寿命刻印」である黒い日輪の痣が、不気味にその光を一つ失い、残り抜刀回数が「十一回」になったことを冷徹に示していた。


 蠍三は死んだ。しかし、万蛇窟の闇の奥から、彼らの異変を察知した鉄血沙門の残党たちの、松明の光と不気味な足音が再び近づいてくる。動けない落行と、泣き叫ぶ小泥。奈落の底で、新たなる死の包囲網が静かに狭まり始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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