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錆びた鉄剣、抜かぬ誓い

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砂が哭いていた。黄砂の混じる乾いた熱風が、辺境の町「落日鎮」を容赦なく叩きつける。赤土の荒野に佇むこの泥臭い宿場町は、朝廷の支配が及ばぬ無法地帯。馬賊や悪徒が跋扈し、常に乾いた血の匂いが漂う、命の価値が最も軽い場所だった。


 その町の一角に掲げられた、古びた「落日酒家」の看板が風に揺れて軋んだ音を立てる。引き戸を押して中に入ってきたのは、粗末な灰色の布衣を纏った一人の少年だった。


 蕭落行、十八歳。


 痩せ型だが、その佇まいは飢えた狼のように鋭い。彼の右腕には、肩から指先にかけて黒い革の包帯が幾重にも固く巻きつけられていた。そして背中には、一本の剣を背負っている。装飾の欠片もない、錆びだらけの無銘の鉄剣。それこそが、彼の養父であり唯一の家族であった蕭長風の遺品だった。


 落行が店内の隅にある薄暗い卓に腰を下ろすと、カウンターの奥から禿げ上がった頭に白い髭を蓄えた老人が、眠そうな眼光を向けて近づいてきた。この酒場の主人であり、かつて蕭長風と共に戦場を駆けた元軍斥候長、胡爺である。


「……見慣れん顔だな。こんな砂嵐の日に、何の用だ」


 胡爺は泥を塗ったような濁った安酒を卓に置きながら、低く掠れた声で言った。その視線は、落行の背中にある錆びた鉄剣の柄に一瞬だけ留まり、激しく揺れた。蕭長風の剣。その特徴的な形状を、かつての戦友が忘れるはずがなかった。


「風を避けにきただけだ。それと……情報を」


 落行の声は、年齢に似合わず冷たく、静かだった。


「この町を支配する『鉄血沙門』。その門主である狂沙刀・屠万里は、今どこにいる」


 その名が口にされた瞬間、酒場の中の空気が氷結したように強張った。胡爺の顔に深い皺が刻まれ、その奥にある瞳が鋭い警告を放つ。彼は声を潜め、落行に身を乗り出した。


「小僧……その名をみだりに口にするな。命がいくつあっても足りんぞ。長風は……お前の養父は、お前にそんな無謀を教えたわけではあるまい」


「義父は死んだ」


 落行の言葉は短かった。右腕の黒い包帯の下で、ドク、ドクと不気味な脈動が走る。心臓から発する「残陽剣法」の熱毒が、復讐の意志に呼応して右腕の経絡を激しく焼き始めていた。胸元に刻まれた黒い日輪の痣が、衣服の裏で熱を帯びる。


「十二人の仇を討つ。そのために、俺はここへ戻ってきた」


「馬鹿者が」


 胡爺は吐き捨てるように言い、背を向けようとした。その時、酒場の大戸が乱暴に蹴り開けられ、荒々しい足音と共に数人の男たちが雪崩れ込んできた。首元に赤い蠍の刺青を入れた男たち。落日鎮の民を家畜のように搾取し、暴政の限りを尽くす馬賊集団「鉄血沙門」の下っ端どもだった。


「おい、胡のジジイ! 今月の『水銭』が足りねえぞ! 砂金でも何でもいい、早く出しやがれ!」


 先頭に立つ傷面の馬賊が、卓を叩きつけて怒鳴り散らす。酒場の中にいた数少ない客たちは、一様に息を殺して俯いた。逆らえば、その場で首を刎ねられる。それがこの町の絶対的な掟だった。


 馬賊たちの傍らで、床を這うようにして雑巾がけをしていた小さな影があった。泥にまみれた粗末な衣服を纏った、十歳ほどの少女、小泥だった。怯えに震える手で雑巾を絞ろうとしたその瞬間、彼女の手元が狂い、馬賊の汚れた革靴にわずかに泥水が撥ねた。


「あ、頭……す、すいません……!」


 小泥は青ざめ、床に額を擦りつけた。しかし、酒の回った馬賊がそれを許すはずもなかった。


「この泥棒猫が! 俺の靴を汚しやがって!」


 傷面の馬賊は激昂し、小泥の細い髪を乱暴に掴み上げて宙に吊り上げた。小さな身体が苦痛に歪み、か細い悲鳴が上がる。胡爺が助けに入ろうと一歩踏み出したが、別の馬賊がその胸元に冷たい刀を突きつけた。


「ジジイ、動くんじゃねえ。この餓鬼は、俺たちの『玩具』として砦に連れて行ってやるよ」


 小泥の大きな瞳から涙が溢れ、助けを求めるように周囲を見渡す。だが、誰もが目を逸らした。ただ一人、隅の卓で静かに安酒を口にしている灰色衣の少年を除いては。


 落行は静かに立ち上がった。その足音は砂を踏む音すら立てず、驚くほど無音だった。彼は小泥を掴み上げている馬賊の前に、静かに立ちはだかった。


「その手を放せ」


 落行の冷徹な眼光が、傷面の馬賊を射抜く。


「あぁ? 何だお前は。死にたい奴から並ぶってか?」


 馬賊は嘲笑い、小泥を床に投げ捨てると、腰の剛刀を抜いた。鋭い金属音が店内に響き、冷たい刃先が落行の首筋に向けられる。


 その瞬間、落行の右手が本能的に背中の鉄剣の柄へと伸びかけた。指先が錆びた柄に触れようとした、まさにその時――。


 ドクン!


 心臓を炎で直接焼かれたような、凄絶な激痛が落行の全身を駆け抜けた。右腕の経絡が激しく白熱し、皮膚の下を這う黒い痣が脈打つ。脳裏に蕭長風の最期の言葉が響いた。


『落行、残陽の剣は命を削る。些細な侮辱、雑魚の群れに対して決して剣を抜くな。お前の命は、真の仇を屠るためのものだ……』


 ――抜刀の禁忌。


 ここで剣を抜けば、己の寿命は確実に縮む。残り十二回しかない抜刀の機会を、このような下っ端の雑魚に対して消費するわけにはいかない。落行は歯を食いしばり、右腕の疼きを力ずくで抑え込むと、剣の柄からゆっくりと手を離した。


「ほう、ビビって手が震えてやがる。錆びたナマクラなんか背負って、侠客の真似事かよ!」


 馬賊は落行の躊躇を恐れと見なし、大振りの横薙ぎで剛刀を振り下ろした。空気を切り裂く鋭い風圧が落行の首筋に迫る。


 だが、落行の瞳にはその軌道が完璧に見えていた。彼は「砂海歩法」の揺らぎを使い、上半身をわずかに後ろに傾けるだけで、刃先を紙一重でかわした。泥濘を踏むような足さばきでありながら、その動きには一切の無駄がない。


「何っ!?」


 手応えのない空振りに馬賊が驚愕した一瞬の隙を突き、落行は一歩踏み込んだ。彼は背中の鉄剣を「鞘に入ったまま」左手で引き抜き、その重い黒鉄の鞘を滑らせるようにして馬賊の剛刀の側面に当てた。


 ――借力打力の理論。


 剛刀の放つ強烈な推進力を、落行は正面から受け止めず、鞘の表面で円状に受け流した。刀の軌道は大きく逸れ、自らの勢いを制御できなくなった馬賊の身体が前方に大きくつんのめる。


「ぐあぁっ!?」


 落行はその隙を逃さず、鞘の先端を馬賊の肘関節の秘孔へと正確に突き刺した。鈍い打撃音が響き、馬賊の腕の骨が軋む。激痛のあまり剛刀がその手から物理的に滑り落ち、床に突き刺さった。


「お、のれ……!」


 他の馬賊たちが一斉に落行を取り囲み、刃物を構えて突撃してくる。落行は冷静に呼吸を整え、左手だけで鞘を操りながら、襲いかかる刃を次々と弾き落とした。ある男の突きの力を逸らして隣の男の胸元へとぶつけ、同士討ちを誘発させる。その流れるような体術と鞘捌きは、抜刀せずとも彼らを圧倒するには十分すぎるものだった。


 わずか数呼吸の間。酒場の床には、関節を砕かれ、悶絶する馬賊たちが転がっていた。落行は息一つ乱さず、錆びた鉄剣を背中に収め直した。


 床に座り込んでいた小泥が、信じられないものを見るような目で落行を見上げていた。その澄んだ瞳に、畏怖と、それ以上の憧れの色が宿る。


「お、お兄ちゃん……すごい……」


 落行は彼女に視線を向けることなく、ただ冷たく言い放った。


「ここは危険だ。早く消えろ」


 その不器用な言葉の裏にある優しさに、胡爺は深い溜息をついた。やはりこの少年は、蕭長風の血肉を受け継いだ「侠客」なのだと確信しながら。


 だが、事態は静かに最悪の方向へと動き始めていた。


 関節を砕かれ、床に這いつくばっていた傷面の馬賊の斥候が、激しい息を吐きながら落行の背中を睨みつけていた。その視線が、落行が背負い直した「錆びた無銘の鉄剣」の柄に完全に固定される。錆のパターン、そして柄頭に刻まれた微細な長風の家紋。


「……その剣……間違いない。あの時の、蕭長風の……!」


 馬賊は恐怖と狂気に顔を歪めながら、這うようにして酒場の出口へと逃げ出そうとした。


「蕭長風の残党が生きてやがった……! 門主……屠万里様に報告しなきゃならねえ……!」


 退散していく馬賊の不穏な囁きが、乾いた風の中に消えていく。落行の持つ剣の正体が、ついに鉄血沙門の幹部たちに知れ渡るリスクが、落日鎮の闇の中に静かに浸透し始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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