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闇に放たれた針

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世界は、完全なる暗黒へと叩き落とされた。


 戒律堂の地下拷問室を照らしていた数十本の蝋燭が、突如として吹き荒れた冷たい一陣の風によって、同時にかき消されたのだ。立ち上る芯の焦げた臭いと、黒石の壁が放つ湿った冷気が、暗闇の中で急速に混ざり合っていく。


「な……何事だ!」


 雷震(ライシン)の怒鳴り声が、闇を切り裂いた。その声には、武功の達人たる威厳よりも、予期せぬ事態に対する本能的な動揺が混じっていた。


「沈(シェン)よ! 蝋燭を灯せ! 誰か外の番兵を呼べ!」


「首座、お待ちを……。外の気配が、妙に静かすぎます」


 沈の蛇のように低く湿った声が、闇の向こうから響く。彼の指先が、焦りと警戒から雷霆鞭の柄を強く握り締め、その鉄線が微かに擦れ合う冷たい金属音を立てた。


 鉄の枷で四肢を壁に固定された石頭(セキトウ)は、息を殺して暗闇の中に佇んでいた。背中の鞭傷からは、今も生暖かい血が流れ落ち、石の床に滴り落ちている。手首の骨に食い込む精鉄の重みに耐えながら、彼は目を閉じた。


(おじさんの……叩打音……)


 彼の脳裏には、昨夜、禁書室の天井から聞こえてきた規則正しい「トントン」というリズムが、今も鮮明に響いていた。その静かな拍子に自身の呼吸を合わせることで、背中を灼く激痛は、不思議と遠い世界の出来事のように感じられていた。「残照の不動心」――師が言葉なく授けてくれた精神の盾が、極限の恐怖の中で、石頭の心を静かに支え続けていた。


 その時、天井裏の梁の上――人知れず潜む影があった。


 みすぼらしい灰色の麻衣を纏い、右の袖を紐で結んだ男。葉無鋒(ヨウ・ムホウ)である。彼は「息吹遮断の法」を極限まで稼働させ、自身の呼吸と心拍を周囲の冷たい黒石の壁と同化させていた。雷震や沈がどれほど内力を研ぎ澄ませようとも、彼の真横にいるその気配を察知することは不可能だった。


 しかし、葉無鋒の肉体は、すでに限界を超えた悲鳴を上げていた。彼はこの拷問室に潜入する直前、自らの懐から取り出した三本の極細の「金針」を、自身の胸部と頭部の死穴に深く突き刺していた。――「金針逆行法」。ズタズタに千切れた経脈を強引に繋ぎ合わせ、廃されたはずの内力を一時的に引き出す禁忌の法。使用するたびに、彼の命の灯火は確実に削り取られていく。


(……時間がない)


 葉無鋒の左手の指先から、微かにどす黒い血が滲み、爪の隙間を赤く染めていた。しかし、彼の瞳は、暗闇の中で深淵な剣気の残光を宿し、冷徹に輝いていた。彼の「絶対聴覚」は、視覚を奪われた拷問室内のすべての動きを、完璧に捉えていた。


 沈が呼吸を整え、再び石頭に向けて動き出す気配がした。沈の指先が、毒の塗られた鉄針を逆手に持ち直し、石頭の喉元――「膻中穴」を正確に狙って突き出される。その針が空気を切り裂く、微かな、しかし鋭い「風切り音」が、葉無鋒の耳に届いた。


 葉無鋒は左手の親指と中指で、蔵書閣の床から拾い集めておいた小さな石粒を挟み込んだ。体内の壊れた経脈を逆流する熱い真気が、彼の指先に収束し、見えない「剣意」となって石粒を包み込む。


 ――無形指弾。


 シュッ、という音すら立てず、一筋の見えない光が空間を貫いた。


「がっ……あぁ!」


 暗闇の中で、沈の凄惨な悲鳴が響き渡った。彼が突き出そうとした右腕の肘――「曲池穴(きょくちけつ)」に、葉無鋒の放った精密無比な石弾が直撃したのだ。骨が砕けるような鈍い衝撃と共に、沈の右腕のすべての経絡が一瞬にして麻痺した。彼の手から、陰毒の塗られた鉄針が零れ落ち、石の床に「チリン」と軽い音を立てて転がった。


「沈! どうした!」


 雷震が驚愕し、腰の太刀の柄に手をかけた。金属が擦れ合う音が闇に響く。


(二発目……)


 葉無鋒は躊躇うことなく、二発目の指弾を放った。石弾は雷震が太刀を抜く寸前、彼の胸の中央――「膻中穴」へと正確に吸い込まれた。


 ドン、という肉を打つ低い音が響き、雷震の身体が激しく硬直した。彼の呼吸は完全に肺の中で塞がれ、太刀を握ったまま、一歩も動くことができなくなった。全身の経穴を貫かれ、真気の循環が完全に遮断されたのだ。


「な……なんだ、これは……。身体が……動かん……」


 雷震の額から、冷たい汗が吹き出す。彼は自身の「奔雷硬気功」を無理やり爆発させ、経穴の麻痺を強引に突き破ろうと試みた。彼の体内で、青黒い内力の奔流がうねりを上げ、経絡を伝って麻痺を押し流そうとする。


 しかし、天井裏の影は、その内力の胎動をも完全に見抜いていた。葉無鋒は三発目の指弾を放ち、雷震の背中にある「大椎穴」を撃ち抜いた。それは、雷震が練り上げようとした内力の起点をピンポイントで叩き潰す一撃だった。暴走しかけた内力は行き場を失って四散し、雷震は内臓を激しく揺さぶられて、暗闇の中でどっと吐血した。


「がはっ……! 怨霊……十年前の、残照の怨霊が……帰ってきたのか……」


 雷震の口から、恐怖に震える掠れた声が漏れた。十年前、蒼山派を血で染め、葉林を陥れたあの惨劇の夜。その闇の奥で輝いていた、圧倒的な「無形の剣意」の気配が、今、この暗黒の拷問室を満たしている。姿は見えない。しかし、確かにそこにいる「天下第一」の影が、彼らの魂を凍りつかせていた。


 沈は麻痺した右腕を抱え、恐怖のあまり床を這いずり回っていた。


「首座、逃げましょう……! ここには奴がいる! 奴の幽鬼が……!」


 葉無鋒は彼らのパニックを冷ややかに見つめながら、静かに梁から飛び降りた。彼の足音は、埃一つ立てない。彼は「息吹遮断の法」を維持したまま、石頭の前に立った。石頭は目を閉じ、目の前にある「見えないが、圧倒的に温かい気配」を、自身の魂で感じ取っていた。おじさんだ。言葉はなくとも、彼には分かった。おじさんが、自分のためにここにきてくれたのだと。


 葉無鋒は左手を伸ばし、石頭の手首を固定している精鉄の枷に触れた。彼の指先が、枷の裏側にある結合ピン(ボルト)を、微かな内力を用いて、外からは気づかれない程度に、しかし石頭自身の力であればいつでも引き抜けるように、僅かに緩めた。


 それは、無言の「脱出の機会」の提示だった。お前自身の力で、この檻を破れ、という無言の教えでもあった。


 その瞬間、葉無鋒の喉元から、熱い血の塊が突き上げてきた。強引に内力を巡らせた金針の代償が、彼の肉体を内側から破壊し始めていた。彼は衣服の袖で口元を覆い、静かに血を拭い去ると、再び音もなく天井の闇へと姿を消した。外の通路では、老徐が気配を消し、退路の安全を確保しているはずだった。


 やがて、麻痺が徐々に解け始めた雷震と沈は、恐怖に狂ったように互いを支え合いながら、拷問室の扉を強引に開けて外へと逃げ出した。


「蝋燭を……いや、この小僧をすぐに独房へ戻せ! 厳重に監視しろ! 趙狂烈掌門に報告するのだ!」


 雷震の悲鳴のような命令により、駆け込んできた番兵たちによって、石頭は枷から外され、冷たい独房へと引きずり戻された。彼らは石頭を即座に殺害する勇気を失っていた。あの暗闇に潜む「見えない強者」の恐怖が、彼らの刃を完全に鈍らせていたのだ。


 冷たい独房の床に放り出された石頭。彼は静まり返った暗闇の中で、自身の手首を見つめた。枷は外されているが、先ほど手首を固定していたあの鉄の感触が、脳裏に焼き付いていた。


 石頭はそっと自身の手首の枷の跡に触れた。そして、あの暗闇の中で、枷のボルトが「最初から緩んでいた」ことに気づいた。おじさんが、自分のために枷を緩めてくれたのだ。


 石頭の瞳から、一筋の熱い涙がこぼれ落ち、床の泥に吸い込まれていった。彼の胸の奥で、亡き父の血筋と、師父への絶対的な信頼が、静かに、しかし決して消えない炎となって燃え上がり始めていた。


「おじさん……あんたが、来てくれたんだな」

HẾT CHƯƠNG

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