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一瞬の残光

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松明の赤い炎が、禁書室の湿った闇を無慈悲に引き裂いた。


「立て、泥棒め。これ以上、地下で無駄な時間を過ごさせるな」


 戒律堂(かいりつどう)の役人たちが、石頭(セキトウ)の細い肩を乱暴に掴み、冷たい石床から引きずり出した。泥にまみれた石頭の胸元には、先ほど内力の暴走(走火入魔)によって吐き出した生暖かい血の跡が点々と残っていた。しかし、その衣服のさらに内側、肌に直接触れる場所には、小鼠が教えてくれた壁の隙間から手に入れた『蒼山秘録・断片』が静かに隠されている。


(絶対に、この本を見つけられてはならない。そして、おじさんのことも……)


 石頭は「残照の不動心」を極限まで稼働させ、奥歯を噛み締めて沈黙を貫いた。右肩の激しい打撲傷は、先ほど体得した「無名息吹法」の冷気によって一時的に麻痺していたが、役人たちに引っ張られるたびに鈍い痛みが走る。それでも、彼の瞳には怯えの色はなかった。


 背後では、今回の冤罪を仕組んだ外門弟子、張才(チョウ・サイ)が勝ち誇ったような冷笑を浮かべていた。


「葛洪長老の薬草園から、貴重な『紫血草』を盗み出した罪だ。言い逃れはできんぞ、石頭。お前のような卑しい雑役が、街の闇市場で書物や薬草を売って金に換えようとしたに決まっている。戒律堂の拷問室で、その頑丈な頭がいつまで持つか見ものだな」


 石頭は何も言わなかった。ただ黙々と歩く彼の丹田には、先ほどおじさん(葉無鋒)が天井を叩いた「トントン」という音のリズムに合わせて定着した、微かな「内力の種」が静かに息づいていた。その微小な気流が全身の経絡を巡るたび、彼の骨格はさらに強固に、鋼のように引き締まっていく感覚があった。


 彼らが蔵書閣の地下から引きずり出され、戒律堂の本堂へと連行される途中、外門演武場(がいもんえんぶじょう)を通りかかった。


 朝霧が立ち込める広大な石畳の演武場。そこには、現在の蒼山派の筆頭弟子であり、現掌門の息子である趙志高(チョウ・シコウ)と、その傍らに立つ狡猾な策士、周玉(シュウ・ギョク)の姿があった。


「待て」


 趙志高が冷酷な声で役人たちを呼び止めた。彼の細い目が、泥と血に汚れた石頭を値踏みするように見つめる。


「張才、こいつが例の泥棒か?」


「はい、趙兄貴! こいつの懐から不審な薬瓶が見つかりました。葛洪長老の薬草を盗み、街で売り捌こうとしていたに違いありません!」


 張才が揉み手をしながら、さらに嘘を重ねて告げ口する。


 趙志高は鼻で笑った。「ふん、のろまの石頭が薬草を盗む知恵などあるものか。だが……」


 趙志高は一歩前に踏み出した。彼の右掌には、かつて石頭の腹部を殴った「烈火掌」の微かな熱気が残っている。あの時、まるで鉄板を叩いたかのように硬かった石頭の肉体の手応えが、彼のプライドを今も苛んでいた。


「戒律堂の地下牢に放り込む前に、この小僧の不気味な体の秘密を、私の剣で暴いてやる」


 シャキィン、と鋭い金属音が朝霧を切り裂いた。趙志高が腰から抜いたのは、蒼山派の筆頭弟子のみに与えられる名剣「金蛇(きんじゃ)」だった。うねるような波紋が刻まれた黄金の刃が、冷たい光を放つ。演武場にいた他の弟子たちが、何事かと周囲に集まり始めた。


「趙兄貴、演武場での私闘は掟により……」


 連行していた役人が気まずそうに口を開いたが、趙志高の一瞥に射すくめられて沈黙した。周玉は渡り廊下の影から、腕を組んでその様子を凝視していた。彼の細い瞳には、獲物を監視する猛禽類のような冷徹な光が宿っている。石頭の「翌朝の完全な回復」に強い違和感を抱いている彼は、この対決で石頭の正体を暴くつもりだった。


「構えろ、石頭。それとも、その薄汚い箒で私の剣を受けるか?」


 趙志高が冷笑しながら、剣先を石頭の喉元へ向けた。


 石頭の手には、先ほど連行される際、反射的に掴み取った「古びた竹箒(ふるびたたけぼうき)」があった。葉無鋒によって新しい竹の枝で丁寧に補強されたその箒は、彼の唯一の拠り所だった。彼は箒を握り締め、おじさんの教えを思い出した。


(おじさんの箒の角度……三十度。力を逃がす。石板の溝……)


 石頭の心には不思議と恐怖はなかった。ただ、毎朝、蔵書閣の広場で落ち葉を掃いていた日常の動作が、頭の中で静かに回り始めていた。


「死ね!」


 趙志高が鋭く踏み込み、「狂風剣法」の最速の突きを放った。電光石火の如き一突きが、石頭の胸へと一直線に吸い込まれる。周囲の弟子たちが息を呑んだ。だが、石頭の体は、彼ら自身の予測を遥かに超える動きを見せた。


 石頭は意識して避けたのではなかった。彼の足は、蔵書閣の床に埋め込まれた「無字の古い石板」の幾何学的な凹凸をなぞるように、自然と右足を半歩スライドさせていた。「掃葉無形歩(そうようむけいほ)」――。ただ掃除を続けるかのような不自然なステップが、剣の軌道から彼の身体を完璧に外した。シュッ、と風を切る音が響き、趙志高の必殺の突きは、石頭の衣服の胸元を紙一重でかすめ、虚空を貫いた。


「な……!?」


 趙志高の顔に驚愕が走る。手応えがない。確実に仕留めたはずの突きが、まるで空気でも斬ったかのように躱されたのだ。


「偶然避けたか! この雑役風情が!」


 焦りと怒りに駆られた趙志高は、即座に手首を返し、横薙ぎの烈風の一撃を放った。剣気が半円を描き、石頭の胴体を両断せんと迫る。石頭は咄嗟に、手にした古びた竹箒を盾のようにして正面から受け止めようとした。


 ギギギィ! と激しい摩擦音が響く。しかし、名剣「金蛇」が放つ鋭い剣気は、竹箒の先端の細い枝を容赦なく切り裂いていく。箒が耐えきれずに裂ける感覚が、石頭の手のひらを通じて伝わった。


(ダメだ、正面から受け止めては箒が壊れる。力を逃がさなければ……)


 石頭は即座に回避運動に切り替えた。彼は箒を地面に強く押し当て、身体を低く沈めた。「落葉一掃(らくよういっそう)」――。石頭が箒を横に一閃すると、演武場の石畳の上に積もっていた大量の落ち葉が、突風に煽られたかのように螺旋を描いて舞い上がった。黄金色の枯葉の嵐が、気流の渦を作り出し、趙志高の視界を完全に遮る。


「うおっ!? 目が……!」


 落ち葉の渦に包まれ、視界を失った趙志高が狼狽した。その一瞬の隙を、石頭の肉体は見逃さなかった。彼の足は、石板の幾何学的な軌道に沿って、趙志高の死角へと回り込んでいた。そして、手にした竹箒の頑丈な柄を、趙志高の足首に向けて横に一閃した。


 バシィィン!


 硬い竹の柄が、趙志高の足首を正確に捉えた。


「がはっ!?」


 重心を完全に破壊された趙志高の身体が、宙に浮き上がった。彼は無様に回転しながら、演武場の隅にある湿った泥溜まりの中へと、顔面から叩きつけられた。


 ドシャッ!


 冷たい泥水が四方に飛び散り、蒼山派の筆頭弟子の華麗な道着は、一瞬にして黒い泥まみれとなった。演武場は、水を打ったような静寂に包まれた。役人たちも、張才も、周囲で見ていた弟子たちも、誰一人として言葉を発することができなかった。泥まみれになり、うめき声を上げながら這いつくばる趙志高。その目の前で、石頭はただ、折れた竹箒を両手で持ったまま、ぽかんとした無垢な表情で立ち尽くしていた。


「……なぜ、倒れたんだろう」


 石頭自身、自分が何をしたのか分かっていない様子だった。彼はただ、毎日の掃除の動作を繰り返しただけだったのだ。


 だが、その戦闘を渡り廊下の影から凝視していた周玉の顔からは、完全に血の気が引いていた。彼の脳裏に、十年前の恐るべき記憶が蘇っていた。


(あの、風を操り、落ち葉を円状に舞い上がらせる歩法……そして無駄のない足払い。間違いない。あれは十年前、天下第一と恐れられた葉無鋒の『残照剣法』の残招だ!)


 周玉の全身に、冷たい戦慄が走った。あの廃人が、生きている。そして、この愚鈍な雑役に技を伝授しているのだ。


(葉無鋒は死んでいない。あの蔵書閣の廃人雑役こそが……!)


 周玉は自身の発見の恐ろしさに歯をガタガタと震わせながら、回れ右をし、掌門・趙狂烈の居室へと全力で走り出した。


 その様子を、遠くの蔵書閣の軒下から、片腕で竹箒を持った煤けた灰色の衣服の男――葉無鋒が、冷徹な眼光で見つめていた。彼の「絶対聴覚」は、周玉の乱れた足音と、彼が心の中で呟いた恐怖の独白を、完璧に捉えていた。おじさんの薄い唇が、声を出さずに、微かに動いた。


(……脱出の時が、来たか)

HẾT CHƯƠNG

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