禁忌の暗闇
無名街からの帰り道、石頭(セキトウ)は泥まみれの竹籠を背負い、険しい山道を黙々と登っていた。懐には、銭大爺から貰った泥だらけの大根と、小梅がくれた緑色の小瓶――「百草液」が大切に仕舞われている。そして何より、幼い頃から肌身離さず持っている、亡き母・蘇氏の形見であるお守り袋が、彼の胸元で静かに冷たい感触を主張していた。
銀虎の鉄棘の棍棒を頭部で砕き、金虎の蹴りを腹部で弾き返したあの路地裏での出来事から、数時間が経過していた。石頭の身体に、目立った外傷は一切ない。瘤一つできていなければ、内臓が裂けるような痛みもない。ただ、骨の芯が、氷水を流し込まれたかのように不自然に冷たく引き締まっている感覚だけが、未だに残っていた。天性の「金剛不壊・初門」が無意識のうちに目覚めた代償として、彼の肉体はかすかな熱を失い、深い疲労感に包まれていた。
(おじさんの言う通りだ。力を入れて踏ん張るんじゃない。ただ、衝撃を骨の奥へ逃がすんだ……)
石頭は歩きながら、自身の呼吸を整えようとした。しかし、自分がなぜこれほど頑丈なのか、その真実を彼はまだ知らない。ただ、蔵書閣のあの口の利けない片腕のおじさん――葉無鋒が、日常の労働を通じて自分に「生き延びる術」を授けてくれていることだけは、確信していた。
蒼山派の山門をくぐり、埃っぽい蔵書閣の敷地に入った瞬間、静寂を破る不快な声が石頭の耳を刺した。
「おい、のろまの石頭。ずいぶんと遅いお帰りじゃないか」
渡り廊下の影から姿を現したのは、外門弟子の張才(チョウ・サイ)だった。彼の背後には、数人の取り巻きの弟子たちが、意地の悪い笑みを浮かべて控えている。張才は、現在の筆頭弟子である趙志高に取り入ることで、最下層の雑役たちを支配している狡猾な男だった。昨日の演武場で、趙志高の「烈火掌」を浴びても平然と立ち上がった石頭の姿に、彼らは一様に不気味な苛立ちを募らせていたのだ。
「馬徳執事に命じられた買い出しは、すべて済ませました」
石頭は視線を落とし、従順な雑役を装って答えた。ここで反抗すれば、さらに厄介な事態になる。しかし、張才の目的は最初から、石頭を穏便に帰すことではなかった。
「ふん、嘘を言うな。お前が買い出しに出た後、蔵書閣の二階から、極めて貴重な古書が一冊紛失しているのが発覚したのだ。葛洪長老が大切に管理されている書物だぞ」
張才は一歩前に出ると、石頭の竹籠を乱暴に蹴り上げた。籠が転がり、銭大爺から貰った大根が泥の中に転がり出る。
「な……何も盗んでいません。私は二階には上がっていません」
「黙れ! 泥棒の分際で言い訳をするか。お前のような卑しい雑役が、街の闇市場で書物を売って金に換えようとしたに決まっている。おい、こいつの身体を調べろ!」
張才の合図で、取り巻きの弟子たちが一斉に石頭を取り押さえた。石頭は、自身の内に目覚めかけた「金剛不壊」の力を使えば、この程度の弟子たちを容易に吹き飛ばせることを直感的に理解していた。しかし、彼の脳裏に、蒼山派の厳格な掟がよぎる。――『雑役が武功の片鱗を見せれば、即座に手足を切断して追放する』。
ここで抵抗すれば、修行を隠していることが趙狂烈掌門に知られ、命を失う。それだけではない。正体を隠して自分を守ってくれている葉無鋒や、酒好きの老徐にも累が及ぶのだ。石頭は拳を握りしめ、ただ無抵抗のまま、彼らに身体をまさぐられるのを耐えた。
「張兄貴、懐にこんな薬瓶が入っていました! それに、この薄汚いお守り袋も怪しいです!」
弟子の一人が、石頭の懐から小梅の「百草液」を奪い取った。さらに、もう一人の手が、蘇氏の古いお守り袋へと伸びる。
「それだけは……触らないでください!」
石頭の瞳に、初めて鋭い光が宿った。彼の頑強な肉体が微かに緊張し、掴んでいた弟子の腕が、まるで鉄の棒を掴んでいるかのように硬直する。その異様な気配に、張才は一瞬身震いしたが、すぐに声を荒らげて誤魔化そうとした。
「なんだ、その目は? 盗っ人の分際で反抗するか! 証拠の書物は、すでにこのお守り袋の中か、あるいは地下のどこかに隠したのだろう。よし、こいつを地下の『禁書室』へ叩き込め! そこで頭を冷やし、罪を自白するまで出すな!」
張才は腰から、老徐の目を盗んで手に入れた「蔵書閣地下の鉄鍵」を取り出し、不敵に揺らした。それは、立ち入り禁止区域である地下室を封印するための、錆びついた巨大な鍵だった。
石頭は引きずられるようにして、蔵書閣の奥にある冷たい石段を下ろされた。湿った黴の臭いと、地の底から這い上がってくるような冷気が、彼の皮膚を刺す。突き当たりにあるのは、分厚い黒鉄でできた重々しい扉――「禁書室」の入り口だった。
ドン! と激しい衝撃と共に、石頭は暗い室内へと突き飛ばされた。石の床に膝を打ち、鈍い痛みが走る。
「そこで、じっくりと己の罪を悔いるがいい、この石頭め!」
ガチャン、と重い鉄扉が閉まり、間髪入れずに「蔵書閣地下の鉄鍵」が鍵穴の中で不気味な金属音を立てて回る音が響いた。完全に、閉じ込められたのだ。
光は、一瞬にして消え去った。
そこは、一寸先も見えない「禁忌の暗闇」だった。窓はなく、空気の流れもほとんど感じられない。壁は分厚い黒石で囲まれ、外の音は一切遮断されている。ただ、水滴が天井から床に落ちる「ポツン、ポツン」という冷たい音だけが、永遠のような静寂の中で不規則に響いていた。
「張才! 開けてください! 私は何も盗んでいません!」
石頭は立ち上がり、暗闇の中で手探りで鉄の扉へと近づいた。そして、自身の肉体の頑強さを信じ、肩を鉄扉に向けて全力で体当たりを試みた。
ドガァン!
凄まじい衝撃音が室内に反響したが、分厚い鉄扉は微動だにしなかった。それどころか、体当たりした石頭の右肩に、激しい挫傷の痛みが走った。金剛不壊の肉体であっても、内力の裏付けがない無防備な状態での激突は、自身の肉体を傷つけるだけだった。石頭は右肩を押さえ、激痛に顔を歪めてその場に崩れ落ちた。
(痛い……。くそ、力任せじゃ駄目だ……。おじさんなら、どうする……?)
時間の感覚が、徐々に失われていく。息を吸うたびに、埃っぽく冷たい空気が肺に侵入し、胸を圧迫した。閉ざされた空間の中で、空気は徐々に薄くなり、石頭の呼吸は次第に荒くなっていった。暗闇の恐怖と、昼間の戦闘による極度の飢えが、彼の精神をじわじわと蝕んでいく。目を開けても閉じても、世界はただの黒い深淵だった。孤独と絶望が、彼を押し潰そうとしていた。
石頭は泥の床の上に座り込み、膝を抱えた。そして、懐に残された「お守り袋」を両手で強く握りしめた。布地を通じて、内部にある冷たくて平たい金属のプレートの感触が指先に伝わる。それは、彼がこの世で唯一持っている、亡き母・蘇氏の温もりの象徴だった。
(母さん……。おじさん……。私は、負けない……)
石頭は焦る心を静めるため、目を閉じた。そして、毎日の水汲みや、銀杏の葉を掃くときに自然と行っていた「あの呼吸」を始めた。三秒かけて冷たい空気を吸い込み、三秒止めて、三秒かけて静かに吐き出す。丹田の奥で、微かな「気の揺らめき」が発生し、全身の血流が静かに整い始める。それは、葉無鋒が日常の使役を通じて彼の筋肉に刻み込んだ、精神の絶対防御――「残照の不動心」の超基礎だった。呼吸が整うにつれ、暗闇への恐怖は消え去り、彼の頭脳は驚くほど冷徹に冴え渡っていった。
その時だった。
静寂に包まれた禁書室の片隅から、微かな「カサカサ」という音が聞こえた。
石頭は耳を澄ませた。音は、床の埃を擦るような、極めて小さな足音だった。彼がそっと手を床に置くと、温かく、小さな毛並みを持った生き物が、彼の指先をかすめて登ってきた。
「チッ、チッ……」
それは、蔵書閣の天井裏に住み着いている小さなネズミ――「書庫の小鼠」だった。石頭が毎日、自分の乏しい雑穀米のパン屑を分け与えていた、唯一の小さな友だった。小鼠は石頭の腕を登り、彼の肩の上にちょこんと乗ると、その小さな髭を石頭の頬に擦り付けた。
「お前……助けに来てくれたのか?」
石頭の心に、不思議な温もりが広がった。小鼠は肩から飛び降りると、暗闇の奥へと向かって走り、再び「カサカサ」と音を立てた。まるで、自分について来いと言っているかのようだった。
石頭は膝をつき、小鼠の微かな足音と、かすかな爪の音を頼りに、暗闇の床を這うようにして進んだ。禁書室の最も奥深い、黒石の壁の前に辿り着いたとき、小鼠は特定の場所で立ち止まり、激しく壁を引っ掻いた。
石頭がその壁に手を触れると、そこには微かな、本当に微かな空気の流れ(換気口の隙間)が存在していた。そして、長年の風化によって、黒石の壁の一部が崩れ、大人の拳が入るほどの「古い壁の隙間」ができていることに気づいた。
石頭は息を止め、その崩れた壁の隙間に、自身の右手をゆっくりと差し入れた。
奥へ、さらに奥へ。指先が、冷たい石の感触を超えて、何かしっとりとした、埃まみれの古い羊皮紙のような束に触れた。何百年間も、誰も触れることのなかった、禁忌の遺物の肌触りだった。
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