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鉄血の洗礼

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蒼山派の夜明けは、骨を刺すような冷気と共に訪れる。山頂を包む濃霧は湿り気を帯び、蔵書閣の古い木造の隙間から容赦なく忍び込んでいた。窒息しそうな埃の臭いの中で目を覚ました石頭(セキトウ)は、寝返りを打った瞬間に背中を走った激痛に、思わず息を詰まらせた。


「……うっ」


 昨夜、外門執事の馬徳(バトク)から受けた容赦のない鞭の痕が、熱を持った赤黒い肉の溝となって背中に張り付いている。粗末な藁布団から起き上がるだけでも、全身の皮が引き裂かれるようだった。しかし、石頭の瞳に宿る光は少しも衰えていなかった。彼は静かに立ち上がり、枕元に置かれた古びた竹箒をそっと撫でた。それは昨夜、口の利けない片腕の雑用係――おじさんこと葉無鋒(ヨウ・ムホウ)から無言で手渡されたものだった。


 背中の激痛に耐えながら、石頭は蔵書閣を出た。今日の使役は、外門弟子たちが日々武功を競い合う「外門演武場」の清掃である。傷ついた身体を引きずりながら、彼は灰色の雑役服の襟を正し、冷たい石畳が広がる演武場へと向かった。


 演武場に到着した頃には、すでに朝霧の向こうから威勢のいい掛け声と、木剣がぶつかり合う鋭い音が響いていた。青い道着を身に纏った内門や外門の弟子たちが、誇らしげに剣を振るっている。その華やかな光景の隅で、石頭は黙々と箒を動かし始めた。石畳に積もった落ち葉や砂を掃く彼の動作は、一見すると不器用で、のろまに見えた。しかし、その足運びは、昨夜葉無鋒が示した「完璧な三十度」の角度を無意識になぞるように、微かに、だが確実に地を掴んでいた。


「おい、そこにいる泥人形」


 冷ややかな声が、演武場の喧騒を切り裂いた。石頭が手を止めると、そこには豪華な絹の道着を纏った傲慢な若者が立っていた。現掌門の息子であり、内門筆頭弟子である趙志高(チョウ・シコウ)だ。その背後には、熊のような巨躯を持つ王猛(オウ・モウ)が、太い腕を組んで不気味な笑みを浮かべている。


「趙志高様……」


 石頭は静かに頭を下げた。内力を持たない「不入流」の雑役にとって、彼らは天の上の存在だった。何より、蒼山派には「雑役武功修練の禁忌」という冷酷な掟がある。雑用係が少しでも武功の片鱗を見せれば、手足を切断されて山から放り出されるのだ。石頭はただ、従順な雑役を演じなければならなかった。


「馬徳から聞いたぞ。お前、昨夜鞭で打たれても悲鳴一つ上げず、平然と泥飯を喰っていたそうだな」


 趙志高は腰の長剣の柄を弄びながら、獲物を品定めするような目で石頭を見下ろした。


「私の『烈火掌(レッカショウ)』が、最近ようやく新たな境地に入ってな。だが、木人相手の修練では、本物の肉体がどう熱を吸収するのかが分からん。馬徳がお前のその頑丈な体を『実験台』に使えと言っていたぞ」


「私は、ただの雑役です。武功のことは分かりません」


 石頭は静かに答えたが、趙志高は聞く耳を持たなかった。顎で合図を送ると、背後にいた王猛が地響きを立てて一歩踏み出した。


「おい、その汚い箒をよこせ」


 王猛が太い手で、石頭が持つ竹箒の柄を掴んだ。石頭は無意識に、昨夜おじさんから教わった角度で箒を握り締め、奪われまいと抵抗した。その瞬間、王猛の顔に不快な色が走る。


「生意気な雑役め!」


 王猛が太い脚を蹴り上げ、竹箒の胴を容赦なく踏み折った。バキ、と鈍い音が響き、竹の繊維が引き裂かれて飛び散る。石頭の手には、折れた箒の虚しい半分だけが残された。これ以上箒を握り続ければ、武功を隠していると疑われる。石頭は苦渋の思いで力を抜き、折れた箒の残骸を床に落とした。武器を失った彼の両腕を、王猛が背後から万力のような怪力で羽交い締めにした。


「さあ、始めようか。石頭、その名に恥じぬ硬さを見せてみろ」


 趙志高が冷笑しながら歩み寄る。彼の右の掌が、じわじわと赤みを帯び、陽炎のような熱気が立ち上り始めた。烈火掌――内力を熱に変え、敵の経絡を内側から焼き尽くす恐るべき武功だ。


「ふんっ!」


 趙志高の鋭い踏み込みと共に、熱気を孕んだ掌が石頭の腹部へと叩きつけられた。


 ドゴォッ!


 鈍い衝撃音が演武場に響き渡る。強烈な熱風が石頭の衣服を焦がし、皮膚を通じて内臓へと熱気が侵入しようとした。凄まじい激痛が走る。しかし、石頭は悲鳴を上げる代わりに、全身の呼吸を完全に止めた。天性の「金剛不壊」の素質が、危機を察知して本能的に目覚めつつあった。彼は骨を極限まで硬化させ、趙志高の放った内力の衝撃を、自らの強靭な骨格の内部で受け止めた。


「何……?」


 趙志高は眉をひそめた。手応えが、まるで鉄板を叩いたかのように硬かったからだ。雑役が悶絶し、這いつくばる姿を期待していた彼のプライドが、微かに傷つく。


「王猛、もっと固く押さえておけ! この小僧、小癪な真似を!」


 背後の王猛がさらに力を込め、石頭の肩関節が悲鳴を上げる。趙志高は再び右掌を掲げ、今度はさらに強力な熱を帯びた一撃を放とうとした。


 迫り来る赤い掌を見つめながら、石頭の脳裏に、昨夜おじさんが示した「箒の差し出し角度」と、その時に感じた無言の重心移動の記憶が鮮明に蘇った。力任せに耐えるだけでは、いずれ骨が砕ける。彼は背後の王猛の拘束に対し、力で抗うのをやめた。代わりに、身体の力をふっと抜き、腰をわずかにスライドさせて自身の center of gravity(重心)を二寸だけ横にずらした。


 趙志高の烈火掌が、石頭の胸元に直撃した。


 しかし、直撃の瞬間、石頭の身体が微かに回転したため、掌の力のベクトルは正面から逸れ、彼の頑丈な肋骨の側面を滑るようにして地面へと逃げていった。衝撃波が石頭の足元の石畳へと伝わり、冷たい石板に微かな亀裂が走る。直撃を避けたとはいえ、皮膚は焦げ、肺の中の空気が一瞬にして押し出されるような衝撃が石頭を襲った。彼の口から、どす黒い血が飛び散り、石畳を赤く染めた。


「ガハッ……!」


「志高様、この小僧、何か妙な身のこなしを……」


 王猛が怪訝そうな声を上げた。確かに、今の打撃は完璧に命中したはずだったが、手応えが奇妙に軽かったのだ。しかし、趙志高は自身の武功が未熟だと思われたくない焦りから、王猛の言葉を遮った。


「黙れ! ただの愚鈍な雑役が、身のこなしなど知るわけがない。私の烈火掌の熱が、こいつの体内で暴れているだけだ!」


 焦燥に駆られた趙志高は、さらに三発、四発と、無防備な石頭の腹部や胸部を殴打し続けた。そのたびに、石頭は骨を硬化させ、重心を微細にずらして致命傷を避け続けた。口からは血が流れ、衣服は焦げてボロボロになっていく。それでも、石頭は決して膝を折らなかった。その泥まみれの顔の奥にある瞳は、冷徹なまでに静かで、趙志高の剣の軌道、手の動きを、じっと観察し続けていた。


「……不気味な奴め」


 十数回の打撃の後、趙志高はついに拳を止めた。息を切らし、額に汗を浮かべた彼は、どれほど殴られても気絶せず、ただ静かに自分を見つめ返す石頭の瞳に、名状しがたい薄気味悪さを感じていた。いたぶる愉悦は消え失せ、残ったのは底知れぬ寒気だけだった。


「おい、王猛。もういい、放してやれ。これ以上やれば、本当に死んで片付けが面倒になる」


 王猛は不満そうに鼻を鳴らし、石頭を床に放り投げた。石頭は泥まみれの石畳に倒れ込み、激しく咳き込んだ。吐き出された血が、冷たい風に流されていく。趙志高は吐き捨てるように言うと、足早に演武場を去っていった。周囲の弟子たちも、冷ややかな視線を一瞬だけ向けた後、何事もなかったかのように修練に戻っていった。


 嵐のような暴力が去り、石頭は演武場の片隅で一人、折れた竹箒の残骸を拾い集めた。全身は激痛に震え、一呼吸置くたびに胸が焼けるように痛む。しかし、彼の心には、怒りも恨みもなかった。ただ、「今日も生き延びた」という静かな安堵と、おじさんの教えが自身の命を救ったという確信だけが、彼の胸を温めていた。


 夜。静まり返った蔵書閣の一階雑魚寝部屋に、満身創痍の石頭が横たわっていた。焦げた衣服を脱ぐと、胸から腹部にかけて、烈火掌による痛々しい赤黒い火傷と、激しい内出血の打撲痕が広がっていた。骨の内側がズキズキと痛み、熱を持った皮膚が脈打つように疼く。


 その時、部屋の障子が音もなく開いた。暗闇から現れたのは、葉無鋒だった。


 彼は一言も喋らない。ただ、その手には、昼間に王猛によって折られたはずの竹箒が、不思議なことに、新しい竹の枝で丁寧に補強され、元の形を取り戻して握られていた。葉無鋒は石頭の傍らに歩み寄ると、その折れた箒の柄を、再び無言で差し出した。


 石頭は痛む身体を押して、這い上がるようにして起き上がった。そして、差し出された箒を両手で受け取った。箒を持つ手のひらが、微かに震える。


 葉無鋒は、石頭の向かい側に立ち、自身も別の竹箒を手にした。そして、左手一本で、極めてゆっくりとした動作で箒を動かし始めた。箒の先が床の埃を払う。その軌道は、床の木目に対して完璧な「三十度」の角度を保ち、滑らかに、何の淀みもなく流れていく。おじさんの足元を見ると、彼の古い布靴は、不自然なほど静かに、床板の上を滑るように移動していた。それは、昼間に石頭が演武場で無意識に行った、あの重心移動の足運びの「完全なる型」であった。


 石頭は、痛みを忘れてその動きに見入った。おじさんは言葉を一切発しない。だが、その箒の動き、足の運び方、そして腰の沈め方の一つ一つが、石頭の脳内に直接、武功の真髄を叩き込んでいた。


(おじさんは……私に、生きる術を教えてくれているのだ)


 石頭は、自身の内に宿る熱い感情を抑えきれず、深く頭を下げた。そして、折れた身体を無理やり動かし、おじさんの真似をして箒を動かし始めた。三十度の角度、滑らかな足運び、そして衝撃を地面に逃がす重心の移動。掃き掃除を繰り返すうちに、不思議なことに、体内の暴れていた烈火掌の熱気が、静かに足の裏から地面へと抜けていくような感覚を覚えた。背中と胸の激痛が、微かに和らいでいく。


 師弟は、闇深い蔵書閣の中で、ただ「ササ、ササ」と箒を動かす音だけを響かせ、無言の修練を深夜まで続けた。


 翌朝。蒼山は再び深い霧に包まれていた。


 石頭は、昨夜の激しい痛みが嘘のように軽くなっていることに驚きながら、蔵書閣の前の広場を掃いていた。焦げた火傷の痕は薄い黄色に変色し、骨の痛みは完全に消え去っていた。天性の「金剛不壊」の肉体が、昨夜の掃き掃除(歩法)による気の調整によって、驚異的な速度で自己治癒を完了させていたのだ。


 彼が黙々と箒を動かしているその姿を、遠くの渡り廊下の影から、一人の弟子が冷たい目で見つめていた。


 趙志高の知恵袋であり、狡猾な策士として知られる周玉(シュウ・ギョク)である。周玉は、昨日、趙志高が全力の烈火掌を何度も浴びせた雑役が、翌朝には何事もなかったかのように平然と掃除をしている様子を、じっと観察していた。その異常な回復力と、箒を動かす際の、微かに無駄のない足の運び方に、彼の鋭い目は言い知れぬ違和感を抱き始めていた。


(ただの愚鈍な雑役が、烈火掌を受けて翌朝に立っているはずがない……。あの足の動き、どこかで見たことがあるな……)


 周玉の細い瞳に、冷酷な疑念の光が宿った。その視線は、静かに掃除を続ける石頭の背中に、じっと注がれ続けていた。

HẾT CHƯƠNG

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