毒蠍の影
嵐が去った後の蒼山は、乳白色の濃い朝霧に包まれていた。濡れた杉の葉の匂いと、泥の湿った気配が、蔵書閣の古い木壁を通り抜けて一階の雑魚寝部屋へと漂い込んでくる。朝の光は灰色で、埃まみれの格子窓から弱々しく差し込み、床の上にまだらな影を落としていた。
石頭は藁布団の上で目を覚ました。強烈な喉の渇きが、彼の喉頭を焼き尽くさんばかりに襲っていた。前夜、拷問の傷を癒すために体内で「無名息吹法」の呼吸を繰り返し、内力を循環させた代償だった。傷口が急速に塞がる過程で、体内の水分が極限まで失われていたのだ。渇きに耐えかね、口唇はひび割れ、舌の根が強張っている。
「水……」
かすれた声を漏らし、石頭は立ち上がろうとした。台所の隅にある、あの巨大な水瓶に満ちた冷たい湧き水を思い浮かべ、無意識に足をそちらへ向けようとする。しかし、泥の床に足を下ろそうとした瞬間、彼の指先が懐の「蘇氏の古い守り袋」に触れた。
お守り袋は昨日の鞭打ちの衝撃で布地が裂け、中の金属プレートの冷たい感触が直接肌に伝わってくる。だが、その隣に、昨日までは存在しなかった「異物」があることに石頭は気づいた。丸く、硬く、微かに漢方の苦い匂いを放つ小さな丸薬――「避毒丹」だった。
(これは……?)
石頭が困惑して視線を上げると、薄暗い部屋の奥、車椅子に座ったまま微動だにしない葉無鋒の姿が目に入った。煤けた灰色の麻衣を纏い、右袖を寂しく結んだその男は、相変わらず一言も発しない。ただ、半ば閉じたその鋭い眼光が、一瞬だけ石頭の懐のお守り袋へと向けられ、続いて静かに顎を引く動作を見せた。
言葉はなかった。だが、その無言の視線には、逆らうことを許さない絶対的な重みがあった。石頭の脳裏に、前夜おじさんが肘を叩いて送ってきた「警告のリズム」が蘇る。あの水瓶には、何かが仕掛けられているのだ。
石頭はおじさんの意図を察し、誰にも見られぬよう、懐の中でその丸薬を指先で摘み取った。そして、唾液と共にそれを一気に飲み下した。冷涼で苦い気流が喉を通り抜け、胸の中央で静かに広がる。それは、体内の経絡の周囲に目に見えない防壁を築くような、不思議な感覚だった。
その直後、蔵書閣の入り口の重い木扉が、ギィと不快な音を立てて開いた。
「おい、雑役ののろま。朝だぞ、いつまで寝ている」
入ってきたのは、蒼山派の下級使用人の衣服を着た、小柄な男だった。手には汚れた雑巾と水桶を持っている。表向きは、朝の清掃のために派遣された雑役のように見えた。男は猫背で、卑屈な笑みを浮かべながら、一階の床を拭き始めた。
しかし、石頭の五感は、その男の不自然さを敏感に捉えていた。男の足運びは、一見すると不器用で、泥を擦り付けるように歩いている。だが、その重心の移動は極めて滑らかで、足音がほとんど響かない。何よりも、男が歩くたびに、微かに右足を引きずる独特の癖があった。そして、その指先は……不自然なほど黒ずみ、壊死したような不気味な色を帯びている。
(おじさんの合図通りだ。この男が、昨夜水瓶に近づいた奴……「毒蠍」なんだ)
石頭は「残照の不動心」を極限まで高め、表情を完全に消した。ここで恐怖を見せたり、相手を睨みつけたりすれば、すべてが破綻する。彼はただの「喉が渇いて死にかけている愚鈍な雑役」を演じなければならなかった。
拷問室の近くで、老徐はすでに起きていた。彼は入り口近くの古い本棚に背を預け、手にした瓢箪から安酒をあおるふりをしながら、大きな鼾をかいて居眠りを装っている。酒の酸っぱい匂いが周囲に漂い、老徐の体はだらしなく揺れていた。毒蠍は老徐を一瞥し、鼻で笑うと、再び石頭の動きにその冷酷な視線を戻した。
石頭は、ふらつく足取りを装いながら、台所の隅の水瓶へと歩み寄った。喉の渇きは本物だった。水瓶の木蓋に手をかけ、それを持ち上げる。中には、無色透明の澄んだ水が満ちている。だが、その水面には、昨夜滴下された遅効性の猛毒「五毒散」が完全に溶け込んでいるのだ。
毒蠍は床を拭く手を止め、その鋭い視線を石頭の喉元へと集中させた。男の呼吸が、わずかに浅くなる。獲物が毒水を飲み干し、その経絡が腐食し始める瞬間を、一秒たりとも見逃すまいとする暗殺者の執念だった。
石頭は木製の柄杓(ひしゃく)を手に取り、冷たい水を一杯にすくった。水を口元へと運ぶ。その距離はわずか数寸。
(老徐さんが言っていた……「古い書物を整理するときは、文字だけを見るな。文字と文字の間の、何もない『隙間』を見ろ。そこに、書いた者の真の意図が隠されている」と)
石頭は、柄杓の縁越しに、毒蠍の「隙間」を観察した。男の身体は完璧に使用人を装っている。しかし、彼の右手の指先が、無意識のうちに袖口の裏側へと滑り込んでいる。そこには、暗器が隠されているに違いない。男は、もし石頭が水を飲むのを拒否すれば、その場で力ずくで抹殺する準備を整えているのだ。
逃げ道はなかった。飲むふりをするしかない。
石頭は意を決し、柄杓を傾けた。冷たい水が、彼の唇に触れる。
ゴク、ゴク、ゴク……。
石頭は大きな音を立てて、喉を鳴らしながら水を貪り飲む動作を始めた。しかし、彼の喉は実際には一滴の水も飲み込んでいなかった。彼は「掃葉無形歩」の重心移動の応用で、頭部をわずかに前方に傾け、顎を引き、広い肩と粗末な灰色の雑役服の分厚い襟元を完璧な「盾」として利用していた。
柄杓から注がれた水は、石頭の唇の端から溢れ、彼の顎を伝って、首元に巻かれた厚い麻の襟巻きの中へと、音もなく吸い込まれていった。さらに、余った水は、彼の太い左袖の裏側へと滑り落ち、泥の床へと静かに滴り落ちていく。
毒蠍の目からは、石頭が渇きのあまり、猛烈な勢いで毒水を gulping(一気に飲み干している)しているようにしか見えなかった。男の口元に、歪んだ、勝利を確信した笑みが浮かびかける。
しかし、その瞬間、毒蠍の笑みが凍りついた。
石頭の喉の動き(嚥下のリズム)が、実際に水を飲み込んでいるにしては、微かに速すぎたのだ。さらに、水瓶からすくい取られた水の量と、石頭の服の袖口から泥床に滴り落ちる「不自然な濡れ跡」が、暗殺者の鋭い観察眼に引っかかった。
「……待て」
毒蠍の掠れた声が、湿った空気の中に冷たく響いた。男は拭き掃除の雑巾を床に放り捨て、ゆっくりと立ち上がった。その瞳から卑屈な光が消え去り、底知れぬ残虐な殺気が剥き出しになる。
「のろまの石頭。貴様、今、何を袖に流した?」
毒蠍は一歩、踏み出した。男の右腕が、不自然な角度で袖の奥へと引き絞られる。その袖口の暗闇の中で、鉄のバネが軋む「カチリ」という微かな金属音が響いた。必殺の毒針「毒尾針」が、いつでも放たれる状態で、石頭の喉元へと照準を合わせる。
石頭は柄杓を握り締めたまま、冷や汗が背中を伝うのを感じた。張り詰めた静寂の中、毒蠍の醜い冷笑が、蔵書閣の闇を切り裂こうとしていた。
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