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忍び寄る血の牙

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荒れ狂う嵐が去った後の蒼山(そうざん)の夜は、重苦しい湿気と静寂に包まれていた。濡れた瓦から滴る雨水が、蔵書閣の軒下で不規則な音を立てている。その冷たい水音だけが、闇に沈んだ古い木造建築の中に響き渡っていた。


 一階の隅にある、元は物置だった狭い雑魚寝部屋。石頭(セキトウ)は薄い藁布団の上に結跏趺坐(けっかふざ)し、静かに呼吸を整えていた。背中を切り裂いた戒律堂での沈(シェン)の鞭傷は、小梅(シャオメイ)が届けてくれた「活血散(かっけつさん)」の薬力と、自らの内に目覚めかけた「無名息吹法」の循環によって、驚異的な速度で塞がっていた。破れた皮膚が収縮し、鬱血が消え去っていく感覚が、心地よい痒みとなって全身を巡る。


 石頭はそっと懐に手を入れ、色褪せた古い「蘇氏のお守り袋」に触れた。鞭打ちの衝撃で外側の布地が微かに裂け、その隙間から、冷たくて平たい黒い精鉄の角――「蒼山掌門鉄令(そうざんしょうもんてつれい)」の一部が指先に触れる。彼はまだ、これが自身の本当の血筋を示すものであることを知らない。ただ、この冷たい鉄の重みが、過酷な拷問に耐え抜いた彼の心を静かに支えていた。


(おじさん……老徐(ロウ・ジョ)さん……。僕は誰も裏切らなかった。おじさんの秘密も、絶対に守り抜いた……)


 石頭の瞳に、素朴ながらも強固な「不動心」の光が宿る。しかし、彼が安堵の息を漏らした瞬間、蔵書閣の空気の温度が、一瞬にして氷点下まで下がったかのような錯覚に襲われた。


 それは、目に見えない「殺気」の到来だった。


 同じ頃、蔵書閣の暗い闇の奥深く。車椅子に深く身を預けた葉無鋒(ヨウ・ムホウ)は、目を閉じたまま、自らの気配を極限まで消し去っていた。彼が実践しているのは「息吹遮断の法(いぶきしゃだんのほう)」である。心拍数を常人の半分以下に落とし、呼吸の音すらも古い柱の軋みと同化させる。そうすることで、彼の五感は、特にその「絶対聴覚(ぜったいちょうかく)」は、周囲数百メートル以内のあらゆる微細な振動を捉える神の耳と化すのだ。


 昼間、石頭を救うために無理に「金針」を用いて経脈をバイパスした反動が、葉無鋒の胸を灼くような激痛となって襲っていた。喉の奥に込み上げるどす黒い血を、彼は無言で飲み下す。左手の爪の隙間から、微かに血が滲んでいた。だが、そんな極限の肉体疲労の中でも、彼の耳は、蔵書閣を取り囲む森の異変を完璧に察知していた。


 濡れた草木をかき分ける、極めて軽い、しかし組織的な足音。それは一人や二人ではない。数十人の武芸者が、一定の距離を保ちながら蔵書閣を完全包囲している。趙狂烈(チョウ・キョウレツ)が放った暗殺集団「血牙門(けつがもん)」の包囲網だ。


 そして、その中から、一人の影が、音もなく蔵書閣の裏庭へと滑り込んできた。


(……足幅が狭く、重心が極端に低い。歩むたびに、微かに右足を引きずるような独特の癖。呼吸は極めて浅く、肺から漂うのは……硫黄と苦い乾草の臭い)


 葉無鋒の脳内に、侵入者の正確なビジュアルが構築される。それは血牙門の毒殺手、「毒蠍(ドクカツ)」であった。指先を毒で黒く染め、正面衝突を避けて影から人を殺す、卑劣極まりない暗殺者だ。


 毒蠍は、蔵書閣の一階の外壁に身を潜め、窓の隙間から内部の様子を窺っている。彼の狙いは、蔵書閣の唯一の飲料水である、台所の隅に置かれた巨大な水瓶(みずがめ)だった。


 その時、石頭は激しい喉の渇きを覚え、藁布団から立ち上がろうとしていた。拷問の傷を癒すために内力を循環させたことで、体内の水分が枯渇していたのだ。彼は暗闇の中、水瓶のある台所へと足を向けようとした。


(いけない、石頭。動くな)


 葉無鋒は目を閉じたまま、左手の指先を動かした。彼は声を出すことができない。聾唖の老雑役を装う十年の掟を、ここで破るわけにはいかないのだ。彼は左手の指先で、車椅子の木製の腕肘を、微かに弾いた。


 トントン……トトッ……トントン。


 それは、激しい雨漏りの滴が床を叩くような、極めて自然で、しかし一定の規則性を持った音律だった。かつて禁書室の天井裏から送られた、あの「警告のリズム」である。


 台所へ向かおうとした石頭の足が、ピタリと止まった。暗闇の中で、彼の耳がその音を正確に捉えていた。石頭は呼吸を止め、耳を澄ました。


 続いて、葉無鋒は小さく、掠れた、力のない「咳」を一つ漏らした。それは、死にかけた老人が吐き出すような弱々しいものだった。だが、その咳の周波数は、石頭の絶対聴覚にのみ、明確な「敵の侵入」を示す合図として届いた。


(おじさん……? 何かが、来ているのか?)


 石頭は「残照の不動心」を極限まで高め、自身の身体の動きを完全に停止させた。彼は気配を消し、台所の影にある古い棚の隙間に、音もなくその巨躯を滑り込ませた。


 その直後、台所の木窓が、外から音もなくスライドした。湿った夜風と共に、一人の小柄な影が、蛇のように這い入ってくる。緑色の薄汚れた衣服を纏い、目つきの鋭い男――毒蠍だった。


 毒蠍は、暗闇の中でも完全に視界を保っているかのように、迷うことなく巨大な水瓶へと近づいていった。彼の懐から、小さな陶器の小瓶が取り出される。その中に入っているのは、無色無臭の遅効性猛毒「五毒散(ごどくさん)」であった。これを一口飲めば、三日かけてじわじわと経絡が腐食し、最後には内臓を溶かして死に至る。


 毒蠍は、細い指先で水瓶の重い木蓋を、音を立てずにわずかに持ち上げた。


 その時、天井の太い梁の上の完全な暗黒から、葉無鋒の鋭い眼光が、毒蠍のその一挙手一投足を、冷徹に見下ろしていた。彼の左手には、すでに裏庭から拾い集めた小さな石粒が握られている。いつでもその指弾で毒蠍の脳天を撃ち抜く準備はできていた。だが、彼は動かなかった。ここで刺客を殺せば、趙狂烈に「蔵書閣に本物の高手(こうしゅ)がいる」ことを完全に証明してしまう。彼は石頭に、自身の力でこの危機を乗り越えさせるための「最初の試練」として、ただ静かにその様子を監視していた。


 毒蠍の小瓶から、青白い、不気味な光を放つ一滴の毒液が、静かに水瓶の水面へと滴り落ちていく。それは水に触れた瞬間、音もなく溶け去り、完全な無色透明へと姿を変えた。毒蠍の薄汚い口元に、冷酷な、そして勝利を確信した醜い笑みが浮かんだ。彼の背後に、不気味な血の牙が忍び寄っていることを、彼はまだ知る由もなかった。

HẾT CHƯƠNG

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