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宿命の胎動

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「おじさん……あんたが、来てくれたんだな」


 暗黒と湿気に満ちた戒律堂の地下独房。冷たい泥床に横たわる石頭(セキトウ)は、腫れ上がった手首に嵌められた精鉄の枷をそっと撫でた。おじさん――葉無鋒(ヨウ・ムホウ)が闇の中で施してくれた、枷のボルトの微かな緩み。それが、絶望の底に沈んでいた石頭の心に、消えない希望の火を灯していた。


 背中を切り裂いた沈(シェン)の鞭傷は、今も火を吹くように熱く、手首の骨は微細な亀裂によってズキズキと疼いている。しかし、石頭の精神は驚くほど澄み渡っていた。拷問の恐怖に屈することなく、師父の沈黙の掟を守り抜いたという自負が、彼の内に「残照の不動心」をより強固なものとして定着させていた。


 カサリ、と独房の鉄格子の向こうで微かな音がした。番兵たちが「残照の怨霊」への恐怖から、酒を飲んで持ち場を離れた一瞬の隙だった。


「アニキ……生きてるか?」


 闇の中から現れたのは、厨房の下働きをしている孤児の少年、小黒(ショウゴク)だった。煤に汚れた顔を涙で濡らしながら、彼は鉄格子の隙間から、泥にまみれた粗末な握り飯を差し入れた。


「小黒、お前、どうしてここに……」


「小梅(シャオメイ)姉ちゃんに頼まれたんだ。これ、アニキに渡してくれって。早く食ってくれ、番兵が戻ってくる!」


 石頭は頷き、震える手で握り飯を受け取った。小黒は周囲を警戒しながら、再び音もなく闇の中へと消えていった。一人残された石頭が握り飯を二つに割ると、その中から蝋紙に包まれた小さな包みが現れた。包みを開けると、中には二つの薬物が入っていた。一つは、山麓の薬草店で小梅が調合した打撲傷の特効薬「活血散(かっけつさん)」、そしてもう一つは、毒物の侵入を防ぎ経絡を保護する丸薬「避毒丹(ひどくたん)」だった。


 石頭は迷うことなく、まず避毒丹を口に含んで飲み下し、続いて苦い活血散の粉末を喉へと流し込んだ。生の鉄と乾燥した山根の混ざった強烈な苦味が、彼の喉を灼くように通り過ぎていく。薬が胃に落ちた瞬間、石頭は泥床の上で静かに結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢を取った。


(おじさんの呼吸を……あの図の通りに……)


 彼は目を閉じ、禁書室の壁の隙間で見つけた「無名息吹法」の呼吸リズムを開始した。三秒かけて吸い、三秒止め、三秒かけて吐き出す。


 かつて水汲み労働の中で無意識に体得していた「寒泉洗骨法(かんせんせんこつほう)」の冷たい真気が、丹田の底からゆっくりとうねりを上げて立ち上がる。活血散の薬力がその真気と融合し、熱い血流となって全身の経絡を巡り始めた。背中の鞭傷に血流が届くと、激しい痒みと共に、破れた皮膚が急速に収縮し、鬱血が消え去っていく。手首の骨の亀裂にも温かい真気が染み込み、細胞の隅々を接合していく。天性の「金剛不壊」の肉体が、薬力と内力を得て、常人の十倍以上の速度で自己修復を行っていた。石頭の呼吸は次第に深く、静かになり、独房の冷気さえも彼の肉体を引き締める糧へと変わっていった。


 *


 同じ頃、蒼山派掌門の居室。豪奢な錦の帳が垂れ下がる密室の中で、掌門・趙狂烈(チョウ・キョウレツ)は、 shiver(小刻みな震え)を隠せない手で茶杯を弄んでいた。彼の前には、内門の策士である周玉(シュウ・ギョク)が、冷や汗を流しながら平伏している。


「……もう一度言え、周玉」


 趙狂烈の声は低く、押し殺した殺気を孕んでいた。


「は、はい……。演武場での決闘の際、雑役の石頭が趙志高若様の突きを避けたあの足運び。あれは間違いありません。かつて風雲を巻き起こした、葉無鋒の『残照歩法』そのものでした。さらに、竹箒の一振りが放った気流の渦……。あれは、形を持たぬ剣気、『無形剣意』の片鱗に他なりません」


 ガシャァン!


 趙狂烈の手の中で、高級な磁器の茶杯が粉々に砕け散った。熱い茶湯が机の上に広がり、彼の高価な衣服を汚していくが、趙狂烈はそれを気にする余裕すらなかった。彼の脳裏に、十年前のあの惨劇の夜が鮮明に蘇っていた。


 前掌門・葉林を裏切り、毒を盛ってその地位を奪った夜。その背後で、右腕を斬り落とされ、経脈をズタズタに引き裂かれながらも、左手一本で見せない剣気を放ち、五大門派の包囲網を突破して消え去った「天下第一の剣聖」――葉無鋒の恐るべき立ち姿。


「葉無鋒……! あの廃人が、未だ生きて蔵書閣に潜んでいるというのか……。そして、葉林の遺児に、その呪われた技を伝承していると……!」


 趙狂烈の瞳に、十年前の恐怖が、醜い怒りとなって燃え上がった。もしあの男が復活し、石頭が正統なる掌門としての力を手に入れれば、自身の地位だけでなく、五大門派同盟との裏の利権もすべて崩壊する。朝廷の暗部「天策衛」との密約さえも露呈しかねない。


「生かしてはおけぬ……。絶対に、根絶やしにしなければならん」


 趙狂烈は机を叩き、密室の陰に控えていた影武者に命じた。


「血牙門(けつがもん)の赤煉(セキレン)を呼べ。今すぐだ。門派の正規の弟子は動かすな。あの蔵書閣を、塵一つ残さず闇に葬るのだ」


 *


 深夜、無名街の端にある廃寺の地下。趙狂烈から呼び出された血牙門の隊長・赤煉は、巨大な赤い大刀「血牙」を背中に背負い、野獣のような凶悪な笑みを浮かべて趙狂烈と対峙していた。


「おいおい、蒼山派の掌門様が、わざわざ俺たち裏社会の猟犬に何の用だ?」


 趙狂烈は無言で、ずしりと重い木箱を机の上に押し出した。箱の蓋が開くと、中には純度の高い「銀錠(ぎんじょう)」が、青白い光を放ちながらぎっしりと敷き詰められていた。赤煉の目が、金勘定の欲望でギラリと光る。


「蔵書閣にいる雑役どもを、一人残らず抹殺しろ。特に、片腕の廃人と、石頭という名の小僧だ。事故に見せかけて蔵書閣ごと焼き払っても構わん。確実に、奴らの首を持ってこい」


「へへ、簡単な仕事だ。金さえ貰えば、標的が地獄の果てに逃げようとも、俺の血牙がその肉を切り刻んでやるよ」


 赤煉は赤い大刀の柄を愛おしそうに撫で、低い咆哮のような笑い声を上げた。


 *


 大雨が降りしきる深夜。蒼山の嶺々は、黒い雲に覆われ、激しい雷鳴が轟いていた。雨粒が蔵書閣の古い瓦を激しく叩き、周囲の森は深い闇に包まれている。


 独房の中で、石頭は静かに目を開けた。彼の背中の傷は完全に塞がり、手首の痛みも消失していた。体内に満ちる真気は、以前よりも遥かに強靭に引き締まっている。しかし、彼の絶対聴覚は、嵐の雨音に混ざる「異質な不気味な気配」を敏感に察知していた。


 蔵書閣の周囲の深い森。濡れた草木をかき分ける、音のない複数の足音。雨水に濡れた金属が、微かに擦れ合う冷たい響き。


 森の境界から、黒い夜行衣を纏った血牙門の刺客たちの影が、次々と姿を現した。その中心に立つのは、大雨を浴びながら、背中に背負った巨大な赤い大刀の刀身を妖しく濡らす、暗殺隊長・赤煉だった。

HẾT CHƯƠNG

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