ビッグ・ベン・ギミックの鼓動
肺が焼けるように熱い。呼吸をするたびに、胸の奥で砕けたガラスが擦れ合っているかのような、凄絶な激痛が走る。
「カハッ……、くっ……!」
私は痛む胸を左手で強く押さえ、もつれる足を必死に動かして石畳を走った。右手の包帯からは、先日の蒸気バルブ破裂で負った火傷の痛みがズキズキと拍動している。だが、立ち止まれば確実に死ぬ。背後の広場には、まだ私を狙う第二の刺客――鉄歯車ギルドのシルヴィア・ボルトの照準が残っているのだから。
目指すのは、オルタナ・ロンドンの中心にそびえ立つ巨大な時計塔「ビッグ・ベン・ギミック」だ。そこの真鍮製の重厚な扉だけが、今の私に残された唯一の盾だった。
扉の前にたどり着いた私は、震える左手でポケットを探り、一枚の真鍮の鍵を取り出した。書庫の常連であり、地下蒸気配管網を管理する偏屈な技師ニコラスから、珍しい技術書を貸し出す見返りとして事前に借り受けていた管理用の合鍵だ。右手の火傷のせいで精密な動作が酷く制限され、鍵穴に差し込むだけで数秒のロスが生じる。その数秒が、永遠の地獄のように感じられた。
カチャリ、と鍵が回る音がした瞬間、背後で空気を切り裂く高圧蒸気の破裂音が響いた。
キィィィン――!
直後、私が頭を下げた扉の木枠に、シルヴィアの放った第二射が直撃した。凄まじい衝撃と共に真鍮の破片と木屑が弾け飛び、私の頬を鋭くかすめていく。私は悲鳴を飲み込みながら、こじ開けた扉の隙間へと滑り込み、内側から重い真鍮の閂(かんぬき)を力任せに下ろした。
ドォン、と扉の外側で何かが激突する鈍い音が響く。彼女が追ってきている。閂がどこまで耐えられるかは分からなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
暗い塔内に一歩足を踏み入れた瞬間、私の五感は圧倒的な金属の暴力に支配された。
ゴォォォォン……ゴォォォォン……。
ビッグ・ベン・ギミックの内部は、地上の静寂とは無縁の、歯車と蒸気機関が織り成す巨大な迷宮だった。見上げるほどに巨大な真鍮製の歯車が幾重にも噛み合い、不気味な白煙を吐き出す高圧蒸気パイプが縦横無尽に壁を這っている。油まみれの床、回転するシャフトの重低音、そして規則正しく時を刻む巨大な脱進機の金属音が、塔内の反響によって何倍にも増幅され、私の頭蓋骨を直接揺さぶった。
私は痛む胸を引きずりながら、狭い鉄製の螺旋階段を上り始めた。一段上るごとに、肋骨のひびが悲鳴を上げ、視界がチカチカと暗転する。
(彼女は来る。鉄歯車ギルドの『兵器の規律』に従うなら、標的の息の根を止めるまで、彼女の引き金が止まることはない)
私の「超記憶(アカシック・レコード)」が、脳内のデータベースから鉄歯車ギルドの戦闘教範を走査する。彼らは感情を去勢された戦闘人形だ。そしてシルヴィアが持つ「アイアン・メイデン」は、スーツケース状からわずか数秒で近接戦闘用の可変モードに変形する。この狭い塔内であっても、彼女の突撃を避けることは容易ではない。
カツン、と下層から微かな金属音が響いた。閂が突破されたのだ。
音もなく、だが確実に、死神の足音が階段を上ってくる。私は螺旋階段の途中に広がる、巨大な駆動歯車が噛み合う保守用のデッキへと逃げ込み、直径二メートルを超える大歯車の影に身を潜めた。周囲には熱い蒸気が立ち込め、視界を白く遮っている。
「……標的の熱源、および歩行音を感知」
霧の向こうから、感情の起伏が完全に削ぎ落とされた、鈴を転がすような少女の声が響いた。無表情な青い瞳に、機械的な光を点滅させるヘッドギアを装着した少女――シルヴィア・ボルトが、デッキの入り口に立っていた。彼女の手元には、狙撃銃から短銃身の近接放射モードへと変形した「アイアン・メイデン」が握られている。
「感情は銃身を狂わせる。対話は不要。ただ、引き金を引く」
彼女が機械的にそう呟いた瞬間、銃口から眩い火花が散った。
ドウゥン!
放たれた蒸気弾が、私の隠れていた大歯車の真鍮の歯に激突した。キィィンと耳を劈く跳弾の音が響き、弾け飛んだ鉄の火花と鋭い金属の破片が、私の古い司書服を容赦なく引き裂いていく。頬に鋭い痛みが走り、一筋の血が滴り落ちた。
「うあっ……!」
私は反射的に頭を抱えて床を転がった。だが、その激しい動きが肋骨のひびに障り、激痛で呼吸が完全に止まりかける。跳弾が周囲の鉄骨に当たってランダムに飛び散る中、私はさらに奥の配管の影へと身を縮めた。
ビッグ・ベン・ギミックの作動音は、今や最高潮に達していた。午後二時十五分。時計の鐘が鳴るタイミングだ。ガガガガ、と巨大なピストンが作動し、塔の最上階から「ゴォォォォン」という、鼓膜を物理的に押し潰すような大音響が鳴り響いた。
頭が割れるような衝撃。至近距離での大音響に、私の両耳は一時的な激しい耳鳴りに襲われ、キーンという高い金属音以外の音が一時的に聞こえなくなった。平衡感覚が狂い、視界が歪む。
(聞こえない……! だが、だからこそ、集中するんだ!)
私は「超記憶」を限界まで稼働させ、脳内で大音響のノイズを強制的にフィルタリングした。音のない世界の中で、私の脳はシルヴィアの銃の『排気プロセス』の視覚データと、かすかに皮膚に伝わる空気の振動を捉えようと狂ったように回転する。
シルヴィアが、大歯車の影から私のいる配管へと、ゆっくりと歩みを進めてくる。彼女が「アイアン・メイデン」のボイラー圧力を再び高め、排気弁から「プシュー」と白い蒸気を吐き出した、その瞬間だった。
私の驚異的な聴覚が、その蒸気の排気音の裏に隠された、極微細な『異音』を捉えた。
キィ、という、金属同士が不自然に擦れ合う、極めて小さな、しかし決定的な摩擦音。
(これだ……! 銃身のバレルが、高圧蒸気の過負荷に耐えきれず、右側に僅かに歪んでいる。その歪みは、およそ〇・一ミリ!)
私の脳内の「超記憶」が、鉄歯車ギルドの武器設計図と現在の音響データを瞬時に照合し、一つの答えを導き出す。彼女の「アイアン・メイデン」は、長年の酷使とメンテナンスの限界により、バレルに致命的な狂いが生じている。このまま最大圧力で引き金を引けば、高圧蒸気がバレル内で逆流し、彼女の目の前で銃自体が完全に爆発する――自爆の危機にあるのだ。
シルヴィアは、私のいる配管の角へと回り込んできた。銃口が、私の胸元に留まるエルフリーデの「緋ばらのヘアピン」を正確に捉える。
私は痛む胸を抑え、覚悟を決めて、わざと彼女の銃口の前に姿を現した。
「待ってくれ、シルヴィア!」
私は掠れた声を絞り出し、彼女の無表情な青い瞳を見つめて叫んだ。
「その銃、バレルが〇・一ミリ右に歪んでいる! このまま最大圧力で引き金を引けば、蒸気が逆流して自爆するぞ!」
私の叫びが、歯車の騒音を切り裂いた。だが、感情を去勢された彼女の指先は、微塵の躊躇もなく引き金へと掛けられていた。
「……見つけた。不良品」
歯車の隙間から、シルヴィアの冷酷な青い瞳が私を捉え、その銃口が、眩い閃光と共に火を噴いた――!
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