誓いのヘアピンと第二の照準
旧王立地下墓地(カタコンベ)の奥深くは、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁面に整然と並ぶ数百年分の遺骨が、天井の通気口から差し込む冷たい朝の光を浴びて、白く浮かび上がっている。
私の胸元に頭を預けていたエルフリーデが、微かに身じろぎをした。深紅のベルベットドレスが小さく擦れ、微かに甘い薔薇の香りが冷えた空気に溶け出す。彼女の銀髪のツインテールが私の司書服をくすぐり、私は無意識に息を詰めた。懐中時計の脈拍測定機能はすでに停止していたが、触れ合う彼女の体温と、トク、トクと刻まれる静かな鼓動だけで、彼女の心がどれほど穏やかになっているかが分かった。
「……レン」
エルフリーデが顔を上げ、その深紅の瞳で私を見つめた。その耳朶はまだ微かに赤みを帯びている。彼女の視線は、私の右手に留まった。高熱の蒸気バルブを叩き壊した際に負った、痛々しく腫れ上がった水ぶくれの痕。ズキズキとした痛みが、今も私の脳を刺激し続けている。
「その右手……本当に、馬鹿な人ね。私を殺すために送られた暗殺者なのに、どうして自分の身を犠牲にしてまで守るのよ」
彼女の声は、かつて書庫に侵入した時の冷徹な「死神」のものではなかった。そこにあるのは、一人の傷つきやすい少女の、震えるような本音だ。
「言ったはずです、エルフリーデさん。僕は君をただの道具として死なせたくない。僕が君の運命を書き換えます。この程度の火傷、本を整理している時にページの端で指を切るのと大差ありませんよ」
私は痛みを隠すように、不器用に笑ってみせた。エルフリーデは呆れたようにため息をついたが、その瞳には隠しきれない愛おしさと、深い罪悪感が揺らめいていた。彼女は私の首元――最初の夜に彼女が付けた、あの薄い刃の傷跡――をそっと指先でなぞり、それからドレスの胸元に手を伸ばした。
「……これを、あなたに預けるわ」
彼女が取り出したのは、真鍮で作られた美しいバラのヘアピンだった。中央には、朝光を浴びて妖しく輝く、血のように赤いルビーが嵌め込まれている。
「これは、私の家門の数少ない遺品……そして、私の『監視役の印』よ。緋ばらの結社の暗殺者たちに対して、『この男はエルフリーデの獲物であり、他者が手を出すことは許されない』という無言の証明になる。これをあなたの襟元に留めておきなさい」
エルフリーデは私の胸元に近づき、震える指先でそのヘアピンを私の古い司書服の襟へと留めた。至近距離から漂う彼女の香りと、ピンが固定される際の冷たい感触に、私の心臓が大きく跳ね上がる。彼女は作業を終えると、パッと顔を赤くして一歩下がった。
「か、勘違いしないでよね! これはあくまで、ギルドの目を誤魔化すための偽装なんだから! あなたが勝手に他の誰かに殺されたら、私の任務失敗になっちゃうでしょ!」
「ええ、分かっています。この誓いの重さ、確かに受け取りました」
私は襟元のヘアピンに触れ、優しく微笑んだ。彼女の好感度は完全に『保留(第三段階)』へと移行している。エルフリーデはギルドに対して「標的の精神的破壊を進行中」と偽の報告を上げ、私の「監視役」として動くことを承諾してくれたのだ。
私たちは地下墓地の出口へと向かい、地上の霧深い裏路地で別れた。彼女はギルドへの報告とゲオルグの動向を探るため、ロンドンの影へと消えていった。私は一人、包囲網が解かれた「真実の書庫」へと戻ることにした。
月曜日の朝。書庫の入り口を潜ると、古い紙の匂いと静寂が私を迎えてくれた。しかし、私の右手は包帯で厚く巻かれ、微細な作業ができないほどの痛みが残っている。さらに、同僚のジュリアンが執務室の陰から、私を呪うような陰湿な視線を向けているのを感じた。彼が秘密警察に密告したことは明白だったが、今は彼を相手にしている時間はない。私は「気弱な司書」のペルソナを維持しつつ、おどおどとした態度で自分のデスクへと向かった。
午後になり、私は必要な資料を抱えて、オルタナ・ロンドン中央広場へと足を運んだ。ガス灯の光が薄れ、無数の蒸気馬車が黒い煙を吐き出しながら行き交う、帝都の心臓部。石畳には冷たい霧が這い、行き交う人々は外套の襟を立てて足早に通り過ぎていく。
広場の中央にある、巨大な真鍮製の噴水の横を通りかかった、その瞬間だった。
私の「超記憶(アカシック・レコード)」が、周囲の環境の『微細な違和感』を瞬時に感知した。検索深度一。脳内のデータベースが高速で回転し、現在の状況と過去の平穏な広場のデータを照合する。
(鳥がいない。いつもなら噴水の周りに群がっている鳩たちが、一羽も残らず一斉に飛び立っている。それに、この風向きの乱れ……)
さらに、私の超感覚が、周囲の煤煙の匂いの中に、かすかな『鉄錆と高圧蒸気の匂い』を嗅ぎ取った。これは蒸気馬車の排気ではない。もっと純度の高い、軍用の精製黒炭石が燃焼した際の独特な青い煙の匂いだ。
冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。私は反射的に眼鏡の位置を直し、周囲を見渡した。ガス灯の光が霧に屈折する中、私の胸元に、一筋の極細の「赤い光」が重なった。
照準線(レーザー・サイト)だ。
その赤い点(ドット)は、私の司書服の襟元、エルフリーデから贈られた「緋ばらのヘアピン」のすぐ横、心臓の真上にぴたりと固定されていた。
(狙撃――!)
私の超記憶が、瞬時にその射線を逆探知する。広場の向こうにそびえ立つ、帝都の象徴。巨大な歯車が剥き出しで回転する時計塔「ビッグ・ベン・ギミック」の最上階。その真鍮の展望台の隙間から、一筋の冷たい銃身がこちらを向いているのが見えた。
そこにいるのは、鉄歯車ギルドが放った第二の刺客、シルヴィア・ボルト。彼女が構えているのは、自身で設計した可変式蒸気狙撃砲「アイアン・メイデン」だ。彼女は今、私を単なる『排除すべき不良品(標的)』と見なす、第一段階の「殺意」の状態で、冷酷に引き金に指をかけている。
逃げる場所はない。広場は開けており、物陰に走ったとしても、彼女の超人的な偏差射撃の技術の前には、背中を撃ち抜かれるだけだ。私の右手の火傷がズキリと痛み、一瞬だけ反応が遅れる。コンマ数秒の遅れが死を意味する極限の状況。
(風速、三・五メートル。噴水の水飛沫による湿度の上昇。彼女が風の排気音を計算して撃つ特性を逆用するしかない!)
私は左脇に抱えていた「真鍮プレート仕込みの防弾禁書」を、渾身の力で胸元の前に滑り込ませた。この本は、老製本職人ヴィクトルが、厚さ五ミリの軍用防弾真鍮プレートを仕込んで製本した特製本だ。重さは三キロ近くあり、負傷した右手では到底支えきれなかったが、左腕の力だけで心臓の前に掲げる。
次の瞬間、時計塔の上空で、耳を裂くような金属音と、高圧蒸気が爆発する「ギィィィン!」という銃声が響き渡った。
大気を切り裂き、目に見えないほどの超高速で放たれた高圧蒸気弾が、私の掲げた防弾禁書の正面へと直撃した。
ガギィィィィン!!!
凄まじい金属衝突音が広場に炸裂し、真鍮プレートと弾丸が激突した衝撃で、目の前で鮮烈な火花が飛び散った。本の革装丁が引き裂かれ、内部の真鍮プレートが弾丸の凄まじい回転エネルギーを物理的に受け止める。プレートはひしゃげ、弾丸の軌道を辛うじて右斜め上へと逸らした。
しかし、その衝撃波は尋常ではなかった。武力ゼロの私の華奢な体躯では、その物理的な質量兵器の衝撃を完全に吸収することはできなかった。
「カハッ……!」
肺の中の空気が一瞬で押し出され、私の体は文字通り後ろへと吹き飛んだ。視界が激しく回転し、私は広場の冷たい石畳の上へと激しく叩きつけられた。背中と頭部に強烈な衝撃が走り、さらに胸元から「メキッ」という不気味な骨のきしむ音が響く。
肋骨に微細なひびが入る、目の前が真っ白になるほどの激痛。
私は石畳の上でのたうち回りながら、必死に酸素を求めて喘いだ。口内に鉄の味が広がり、包帯の巻かれた右手でひしゃげた防弾禁書を強く握りしめる。本はボロボロになり、内部の真鍮プレートが剥き出しになっていたが、これがなければ私の心臓は一瞬で消し炭になっていただろう。
痛みに震える視界の先、遥か高高度の時計塔を見上げる。霧の向こうで、白銀のギアが回転する音が、私の驚異的な聴覚に不気味に響いてくる。シルヴィアはすでに、第二射、第三射の装填プロセスを開始しているはずだ。
この広場に留まれば、次の弾丸で確実に仕留められる。私は痛む胸を片手で押さえながら、歯を食いしばって立ち上がろうとした。死神の赤い照準線が、再び石畳の上を滑りながら、私の足元へと近づいてくる――!
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