霧に消える約束
「こっちです、エルフリーデ。走って!」
私は彼女の細い手首を掴んだまま、広場の喧騒を背にして、深い霧が立ち込める路地裏へと飛び込んだ。日曜日の午後一時前。オルタナ・ロンドンの下町を包む煤煙と水蒸気は、ガス灯の淡いオレンジ色の光を乱反射させ、視界を不気味な乳白色に染め上げている。
背後から、重い鉄鋲のついたブーツが石畳を激しく叩く音が響いてきた。バルツァー警部の右腕、ヴォルフガング・シュルツ巡査部長と、彼が率いる秘密警察の実動部隊だ。
「追え! あの二人は怪しい! ハワード伯爵家の者など嘘だ、ただの逢瀬にしては逃げ足が速すぎる!」
シュルツの邪悪な怒声が、湿ったレンガの壁に反響する。彼らの手元で、蒸気式の高圧フラッシュライトが幾条もの鋭い光の矢となって霧を切り裂いていた。光が私たちのすぐ後ろまで迫っている。
「レン、離しなさい! このドレスじゃこれ以上速く走れないわ。私が奴らをここで処理する。私の毒針なら、一瞬で――」
エルフリーデが走りながら、息を切らして叫んだ。彼女の着ている深紅のベルベットドレスは、走るたびに重く揺れ、彼女の俊敏な動きを物理的に制限していた。焦りと苛立ちから、彼女の左手が反射的に袖口の「緋ばらの毒針」へと伸びる。
「ダメです、エルフリーデ!」
私は走る速度を落とさず、彼女の手をさらに強く握りしめた。私の右手の中にある「真鍮の脈拍測定懐中時計」が、彼女の激しい動揺を百四十もの心拍数として伝えてくる。
「戦ってはダメです。僕の『不殺の誓い』を忘れたのですか? ここで警察を傷つければ、君は本当にこの国で生きていけなくなる。僕が君を救うと約束したはずだ。僕を信じてください!」
「っ……!」
エルフリーデは息を呑み、深紅の瞳を大きく見開いた。彼女の指先から、殺意の力がふっと抜ける。私は彼女を私の背後に庇うようにしながら、さらに狭い路地へと回り込んだ。
しかし、私の体力は限界に近づいていた。ただの図書館員である私の華奢な体躯では、鍛え上げられた秘密警察の歩幅に追いつかれるのは時間の問題だった。肺が焼けるように熱く、足が鉛のように重い。単純な駆けっこでは絶対に負ける。
(なら、知恵を使うだけだ)
私は走りながら眼鏡を指先で押し上げ、「超記憶」の領域を脳内で起動した。検索深度一。脳裏に展開されたのは、かつて書庫で丸暗記した『帝都蒸気配管総覧』の三次元地図だ。この「ガス灯通りの裏路地」の地下と壁面に張り巡らされた、無数の蒸気配管の設計図が、光るグリッドとなって私の視界に重なり合う。
(この先の角、右壁に高圧蒸気メインシャフトのバイパスバルブがある。圧力は現在、最大値。秘密警察の「包囲網突破プロトコル」に基づけば、彼らはこの狭い路地で一列の突撃陣形を取っているはずだ。ならば――)
「エルフリーデ、次の角を曲がったら、僕の指示に合わせて息を止めて、目を閉じてください!」
「え? ええ、わかったわ!」
角を曲がった瞬間、私の予測通り、目の前に巨大な真鍮製の蒸気配管と、赤く錆びついた手動バルブが現れた。私は小脇に抱えていた「真鍮プレート仕込みの防弾禁書」を強く握り直した。この本には、厚さ五ミリの軍用防弾プレートが仕込まれている。
「今です! 息を止めて!」
私は防弾禁書の角を、真鍮製のバルブの結合部に向けて、全体重を乗せて叩きつけた。
キン、と鋭い金属音が響いた直後、凄まじい破壊音が路地裏に炸裂した。ボルトが吹き飛び、亀裂が入った配管から、摂氏百度を超える過熱蒸気が「ギィィィィン!」という鼓膜を裂くような金切り声と共に一気に噴出したのだ。
「うあ熱っ……!」
バルブを破壊した際、私の右手に高熱の蒸気が微かに触れ、皮膚が焼けるような激痛が走った。しかし、私はその痛みを脳の片隅に押しやり、エルフリーデの手を引いてさらに奥の闇へと滑り込んだ。
真っ白な熱い蒸気霧が、路地を一瞬にして完全なホワイトアウト状態へと変貌させる。追ってきた秘密警察の部隊は、突如目の前を塞いだ熱水の霧に直面し、悲鳴を上げて足を止めた。
「ぐああ! 蒸気爆発だ! 目が、前が見えん!」
「下がれ! 配管が破裂したぞ!」
混乱する警察の声。しかし、シュルツ巡査部長の執念深い声が霧の向こうから響く。
「怯むな! 奴らはこの先にいる! ライトを照射しろ!」
彼らが蒸気の霧にライトの光を当て、私たちの影を捉えようとする。このままでは、霧が薄れた瞬間に見つかってしまう。私は最後の仕掛けを起動した。
「死線上の視線誘導(アイ・ディレクション)」
私は懐から真鍮の懐中時計を取り出し、そのガラス面に、警察が放ったフラッシュライトの光を正確に反射させた。その反射光を、私たちの進行方向とは全く逆の、左側の配管のバルブへと一瞬だけ走らせる。
「あっちだ! 左の影が動いたぞ!」
シュルツの部下たちが、反射光に惑わされて一斉に左側へと銃口を向け、捜索の動線を乱した。その一瞬の隙を見逃さず、私はエルフリーデを抱き寄せるようにして、路地の隅にある錆びついた鉄格子を潜り抜けた。そこは、帝都の地下に数マイルにわたって広がる「旧王立地下墓地(カタコンベ)」への隠された入り口だった。
鉄格子を閉め、私たちは暗黒の階段を静かに下りていった。頭上からは、警察が逆方向の路地を無駄に捜索する足音が、徐々に遠ざかっていくのが聞こえた。
尾行を、完全に撒いたのだ。
地下墓地の内部は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁面には、数百年前に埋葬された人々の遺骨が整然と並び、冷たく乾燥した空気が私たちの肌を刺す。かすかな月光が天井の通気口から差し込み、エルフリーデの深紅のドレスを妖しく照らし出していた。
「はぁ、はぁ……。ここまで来れば、安全です」
私は壁にもたれかかり、激しく喘ぐ肺を落ち着かせようとした。右手のひらを見ると、蒸気で赤く腫れ上がり、小さな水ぶくれができていた。痛みがズキズキと脳を刺激する。
「レン、あなた……右手が」
エルフリーデが私の手に気づき、ハッとしてその細い指先で私の右手を取った。彼女の冷たい指先が触れた瞬間、心地よい冷たさが痛みを和らげていく。
「どうしてこんな無茶をしたの? 私を置いて逃げれば、あなたは怪我をすることも、警察に追われることもなかったのに。私はあなたを殺しに来た暗殺者なのよ?」
彼女の深紅の瞳が、暗闇の中で微かに潤んでいた。その瞳の奥には、自分のような存在のために傷ついた私に対する、激しい罪悪感と、言葉にできないほどの愛おしさが混ざり合っていた。
「言ったはずです、エルフリーデさん」
私は痛む右手で、彼女の温かい手をそっと握り返した。懐中時計はもう動いていなかったが、私の指先には、彼女の胸の鼓動がはっきりと伝わってきた。それは、先ほどまでの激しい恐怖の脈拍ではなく、静かで、どこか切ない温もりを帯びた響きだった。
「僕は君を救うと約束した。君をただの道具として死なせたくない。僕が君の運命を書き換える。そのための怪我なら、安いものです」
エルフリーデは、私の言葉をじっと聞いていた。彼女の銀髪のツインテールが微かに揺れ、真っ赤に染まった耳が、彼女の隠しきれない本音を告げていた。
彼女はゆっくりと私の首元を見つめた。そこには、最初の夜に彼女が付けた、あの薄い刃の傷跡が残っている。
「……その首の傷も、私のせい。この右手の火傷も、私のせい。なのに、どうしてそんなに温かい目で私を見るの?」
彼女は、生まれて初めて「生きて愛されること」の温かさを、私の不器用な背中と、この傷だらけの手から感じ取っていた。ギルドの冷酷な掟、失敗すれば死という終わりのない恐怖。それら全てから、私が身を挺して彼女を守り抜いたのだ。
彼女の凍てついていた心が、今、完全に融解していく。
「……私の負けよ、レン」
霧の深淵、静寂に包まれた地下墓地の暗闇の中で、エルフリーデは力なく微笑んだ。彼女の好感度は、殺意から興味、そして完全に「保留(第三段階)」へと確定した瞬間だった。
彼女はそっと一歩踏み出し、私の胸元へと、その美しい銀髪の頭を預けた。ベルベットの柔らかな香りと、彼女の優しい体温が、私の冷え切った司書服を通して、私の心臓へと直接伝わってくる。
「もう、あなたを殺すことなんて……できないわ」
彼女の呟きは、暗黒の墓地の中に優しく溶けていった。私たちは、冷たい石の壁に背を預けながら、静かにお互いの体温を確かめ合っていた。しかし、この平穏が、さらなる過酷な「死線のデート」の始まりに過ぎないことを、私はまだ知る由もなかった。
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