オルタナ・ロンドンの恋人たち
ドサリ、と湿ったレンガの床に足が着いた。
「うっ……」
鼻を突くのは、鉄錆と長年蓄積された生活排水、そして高圧蒸気機関から排出された熱水の匂いだ。ロンドンの中層区の地下を網の目のように走る古い地下水路。薔薇の天蓋の個室に隠された秘密のハッチは、この暗黒の迷宮へと直結していた。
頭上からは、秘密警察の重い鉄のブーツが床板を踏み鳴らす音が、防音壁を抜けて微かに響いてくる。バルツァー警部の突入は一瞬の差で回避できたようだ。
「レン、こっちよ」
エルフリーデがドレスの裾を片手で持ち上げ、闇の中に深紅の軌跡を描きながら、音もなく私の隣に着地した。彼女の美しい銀髪ツインテールが、水路の壁に取り付けられた真鍮製ボイラーの排気口から漏れる、淡い蒸気の光に照らされて白銀に輝く。普段の漆黒の暗殺衣とは異なる、深紅のベルベットドレス。その可憐な姿は、この泥と煤に塗れた地下水路にはあまりにも不釣り合いだった。
私はマダム・ロゼッタから手渡された避難ルートのメモ地図を広げた。
「この水路を西へ進めば、中央広場の大噴水の裏手にある排水口に出られるはずです。行きましょう」
私は彼女の手を強く握りしめた。その瞬間、私の右手の中に握られた「真鍮の脈拍測定懐中時計」が、彼女の華奢な手首を通じて、激しい振動を伝えてきた。
チク・タク、チク・タク――ドク、ドク、ドク、ドク。
一分間に百三十回。彼女の心臓は、まるで壊れた蒸気機関のように激しく脈打っていた。
「……エルフリーデさん、まだかなり緊張していますね。心拍数が百三十を超えています」
「な、何よ。当たり前でしょう。秘密警察のバルツァー警部は、一度目を付けた獲物を絶対に逃さない『隻眼の悪魔』よ。ギルドの仲間だって、あいつに何人も捕まって……」
エルフリーデは唇を噛み、そっぽを向いた。しかし、私に引かれた手は、決して離そうとはしなかった。冷たい地下水路を歩く中、壁のガス灯の微光が、私の首元をかすめた。
エルフリーデが、ふと足を止め、私の首筋をじっと見つめた。そこには、彼女が最初に私を襲撃した際、極細の「緋ばらの毒針」によって刻まれた、薄い刃の傷跡が残っていた。
「……その首の傷」
彼女の声が、微かに震えていた。
「私が付けた傷よね。痛まないの?」
「これですか? もうすっかり乾いていますよ。司書は本を運ぶ時に、よく本の端で手を切ったりしますから、この程度の傷は慣れっこです」
私は努めて明るく笑ってみせた。エルフリーデは、深紅の瞳を大きく見開いた後、悲しげに伏せた。
「馬鹿ね……。本の傷と、暗殺者の毒針を一緒にするなんて。私はあなたを殺そうとしたのよ? なのに、どうしてそんなに優しくできるの……」
彼女の胸の奥にある、激しい罪悪感と、それ以上に膨らみつつある愛おしさの混ざり合った複雑な感情。懐中時計の振動が、彼女の心の揺らぎを私の指先に直接伝えてくる。私は彼女の手を少しだけ強く握り直した。
「言ったはずです、エルフリーデさん。私はあなたの運命を書き換えると。君をただの『人殺しの道具』として消費させはしない」
私の言葉に、彼女は息を呑み、ドレスの胸元をきゅっと握りしめた。彼女の張り詰めた殺意が、確実に温かい何かへと溶けていくのを感じた。
やがて、水路の先から、冷たい外気と、騒がしい都市の雑音が流れ込んできた。地上への出口だ。
「出口です。ここを登れば、中央広場だ」
私は錆びた鉄梯子を登り、重い鉄格子を押し上げた。しかし、地上に顔を出した瞬間、私たちは絶句した。
「……嘘でしょう」
エルフリーデが、私の背後で息を呑む。
オルタナ・ロンドン中央広場。普段は市民の憩いの場であるはずのその場所は、今や完全な包囲網へと変貌していた。広場を取り囲むように、黒い真鍮プレートで補強された秘密警察の重厚な蒸気馬車が何台も停車し、高圧ボイラーの排気口から白い蒸気を激しく噴き上げている。ガス灯の光と、馬車の強力なサーチライトが広場を白々と照らし出し、数十人もの武装した警察官が幾重にも検問線を敷いていた。
「バルツァーの奴、本気ね。このブロック全体を完全に封鎖しているわ。……レン、私のこのドレス姿じゃ、一歩歩いただけで怪しまれる」
確かに、エルフリーデの着ている深紅のベルベットドレスは、あまりにも美しく、そしてこの緊迫した広場には不釣り合いだった。彼女の手が、反射的に袖口の毒針へと伸びる。
「強行突破するしかないわ。私が露払いをする。あなたは私の影に隠れて――」
「ダメです!」
私は彼女の細い手首を強く掴み、引き止めた。「不殺(ノン・リーサル)の誓い」を破るわけにはいかない。それに、ここで警察を傷つければ、彼女は本当に帝国全体の敵となり、救済の道は完全に閉ざされてしまう。
「戦ってはダメです。僕に策があります」
「策? この状況でどうやって……」
私は懐から、ロゼッタさんが手配してくれた精巧な「偽造身分証明書」を取り出した。上流貴族の紋章が施された、極めて完成度の高い偽造証だ。
「これを使います。僕たちは、上流貴族の恋人同士だ。深夜の逢瀬を楽しんだ後、帰路につく途中でこの騒ぎに巻き込まれた……そういう設定で行きます」
「こ、恋人……!?」
エルフリーデの顔が一瞬にしてドレスと同じ深紅に染まった。銀髪のツインテールが激しく揺れる。
「な、何言ってるのよ! 私とあなたが、その、恋人のフリだなんて……! 冗談じゃないわ!」
「冗談ではありません。バルツァー警部の目を欺くには、これしかありません。エルフリーデさん、僕の腰に手を回してください。もっと密着するんだ」
「ひゃぅっ……!」
私が彼女の細い腰を引き寄せ、自身の胸元へと強く抱き寄せると、彼女は可愛らしい悲鳴を上げた。ベルベットの柔らかな質感と、彼女の体温が、私の司書服を通して直接伝わってくる。懐中時計の振動は、もはや壊れた機械のように激しくのたうち回っていた。
「……レン、私の心臓の音が、あの警部に聞こえてしまうわ」
彼女は私の胸に顔を埋め、消え入りそうな声で囁いた。その耳元が、恥ずかしさで真っ赤に染まっている。
「大丈夫です。僕を信じて、呼吸を僕に合わせてください」
密着する二人の前に、ついにあの男が立ち塞がった。
「おい、そこ。止まりなさい」
低く、地響きのような声。隻眼の鬼警部、バルツァー・クローネが、黒い軍服風の制服をまとって私たちの前に立ちはだかった。彼の右頬にある大きな傷跡が、ガス灯の光の下で不気味に歪んでいる。
私は瞬時に「気弱な司書」のペルソナを起動した。背中を丸め、眼鏡を指先でおどおどと押し上げる。
「は、はい! な、何でしょうか、警部様……? 私たち、何か悪いことでも……」
「深夜にこのような場所で、上流階級の娘を連れ回すとは、不審極まりないな。身分証を提示しろ」
バルツァーの鋭い隻眼が、私の顔と、私の胸に顔を埋めているエルフリーデを射抜く。私は震える手で、ロゼッタ特製の「偽造身分証明書」を差し出した。
「こ、これです……。私たちは、ハワード伯爵家の末端に連なる者でして……。その、親の目を盗んで、夜の散歩を……」
バルツァーは身分証をひったくるように受け取り、冷たい視線で確認する。ロゼッタの手配した偽造証は完璧だった。帝国の最高級紙と特殊なインクが使用されており、秘密警察の鑑識眼でも見破ることは不可能だ。
しかし、バルツァーのプロファイリングは、物証だけでは終わらない。彼の視線が、エルフリーデの「手の微細な震え」に留まった。彼女は私の背中に手を回しているが、その指先が、戦闘準備(毒針の起動)のために、かすかにピクリと動いていたのだ。
「……おい。そのお嬢さん、やけに手が震えているようだが?」
バルツァーの手が、腰の蒸気拳銃へと伸びる。
「警察を前にして、何か後ろめたいことでもあるのか。あるいは……懐に武器でも隠しているのか?」
緊迫感が、一気に臨界点へと達した。エルフリーデの指先が、完全に毒針を抜く動きへと移行しようとする。ここで針を抜かれたら、すべてが破綻する。
私は彼女の手を強く握りしめ、物理的に毒針の起動を制止した。
そして、私は「呼吸同調(シンクロ・ブレス)」を開始した。深く、穏やかな呼吸。吸って、吐いて。私は自身の呼吸の周期を、彼女の激しい鼓動と同調させた後、徐々に深く、遅くしていく。密着した胸を通じて、私の穏やかな呼吸のペースが彼女の肉体へと伝染し、彼女の激しい心拍が、物理的に落ち着いていくのを感じた。
さらに、私は彼女の肩を抱き寄せ、わざとバルツァーに聞こえるような甘い声で、彼女の耳元に囁いた。
「ごめんね、怖がらせてしまって……。でも、大丈夫だよ。僕が君を一生守るから。だから、もう怯えなくていいんだ」
「っ……!?」
エルフリーデの体が、一瞬にして熱を帯びたように硬直した。彼女の耳元が、警察への恐怖ではなく、私のあまりに直球な愛の囁きによって、さらに真っ赤に染まる。
「ほら、警部様。私の婚約者は、とても臆病な立ち振る舞いをしておりますが、ただ警察の皆様の威圧感に驚いてしまっているだけなのです。どうか、お許しいただけないでしょうか」
私はバルツァーに向かって、必死に気弱な笑みを浮かべた。
バルツァーは、耳まで真っ赤にして私の胸に顔を埋めているエルフリーデと、おどおどした私の姿をじっと見つめた。彼の隻眼の奥に、一瞬だけ、複雑な感触がよぎった。
(超記憶のデータにある……バルツァー警部は、かつて暗殺ギルドの抗争に巻き込まれて最愛の妹を亡くしている。彼は『恋人たちの幸せ』に対して、無意識のうちに一瞬の感傷を抱くはずだ)
私のプロファイリングは正しかった。バルツァーは深くため息をつき、身分証を私に投げ返した。
「……ふん。夜遊びも大概にしろ。こんな霧の夜は、何が起こるか分からん。さっさと帰るがいい」
「あ、ありがとうございます! 失礼します!」
私は何度も頭を下げながら、エルフリーデの腰を抱いたまま、検問線を通り過ぎた。
しかし、私たちはまだ、本当の危機を脱したわけではなかった。検問を抜けて広場の外縁へと歩みを進める中、背後から、冷酷で執拗な視線が私たちを追いかけてくるのを感じた。バルツァー警部の右腕、ヴォルフガング・シュルツ巡査部長が、不審な笑みを浮かべながら、私たちの背後を音もなく尾行し始めていたのだ。
「……レン、尾行よ。撒かなければ、書庫の場所まで特定されるわ」
エルフリーデが、私の胸元で低く囁いた。その声には、先ほどまでの照れは消え、冷徹な暗殺者の警戒が戻っていた。
「ええ、わかっています」
私は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、脳内の「超記憶」を作動させた。この先にあるのは、光の届かない、常に濃い霧が立ち込める「ガス灯通りの裏路地」。
(完全に撒いたわけではない。ここからが、本当の死線だ――)
私は彼女の手を強く握り直し、霧の深淵へと足を踏み入れた。
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