死線上のティータイム
「デート、だと……?」
深夜の『真実の書庫』。砕け散った天窓から冷たい夜霧が流れ込む執務室で、エルフリーデ・フォン・アルトハイムの深紅の瞳が、驚愕と不審に揺れていた。
彼女の右手には、かすり傷一つで心臓を即座に麻痺させる猛毒『ルナ・ポイズン』が塗布された、極細の真鍮製注射針「緋ばらの毒針」。それが、私の首筋に今なお冷たく押し当てられている。針の先が皮膚に薄く食い込み、そこから滴る一筋の鮮血が、私の仕立ての古い司書服の襟元を赤く濡らしていた。
「私を殺す前に、一度だけ私とデートをしてください」
私が告げたその突飛な提案は、死神の刃を突きつけられた人間が放つ言葉としては、あまりにも常軌を逸していた。足元には、先ほど彼女の不意打ちを避けるためにわざと落とした分厚い「帝都蒸気配管総覧」の本が、重々しく転がっている。
エルフリーデは美しい銀髪のツインテールを夜風に揺らしながら、氷のような冷笑を浮かべた。
「命乞いの方法としては、いささか独創的すぎるな、三等書記官。私がそんなふざけた戯言に付き合うとでも思うの?」
「ええ、付き合っていただきます。これは命乞いではなく、対等な『誓約』ですから。もしデートの後に、あなたがやはり私を殺すべきだと判断したなら、その時は抵抗せず、この首を差し上げましょう」
私は首筋に走る微かな痛みに耐えながら、穏やかに微笑んだ。私の右手の中にある「真鍮の脈拍測定懐中時計」は、彼女の細い手首に触れた肌を通じて、確かな振動を私の指先に伝えていた。
トク、トク、トク、トク――。
一分間に百二十回。極限まで鍛え上げられた一流の暗殺者にしては、あまりにも早すぎる心拍数。彼女は――怯えている。あるいは、激しく迷っているのだ。ギルドの非情な掟、任務に失敗した者は自らの最も美しい毒で命を絶たねばならないという『緋ばらの美しき終焉』のプレッシャーに、その華奢な肩を震わせている。
「……ふん。どうせ、お茶に毒でも仕込んで私を無力化するつもりでしょう? その程度の浅知恵、通用すると思わないことね」
「まさか。私は武力もなければ、人を害する技術も持たないただの司書です。それに、私の淹れる紅茶は、人を傷つけるためのものではありません」
私はゆっくりと両手を上げ、彼女の警戒を解くように一歩下がった。彼女の針が首筋から離れる。エルフリーデは深紅の瞳を細め、私の挙動を一挙手一投足見逃さないよう、鋭く監視しながら静かに顎を引いた。
「いいでしょう。暗殺の前の、ほんの短い『余興』として付き合ってあげる。ただし、妙な真似をすれば、その瞬間にあなたの喉笛を突き刺すわ」
「寛大なご決断に感謝します」
私は一礼し、執務室の隅にある、真鍮製の小さな蒸気式コンロへと向かった。配管から漏れる高圧蒸気のシュウシュウという音が、書庫の静寂に規則正しいリズムを刻んでいる。
私は「超記憶(アカシック・レコード)」を作動させ、脳内の膨大な知識の書架から、亡き母エミリが遺した極秘の調香レシピを瞬時に引き出した。使用するのは、東洋から極秘裏に輸入された幻の茶葉「アールグレイ・ロイヤル」。私は細心の注意を払いながら、その茶葉に特定の比率で乾燥させたハーブをブレンドしていく。
(アールグレイ・ロイヤルに含まれる特殊な柑橘系オイルと、このハーブの組み合わせは、ルナ・ポイズンの主成分である『月光草』の毒素を分子レベルで一時的に中和する。彼女が私を殺そうと毒を盛ることは、最初から予測できている。ならば、その先手を打つまでだ)
お湯が沸騰し、真鍮のケトルから白い湯気と共に、ベルガモットと甘美な花の香りが混ざり合った至高の香気があたり一面に漂い始めた。その香りを嗅いだ瞬間、エルフリーデの鼻腔が微かにひくつき、彼女の深紅の瞳が驚きに丸くなった。
「……変わった匂いね。ただのアールグレイじゃない」
「ええ、私の母が遺してくれた、張り詰めた神経を和らげる特別なブレンドです」
私は琥珀色の美しい液体を二つの磁器のカップに注ぎ、彼女の前に差し出した。しかし、私がカップを置くために一瞬だけ背を向けた、その刹那だった。
私の「コールド・リーディング(微表情分析)」が、彼女の視線のわずかな乱れを捉えた。エルフリーデの視線が、私の手元にあるカップへと不自然に固定される。そして、彼女の漆黒のドレスの袖口から、極小のスライドギミックが作動する微かな金属音が響いた。
(今だ。彼女は私のカップに、ルナ・ポイズンの抽出液を一滴落とした)
普通の人間の目には絶対に見えない、暗殺者としての神速の動作。だが、超記憶によるコマ送り映像のような私の脳は、彼女の指先から透明な一滴が私の紅茶に落ちる瞬間を、完璧に捉えていた。さらに、私の「絶対的味覚とブレンド調香」の嗅覚が、カップから立ち上る湯気の奥に、微かな『青臭い月光草の匂い』を瞬時に嗅ぎ分けた。
「お待たせしました。どうぞ」
私は何事もなかったかのように微笑み、自分のカップを手にした。エルフリーデは冷ややかな笑みを浮かべ、私が紅茶を口にするのを待っている。だが、彼女の手首に触れる懐中時計の振動は、さらに激しく、不規則に波打っていた。
「……飲まないの? 冷めてしまっては、せっかくの紅茶が台無しよ」
「ええ、そうですね。ですが、その前に一つだけ、面白いお話をさせてください」
私はカップを口元に近づけたまま、静かに彼女を見つめた。
「この紅茶から漂う、微かな甘酸っぱい香り……。これは『月光草』の匂いですね、エルフリーデさん」
彼女の身体が、一瞬にして凍りついた。深紅の瞳に、明らかな動揺と、底知れない恐怖が走る。
「なぜ……その名前を……!」
「私は真実の書庫の司書です。この世のあらゆる記録が、私の脳内には保存されています。そして、あなたのギルド『緋ばらの結社』が使用する猛毒『ルナ・ポイズン』の主成分が、月光草の抽出液であることも、その毒が特定の柑橘類とハーブのブレンドによって完全に中和されることも、すべて知っています」
私はカップをそっとテーブルに戻し、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「だから、私がこの紅茶を飲んでも、私は死にません。あなたの暗殺は、最初から失敗しているのです」
エルフリーデは絶句した。自分の絶対的な武器である「毒」が、目の前の無力な青年に完全に先読みされ、無効化されている。彼女のプライドは激しく揺さぶられ、その呼吸は急速に乱れていった。
私は一歩、彼女に近づき、「絶対的肯定」の傾聴法を用いて、その震える肩を見つめた。
「エルフリーデさん。あなたは、本当は誰も殺したくないのではないですか?」
「なっ……何を、ふざけたことを……! 私は、多くの人間を葬ってきた冷酷な暗殺者よ!」
「いいえ、あなたの脈拍は、私と出会ってからずっと異常に高い。それはターゲットを殺す興奮ではありません。ギルドの過酷な掟に怯え、自らの手を汚すことに深く傷ついている……そんな孤独な魂の悲鳴のように、私には聞こえるのです」
「黙れ……黙れ! お前に私の何が分かるというの!」
彼女は激昂し、再び毒針を構えようとした。だが、その手は先ほどよりも激しく震え、瞳には涙の膜が張り始めていた。私はその刃を恐れることなく、ただ優しく、彼女の孤独を受け止めるように微笑みかけた。
「分かります。この書庫にある本は、あなたの孤独も、その痛みの歴史もすべて知っています。私はあなたを傷つけるためにここにいるのではありません。あなたを、その暗闇から救い出すために、デートを提案したのです」
私の嘘のない、どこまでも温かい言葉が、彼女の張り詰めた心の防壁を内側から静かに溶かしていく。
エルフリーデは唇をきつく噛み締め、震える手でゆっくりと毒針を収めた。そして、私の言葉を確かめるように、自身の前に置かれた琥珀色の紅茶を見つめた。
「……もし、これがただの泥水だったら、その場でお前を切り刻んでやるわ」
そう言って、彼女は震える指先でカップを持ち上げ、その薄い唇を琥珀色の液体へと浸した。
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