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禁書と緋き死神の影

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オルタナ・ロンドン。夜の帳が降りた街は、立ち上る高圧蒸気の白煙と、煤煙の混じった重苦しい霧に包まれていた。ガス灯の鈍い黄金色の光が、窓硝子を濡らす雨滴を透かして、巨大な石造りの建物――『真実の書庫』の床に、歪んだ影を落としている。


レン・シノノメは、度の緩い眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、年季の入った三等書記官の制服の襟元を正した。十九歳の彼は、この広大で埃っぽい書庫で働く、ごく平凡な図書館員に過ぎない。少なくとも、表向きは。


「……さて、今夜の仕事に取りかかるとしようか」


レンは手元にある真鍮製のマスターキーを見つめた。それは、数年前に不審死を遂げた育ての親であり前代館長、サミュエル・シノノメの形見だった。サミュエルはレンに「本は人を傷つけるためではなく、守るためにある」という教えを遺した。そして、その言葉こそが、レンの「不殺」の誓いの原点となっている。


レンは音を立てないよう静かに歩き、書庫の最深部へと向かった。重厚な鉛の扉を開け、冷気が肌を刺す「地下零階・禁書庫」へと足を踏み入れる。そこは、帝国の公式歴史から抹消された禁書が、錆びた真鍮の鎖によって書架に繋がれている絶対暗黒の領域だった。


ランタンの灯りを頼りに、レンは特定の書架の前に立った。彼が探していたのは、サミュエルが遺した日記の暗号が示す、ある一冊の古書だった。鎖の鍵を開け、そっとページを開く。


その瞬間、レンの瞳が大きく見開かれた。


『先帝暗殺計画書――実行者:ヴァレリウス・オルロック』


そこには、現帝国宰相ヴァレリウスが先帝を暗殺し、その罪を無実の者に着せて権力を掌握したという、国家の根底を揺るがす血塗られた陰謀の全貌が、克明に記録されていた。


「――っ!」


視界に入った文字、署名、印章の形にいたるまで、レンの脳髄へと強制的に書き込まれていく。彼が持つ特異能力「超記憶(アカシック・レコード)」。一度見たものを完全に記憶してしまうその能力が、国家の最高機密を完璧に焼き付けたのだ。同時に、限界以上のデータ処理による焼き切れそうなほどの頭痛がレンを襲う。


こめかみを押さえ、レンは激しい眩暈に耐えた。脳裏をよぎるのは、幼少期にシノノメ家を襲ったあの凄惨な大火災の記憶。炎の中で消えていった最愛の妹リンの泣き声。あの火災もまた、この陰謀の証拠隠滅のために引き起こされたものだったのではないか――そんな疑惑が確信へと変わっていく。


「これが……僕たちの家族を奪った真実なのか……」


レンは静かに禁書を閉じ、鎖を戻した。すでに情報は彼の脳内にある。彼自身が「歩く最高機密」となったのだ。その代償の重さに震えながら、レンは地上階の執務室へと戻った。


温かいアールグレイでも淹れて、昂る神経を落ち着かせようと真鍮のケトルに手を伸ばした、その時だった。


ガシャァァァン!!


静寂に包まれていた書庫に、凄絶な破壊音が響き渡った。天井のガラス天窓が粉砕され、きらびやかなガラスの雨が降る。冷たい夜霧が室内になだれ込む中、天井から一本のワイヤーを伝い、しなやかな影が音もなく床へと舞い降りた。


月光を浴びて浮かび上がったのは、息を呑むほどに美しい少女だった。


美しい銀髪をツインテールにし、その奥で深紅の瞳が冷徹な光を放っている。身に纏っているのは、夜の闇に溶けるような漆黒のドレス風暗殺衣。彼女こそ、帝都で最も恐れられる暗殺ギルド『緋ばらの結社』が誇る若き超一流暗殺者、エルフリーデ・フォン・アルトハイムだった。


「動くな、三等書記官」


彼女の声は、凍てつく氷のように冷たかった。レンが反応するよりも早く、彼女は「無音歩行(サイレント・ステップ)」で一瞬にして距離を詰め、レンの背後に回り込んだ。首筋に、ひんやりとした金属の感触が押し当てられる。


それは、かすり傷一つで心臓を即座に麻痺させる猛毒『ルナ・ポイズン』が塗布された、極細の真鍮製注射針「緋ばらの毒針」だった。


「お前が『先帝暗殺計画書』を読んだことは分かっている。お前の脳をここで回収し、沈黙を保障するのが私の任務だ」


絶対絶命。武力ゼロのレンにとって、彼女は死神そのものだった。針が皮膚に食い込み、一筋の血が滴る。恐怖が全身の血を凍らせようとする中、レンは深く息を吐き、サミュエルの教えを思い出した。『恐怖に支配されるな。観察し、言葉を紡げ』。


レンは「気弱な司書」のペルソナを維持しながらも、静かに脳内の「超記憶」を作動させた。彼女の立ち振る舞い、呼吸のテンポ、そして指先の微細な動きをスキャンする。


(彼女は超一流だ。だが……何かがおかしい)


レンはわざと手元に抱えていた分厚い「帝都蒸気配管総覧」の本を床に落とした。重厚な音が書庫に響く。エルフリーデの深紅の瞳が、本能的にその音の方向へ一瞬だけ動いた。その時間は、わずか百分の数秒。


しかし、レンにとっては十分な隙だった。レンは降伏を示すように両手を上げながら、懐にある「真鍮の脈拍測定懐中時計」の竜頭を特定の回数だけ回した。そして、彼女の腕に自身の腕をそっと触れ合わせる。


チク・タク、チク・タク。


懐中時計の裏蓋から、レンの指先へと微細な振動が伝わってくる。それは、肌を通じて測定されたエルフリーデの脈拍だった。一分間に百二十回。極限まで鍛え上げられた暗殺者にしては、あまりにも心拍が早すぎる。彼女は――緊張している。いや、何かに怯え、迷っているのだ。


「……何をしている。命乞いなら無駄だ」


エルフリーデが不審そうに針をさらに押し付ける。しかし、レンは眼鏡の奥の瞳を穏やかに細め、優しく微笑んだ。


「私の首に刃を当てる前に、アールグレイの紅茶を一杯いかがですか?」


「……は?」


エルフリーデの冷徹な仮面が、一瞬にして困惑へと塗り替えられた。死を目前にした人間が放つ言葉としては、あまりにも常軌を逸していたからだ。


「君のような美しい方が、こんな湿っぽくて埃っぽい夜に、お茶も飲まずに仕事をするなんて体に良くありません。それに、君の手は微かに震えている。温かい紅茶を飲めば、少しは落ち着くはずです」


「ふざけるな! 私はお前を殺しに来た暗殺者だぞ!」


「ええ、分かっています。ですから、こう提案させてください」


レンは彼女の深紅の瞳を真っ直ぐに見つめ、不殺の誓いと覚悟を込めて言葉を紡いだ。


「私を殺す前に、一度だけ私とデートをしてください。それでも私を殺したければ、その時は喜んで私の首を差し上げましょう」


「デート……だと……?」


死神の刃を突きつけられた極限状態の中、平凡な司書が突きつけた奇妙なゲームの提案。その言葉に、エルフリーデの張り詰めた殺意が、一瞬だけ揺らぎを見せたのだった。

HẾT CHƯƠNG

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