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廃寺の血雨、繋ぎ止める手

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冷たい泥の臭いと、鉄錆に似た血の味が、時雨の意識の底にへばりついて離れなかった。


 共同墓地から廃寺の地下密室へと続く闇路地を、小夜は半死半生の時雨の身体を引きずりながら、ただ必死に走り抜けた。男装の薬師衣の裾は泥と血で黒ずみ、息を吸い込むたびに肺が焼けるように痛む。それでも、彼女は掴んだ時雨の腕を決して離さなかった。時雨の身体は、まるで沸騰した大釜のように異常な熱を帯び、皮膚の下では血管がのたうち回る蛇のように蠢いている。


「諦めるな……! ここで死なせるために、あんたを生かしてきたわけじゃない!」


 土壁が崩れかけ、本尊の頭が欠けた古い廃寺。その本尊の真下にある地下密室は、外の雨音や殺気が遮断された、暗く湿った極小の石室だった。小夜は時雨を冷たい石床に横たえると、即座に懐から携帯用の最小限の薬箱を取り出した。


 時雨の胸元からは、激しい紫色の蒸気が立ち上っている。玄馬から奪い取った「経流境」の荒々しい内力が、時雨の本来の逆脈の流れと激突し、体内で凄まじい「二重の暴走」を引き起こしていた。時雨の全身の毛細血管が次々と破裂し、皮膚の至る所から滲み出た血が、まるで赤い雨となって石床を濡らしていく。これこそが、逆脈の限界暴走がもたらす最悪の兆候――「血雨(けつう)」現象だった。


「くっ……内力の衝突が激しすぎる。通常の抑制薬じゃ、彼の経絡ごと心臓が吹き飛ぶわ……!」


 小夜の額から冷や汗が流れ落ちる。夜桜堂を焼かれ、ほとんどの医療資源を失った絶望的な状況。だが、彼女は諦めなかった。薬箱の底から、祖父の唯一の形見であるブロンズ製の薬研と鉢――薬草調合鉢「木霊(こだま)」を取り出す。この鉢は、叩くと微かに美しい金属音を響かせ、その振動によって薬草の細胞壁を破壊し、薬効成分の純度を極限まで高める力を持っていた。


 小夜は夜桜堂の焼け跡から奇跡的に回収した、極めて貴重な材料を取り出した。百草谷の最深部に生息する神聖な白蛇が遺した殻――「白蛇の脱皮殻(はくじゃのだっぴがら)」である。あらゆる熱毒や指法の残滓を浄化するフィルター効果を持つ、伝説的な医療材料だ。


「木霊、頼む……!」


 小夜は乳棒を握り、白蛇の脱皮殻と、わずかに残っていた「黒骨花」の根を鉢に放り込んだ。カン、カン、と、暗い石室に、澄んだ金属音が鳴り響く。その音波が鉢の中の薬草に伝わり、純白の脱皮殻が微細な粉末へと変わっていく。調合中、小夜は自らの微弱な医療内力を鉢へと流し込み続けた。それは彼女自身の精神力と体力を著しく消耗する作業だったが、時雨の命を繋ぐためには一秒の猶予もなかった。


 その頃、時雨の意識は、暗黒の深淵へと沈み込んでいた。


 音も光もない奈落の底。ただ、自らの胸元にある最初の「黒い痣」だけが、冷たく発光している。その暗闇の向こうから、一人の壮年男性の幻影が音もなく歩み寄ってきた。


 白髪交じりの端整な髭を蓄え、清潔な白い医師の衣を纏った、温和ながらも威厳のある姿。時雨の亡き実父であり、医術の師でもある神谷玄庵(かみやげんあん)だった。


「時雨よ」


 幻影の玄庵は、悲しげな、しかし射抜くような鋭い眼差しで息子を見つめた。


「お前の針は、人を救うためのものか。それとも、人を殺すためのものか」


 時雨は血塗れの己の手を見つめ、自嘲気味に笑った。


「救う? 笑わせるな、親父。俺の経絡は逆流し、余命は三ヶ月だった。人を救う綺麗事など、とっくにドブに捨てた。俺は生き延びる。そして、お前を無実の罪で処刑し、神谷一族を滅ぼしたあの太医院長――薬師寺玄真を、この手で地獄に引きずり下ろす。そのために、俺は達人たちの致命の『死穴』を喰らい続ける」


 玄庵は静かに首を振った。


「『天針九経(てんしんぎゃくこう)』の真の役割を忘れたか。死穴とは、単なる死の急所ではない。生命の力が最も強く凝縮された『生の結節点』なのだ。九つの死穴をすべて解放した時、生と死は反転し、お前の逆脈は完全な黄金の経絡へと再生する。だが、その道は、骨が砕け血を吐くような凄まじい肉体的苦痛と、一歩間違えれば即死する精神の試練を伴う。お前に、その覚悟があるのか」


「覚悟など、とうの昔に完了している。俺は泥を這ってでも、生き延びて復讐を果たす」


 時雨が強く拳を握りしめた瞬間、玄庵の幻影は微かに微笑み、霧のように消え去った。そして、暗闇の空間に「天針九経」の写本が浮かび上がり、その余白に、青い光を帯びた「隠し文字」が浮かび上がった。


『生死を反転させる鍵は、逆流の極限における調和にあり』


 ――現実の世界で、時雨の身体が激しく跳ね上がった。


「がはっ……!」


 時雨の口から、どす黒い血が噴き出す。体内では、玄馬の「蛇咬内力」が暴風雨のように荒れ狂い、主要な十二経絡を引き裂こうとしていた。小夜は調合を終えた薬液を、時雨の傷口と胸元の痣に直接塗り込み、さらに「黒鉄の太針」を時雨の首の後ろにある「風府穴」へと正確に刺入した。


「時雨、聞こえる!? 今から私の内力をあんたの経絡に流し込むわ。暴走する玄馬の力を、あんたの逆脈の流れに沿って滑り込ませるの。絶対に意識を失うな!」


 小夜は時雨の胸元に両手を当て、自らの「百草心経」の医療内力を全開にした。温和で澄んだ緑色の光が、小夜の指先から時雨の皮膚を透かして経絡へと侵入していく。


 ズズズ、ズズズズ!


 時雨の体内で、暴力的な紫色の内力と、小夜の優しい緑色の内力が激突した。時雨は「痛覚遮断瞑想法」を維持しようとしたが、脳髄を直接焼き焦がすような激痛がその防壁を容易に粉砕する。全身の血管が破裂寸前まで膨らみ、激しい熱気が石室を満たした。小夜の額からは大粒の汗が流れ、彼女自身の経絡も、時雨の逆流する内力に引っ張られて悲鳴を上げていた。


(小夜の内力が、玄馬の牙を包み込んでいる……。これを、逆脈の流れに……!)


 時雨は薄れゆく意識を牙で唇を噛み切ることで繋ぎ止め、体内の経絡の逆回転をさらに加速させた。小夜の医療内力をガイドにして、暴走する「蛇咬内力」を、逆流する螺旋の流れへとスムーズに滑り込ませていく。それは、一歩間違えればお互いの経絡が粉々に弾け飛ぶ、極限の騙し合いに似た精密な操作だった。


 どれほどの時間が流れただろうか。


 激しくのたうち回っていた時雨の血管が、徐々にその膨らみを収めていった。体表から立ち上っていた不気味な紫色の蒸気は静まり、胸元に浮かび上がった最初の「黒い痣」が、不気味な黒い光を放ちながら時雨の皮膚に完全に定着した。


 第一死穴開放状態の完全な安定。玄馬の内力は完全に同化され、時雨の体内で新たな生命の源泉となって回り始めた。余命は確実に、三ヶ月から「半年」へと延長されていた。


「……やった、わね……」


 小夜は安堵の呟きを残し、過度の内力消費と精神的疲労により、時雨の胸元に倒れ込むようにして意識を失った。彼女の顔色は紙のように白く、呼吸は極めて浅かった。


 時雨はゆっくりと目を開けた。視界は未だぼやけ、何よりも左耳の奥で、キィィィンという高周波の凄まじい耳鳴りが響き渡っていた。今回の暴走の代償として、彼の左耳の聴覚は大幅に低下していた。小夜が倒れ込むかすかな衣擦れの音すら、右耳でしか聞き取れない。


 時雨は感覚のない右手を諦め、動く左手で小夜の小さな頭を優しく撫でた。彼女の髪に残る薬草の香りと、その温もりが、時雨の冷え切った心に「生きたい」という本物の光を灯していた。


(小夜……すまない。俺のために、お前のすべてを奪ってしまった……)


 だが、安息の時間など一秒も与えられなかった。


 突然、地下密室の天井から、氷のように冷たい空気が流れ込んできた。それは単なる雨夜の冷気ではない。研ぎ澄まされ、一点の淀みもない、圧倒的に洗練された武人の「内力の気配」だった。


 廃寺の地上部分を、不気味な冷気が包み込んでいく。時雨の鋭敏化した感覚が、その気配の主の圧倒的な強さを捉えていた。これまでの黒蛇会のヤクザなどとは比較にならない、名門の「本物の天才」の降臨。


 乾坤指路門の本山から派遣された若き至宝――青嵐(せいらん)が、すでに烏有街に到着し、この廃寺の門前に迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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