最初の死穴、生死の反転
――ガキィ、と。泥濘の中に、肉と金属が衝突する鈍い音が響き渡った。
玄馬(げんま)の放った必殺の指法『蛇噛み(へびかみ)』。黒紫色の不気味な蛇の幻影を纏った鋼鉄の爪『蛇咬の鉄爪(じゃこうのてっこう)』が、時雨(しぐれ)の胸元、心臓の真上にある「最初の死穴(しけつ)」へと深く突き刺さっていた。鋭い刃先が麻の道着を引き裂き、皮膚を穿ち、その奥にある肉を容赦なく抉る。
「ガハハハハッ! 仕留めたぞ、この死に損ないが! 俺の勝ちだ!」
玄馬の狂気的な高笑いが共同墓地の冷たい夜気に響く。勝利を確信した彼の瞳には、目の前の哀れな獲物をいたぶり尽くす歓喜が満ちていた。背後で松明を持つ鉄次(てつじ)は、その凄まじい光景に恐怖して腰を抜かし、泥の中にへたり込んでいる。枯れ木の陰では、小夜(さよ)が息を止め、絶望に目を見開いていた。彼女の細い指先が、男装の薬師衣の袖を破れんばかりに握りしめている。
だが、突き刺した当人である玄馬の笑みは、次の瞬間に凍りついた。
(……手応えが、ない?)
岩をも容易に穿ち、心臓を物理的に引き裂くはずの鉄爪。しかし、玄馬の指先が感じたのは、時雨の胸骨に当たって止まった鈍い衝撃だけだった。まるで、突き刺した場所の奥が「完全な虚無」であるかのように、内力の衝撃がどこにも伝わっていかないのだ。
「お前の爪は……随分と、ぬるいな」
時雨が、血塗れの顔に不敵な笑みを浮かべた。
極限まで狭まった視界、左耳に響く高周波の耳鳴り。その暗闇の中で、時雨の脳裏には「経穴逆探知法(けいけつぎゃくたんちほう)」が描き出した青い光の軌道が完璧に立体化されていた。玄馬の指先が自らの皮膚に触れる直前、時雨は神谷一族の医術的防御法『治未病・防壁(ちみびょう・ぼうへき)』を発動させていたのだ。
突き刺された死穴の周囲の経絡から、内力を一瞬にして完全に退避させ、その空間を「虚(空っぽ)」にする。物理的な破壊力は、一時的に硬化させた胸骨の表面で受け止め、心臓や主要な内臓への衝撃伝導を完全に無効化する。
ミシ、と胸骨に微細な亀裂が入る鈍い音が響き、時雨の口からどっと赤い血が溢れ出た。しかし、その瞳に宿る復讐の炎は、衰えるどころかさらに激しく燃え上がっていた。等価交換だ。骨の一本や二本、命を繋ぎ止めるための対価としては安すぎる。
「な、何をした……!? なぜ心臓が破裂していない!」
玄馬が驚愕し、本能的な恐怖に駆られて指を引き抜こうとした。だが、すでに遅かった。
「逃がすわけないだろう。お前のその美味そうな内力、俺の逆脈(ぎゃくみゃく)にすべて喰わせて、延命の糧にさせてもらう」
時雨は感覚の失われた氷のように冷たい右手を諦め、動く左手で玄馬の太い手首を万力のような力で鷲掴みにした。さらに、変種の『黒骨花(こっこつか)』の毒によって一時的に硬化していた時雨の胸元の筋肉が、玄馬の鉄爪を強固に締め付け、物理的に固定する。
「離せ! 離しやがれ、この化け物が!」
玄馬が狂乱し、体内の『毒蛇心経』の内力をさらに高めて時雨を吹き飛ばそうとした。しかし、それこそが時雨の狙いだった。相手が最も強い内力を指先に集中させた瞬間こそ、その経絡が自らの逆脈と最も太く、深く繋がる瞬間なのだ。
「吸え(喰らえ)……!」
時雨が体内の経絡の流れを完全に逆回転させた。神谷一族の禁忌の技術『経絡滑り(けいらくすべり)』の応用。
ズズズ、ズズズズズ! と、泥濘の闇の中に、不気味でグロテスクな吸引音が響き渡り始めた。
玄馬の指先から、黒紫色の荒々しい内力が、目に見える光の奔流となって時雨の胸の死穴へと吸い込まれていく。それはまるで、乾ききった大地が雨水を貪り吸うかのようであり、あるいは巨大な深海魚が獲物を丸呑みにするかのようだった。
「あ、が……あああああああっ! 俺の、俺の内力が……吸い取られて……!」
玄馬の絶叫が墓地を震わせる。彼の全身の血管が、時雨の左手と胸元に向けて異常に引っ張られ、皮膚の上からでもはっきりと分かるほどに蠢いていた。内力を吸い取られると同時に、玄馬の爪に塗られていた猛烈な蛇毒が、時雨の経絡へと侵入してくる。時雨の顔面が、一瞬にして不気味な紫色に染まった。
「時雨! 毒よ! 奴の爪には肉体を内側から腐らせる蛇毒が仕込まれているわ!」
小夜が叫び、泥を蹴って飛び出そうとした。しかし、時雨は左手で玄馬の手首を掴んだまま、静かに呼吸を整えた。彼が発動したのは、一族の独自の呼吸技術『毒素同化呼吸法(どくそどうかこきゅうほう)』だった。
吸い込んだ冷たい夜気を逆脈の流れに同調させ、侵入してきた蛇毒の結晶をあえて経絡の隙間に滑り込ませる。毒素を破壊するのではなく、逆流する内力の強力な酸で分解し、一時的な推進力(内力)へと強制変換していく。時雨の血管を流れる黒い血が、体表から黒い蒸気となって霧散し、毒は完全に無力化された。
「そんな……毒まで喰らい尽くすというの……!?」
小夜はその場に立ち尽くし、目の前で起きている「生死の反転」に、言葉を失うしかなかった。
玄馬の叫び声は、次第に弱々しい喘ぎ声へと変わっていった。彼のふくよかだった頬は見る見るうちに痩せこけ、肌は弾力を失って灰白色に変色し、自慢の黒髪には白髪が混ざり始める。内力だけでなく、生命の根源である「気」そのものを、時雨の逆脈という底なしの深淵に根こそぎ奪われていた。
やがて、玄馬の全身から完全に生気が失われた。時雨が左手を静かに離すと、黒蛇会の若頭であった男は、中身を失った干からびた脱け殻のように、泥濘の中に音もなく崩れ落ちた。二度と動くことのない、ただの廃人としての無残な結末だった。
しんと静まり返った共同墓地。吹き荒れる風だけが、墓標をカタカタと揺らしている。
時雨は自らの胸元をはだけた。そこには、玄馬の鉄爪が突き刺さっていた場所に、針で突かれたような漆黒の不気味な痣が、鮮明に浮かび上がっていた。それは、神谷一族の『天針九経』に記された九大死穴の最初のロックが解除された証――『第一死穴開放状態(だいいちしけつかいほう)』の完成だった。
ドクン、ドクンと、時雨の心臓がこれまでになく力強く、安定した鼓動を刻み始める。体内の逆脈の流れが一定の軌道に沿って美しく回り出し、全身にみなぎる圧倒的な内力を実感する。余命は、確実に三ヶ月から半年へと延長されていた。
時雨は、泥の中に倒れた玄馬を見下ろし、血塗れの唇を歪めて不敵に笑った。
「これが……死穴を喰らうということだ」
しかし、そのカタルシスは長くは続かなかった。
突如、時雨の胸元の痣が、真っ赤に燃え上がるように発熱した。玄馬から吸収した「経流境」の荒々しい内力は、量が多すぎた上に、未だ完全に制御されていない異質な力だった。吸収された内力が、時雨の本来の逆脈の流れと衝突し、体内で激しい「二重の暴走」を起こし始めたのだ。
「が、はっ……!?」
時雨は激しく目を見開き、今度は自分の心臓を鷲掴みにするようにして泥の上に崩れ落ちた。全身の血管が再び黒紫色の筋となって浮き上がり、体表から激しい紫色の蒸気が噴き出す。骨が軋み、肉が引き裂かれるような凄まじい肉体的苦痛が、再び彼を襲う。
「時雨!」
小夜が悲痛な叫び声を上げ、泥まみれになりながら時雨の元へと駆け寄った。鉄次は恐怖のあまり、松明を放り出して暗闇の中へと逃げ去っていく。
時雨の意識が急激に薄れ、再び死の深淵へと引きずり込まれそうになる中、彼の胸の死穴は、暴走するエネルギーに耐えかねて、ドクン、ドクンと狂ったような不協和音を奏で始めていた。最初の勝利の代償は、あまりにも重く、そして新たな死の危機となって時雨の肉体を内側から侵食し始めていた――。
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