墓標の決闘、牙を剥く玄馬
ねっとりとまとわりつく死臭と、ぬかるんだ黒い泥の臭いが、烏有街(うゆうがい)の東端に広がる共同墓地を完全に支配していた。雨は上がっていたが、湿った夜気は氷のように冷たく、時雨(しぐれ)のボロボロの肉体を容赦なく痛めつける。崩れかけた無数の木製墓標が、まるで闇の中から突き出た無数の骸骨の手のように、不気味に立ち並んでいた。
時雨は一本の折れた墓標に背を預け、荒い呼吸を繰り返していた。彼の右腕は、前夜の『仮死脈打』の代償として完全に凍りつき、指先一つ動かすことができない。左腕の棘鞭による深い裂傷からは、包帯の隙間を縫って未だに血が滲み、足元の泥濘を赤く染めていた。さらに、万針林(まんしんりん)で貪り食った変種『黒骨花(こっこつか)』の毒が全身の神経を侵し、彼の視界はすりガラスを通したように暗く、狭まっていた。聴覚すらも、高周波の耳鳴りが頭の中で狂ったように響き渡り、周囲の音を半分も聞き取ることができない。
(……だが、皮膚の感覚だけは、異常なほどに尖っている)
時雨は目を閉じ、全身の毛穴をセンサーにするように神経を研ぎ澄ませた。隻腕の老達人・半兵衛(はんべえ)との地獄のような特訓が、彼の肉体に新たな「眼」を開かせていた。吹き荒れる夜風のわずかな温度変化、泥が踏みしめられる微細な振動――それらすべてが、時雨の脳裏に周囲の立体的な情景を描き出していた。
カサリ、と冷たい風が墓標の影を揺らした。
「へへ、本当にいやがった……死に損ないのガキが」
闇の奥から、金色の派手な道着をだらしなく羽織った男が姿を現した。額に彫られた不気味な蛇の刺青。黒蛇会(こくじゃかい)の若頭であり、烏有街の支配者――玄馬(げんま)だ。彼の両手には、鋭い蛇の牙を模した鋼鉄製の爪『蛇咬の鉄爪(じゃこうのてっこう)』が装着され、松明の灯りを受けてギラギラと凶悪な光を放っていた。その背後には、二重スパイとして時雨に服従を誓わされた鉄次(てつじ)が、恐怖に顔を引き攣らせながら松明を持って控えている。
墓地の枯れ木の陰では、小夜(さよ)が携帯用の薬箱を胸に抱きしめ、息を殺して時雨の姿を見つめていた。彼女の瞳には、時雨の無謀な命懸けの戦いに対する悲痛な怒りと、彼を死なせたくないという医師としての、そして一人の少女としての強い執着が涙となって滲んでいた。
「玄馬……待っていたぞ。随分と遅いお出ましだな」
時雨は血塗れの唇を歪め、退廃的な笑みを浮かべた。視界が暗くとも、玄馬が放つ「経流境(けいりゅうきょう)」の荒々しい内力の波動が、空気の揺らぎとなって明確に伝わってくる。
「ふん、蛇骨(じゃこつ)を小賢しい針治療で麻痺させたそうだが、所詮は泥の中を這いずり回る虫ケラの悪あがきだ。お前を生け捕りにして経絡をじっくりと解剖し、その奇妙な『逆脈』の秘密を暴いてやる。金蔵(かねぞう)の旦那も、お前の死体を心待ちにしているぞ」
玄馬は傲慢に言い放ち、両手の鉄爪を激しく打ち鳴らした。キィン、と金属同士が擦れ合う不快な音が墓地に響き渡る。その音の直後、玄馬の身体が弾丸のように前方へと突き出された。
「死ね、死に損ないが!」
玄馬の『蛇咬指法』が放たれた。超高速の連続突きが、嵐のような風切り音を立てて時雨の全身を襲う。鉄爪の刃先が、時雨の顔面、喉、喉笛へと目にも留まらぬ速さで突き出される。
時雨は「経穴逆探知法(けいけつぎゃくたんちほう)」を発動した。目をつむり、耳鳴りを無視して、肌を叩く風の圧力変化だけで鉄爪の軌道を読み取る。半兵衛の教えが、彼の肉体を反射的に動かした。
シュッ、シュッ!
時雨は「泥中魚の身のこなし」を使い、泥濘の上を滑るように左右へと上半身を揺らした。鉄爪の鋭い刃が、時雨の頬や耳元を紙一重でかすめていく。しかし、玄馬の速度は時雨がこれまで戦ってきた下っ端とは比較にならないほど速かった。避ききれなかった突きが時雨の右肩と脇腹を深く切り裂き、鮮血が夜の闇に舞った。
「がっ……!」
激痛が走るが、時雨は叫びを飲み込んだ。感覚のない右手を無理やり動かそうとするが、やはり使い物にならない。時雨は左手の指先に残された数本の「黒鉄の太針」を挟み、牽制のために「鉄針弾き(てっしんはじき)」を放った。
ヒュン! と鋭い音を立てて放たれた針は、玄馬の右目の経穴を正確に狙っていた。しかし、玄馬は冷笑を浮かべ、両手の『蛇咬の鉄爪』を交差させてそれを迎撃した。
ガキィン!
火花が散り、時雨の黒鉄の太針は空中で無残に粉砕され、泥の中に落ちた。玄馬の鉄爪の強度は、時雨の想像を遥かに超えていた。
「無駄だ! そんな錆びた針、俺の爪の前には紙屑同等よ! お前の手足の腱をすべて切り裂いて、二度と針を持てないようにしてやる!」
玄馬はさらに内力を高め、全身から黒紫色の不気味な闘気を立ち上らせた。その姿は、獲物を前にして鎌首をもたげる巨大な毒蛇そのものだった。周囲の墓標が、彼の放つ内力の風圧でカタカタと激しく震え始める。
時雨は血まみれのまま、一歩も後退しなかった。それどころか、あえて玄馬の懐へと自ら踏み込んだ。距離が縮まれば、回避の猶予はさらに失われる。それは自殺行為に等しい暴挙だった。小夜は悲鳴を上げそうになり、自らの口を両手で強く塞いだ。鉄次は恐怖のあまり、松明を持つ手を激しく震わせている。
「黒蛇会の若頭……お前の指は、女の針仕事より軽いな。蛇だの何だのと吠える割には、俺の皮膚一枚まともに貫けないのか?」
時雨は血塗れの顔で不敵に笑い、極限の挑発の言葉を投げかけた。大した武技も持たない平民の少年に愚弄された瞬間、玄馬の傲慢なプライドは完全に限界を超えて弾け飛んだ。額の蛇の刺青が、怒りの血管の浮き上がりによって真っ赤に染まる。
「貴様ァッ! その生意気な口、二度と開けないようにしてやる! 我が全内力を込めた一撃で、心臓ごと粉砕してくれるわ!」
玄馬は狂乱し、体内の『毒蛇心経』の内力をすべて両手の鉄爪の先端へと集中させた。黒紫色の闘気が鉄爪を包み込み、蛇が威嚇するような凄まじい高周波の風切り音が墓地全体を揺らす。彼が放つのは、黒蛇会に伝わる絶対の必殺指法――『蛇噛み(へびかみ)』。
時雨は、待っていた瞬間が訪れたことを確信した。敵が勝利を確信し、怒りに任せて放つ必殺の一撃。その瞬間こそ、攻撃の軌道が最も直線的になり、予測が容易になる唯一の好機だった。
(来い、玄馬。お前の最強の力を、俺の死穴に喰らせてみろ)
時雨は「死穴晒し(しけつざらし)」の構えを取った。構えを完全に解き、胸元を大きく開き、自らの心臓のすぐ上にある「最初の死穴」を、無防備に玄馬の指先に向けて晒したのだ。
「死ねぇッ!」
玄馬の絶叫と共に、黒紫色の蛇の幻影を纏った鉄爪が、音速を超える速度で時雨の胸元へと突き出された。避けることは不可能。直撃すれば、心臓が物理的に引き裂かれて即死する。その死の牙が、時雨の胸元の皮膚に触れようとしたその刹那――。
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