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墓地の黒骨花、肉体の器

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ねっとりとまとわりつく湿気と、死臭を孕んだ風が、烏有街(うゆうがい)の東端を支配していた。雨は上がりかけていたが、空を覆う分厚い雲は星の光を完全に遮り、地上を底なしの暗闇に沈めている。じっとりと濡れた泥濘の上を、一台の古びた荷車が軋んだ音を立てて進んでいた。


 荷車の上には、冷たくなった行き倒れの死体が幾重にも積み上げられている。その最下層、腐敗の始まりかけた遺体と濡れた襤褸(ぼろ)布の隙間に、時雨(しぐれ)は息を潜めて横たわっていた。彼の右腕は氷のように冷え切り、指先から肩にかけて、完全に感覚を失っている。前夜の逆脈の暴走と『仮死脈打』の代償が、彼の右半身をただの重い肉塊へと変えていた。


「……おい、喜助(きすけ)。まだ検問は抜けないのか」


 時雨は死体の冷たい頬に自らの顔を押し付けたまま、蚊の鳴くような声で囁いた。聴覚が過敏になっているため、木輪が泥を噛む音や、地上のヤクザたちの下卑た笑い声が耳の奥を激しく刺す。


「静かにしな、時雨の旦那」


 荷車を引く遺体回収屋の喜助は、長い黒髪で顔を覆い、陰気な声を返した。彼の体からは、長年死体を扱い続けた者特有の、鼻を突くような死臭が漂っている。その臭いこそが、黒蛇会(こくじゃかい)の監視の目を欺く最高の防壁だった。喜助のすぐ後ろを、男装の薬師衣を纏った小夜(さよ)が、うつむきながら足早について歩いている。彼女の手には、夜桜堂の焼け跡から奇跡的に回収した、最小限の薬草が収められた携帯用の木箱が握られていた。


「止まれ! 喜助の親父、今日も大漁だな」


 泥濘橋(でいねいばし)の手前で、松明を掲げた黒蛇会のヤクザ二人が立ち塞がった。松明の赤い炎が、雨に濡れた彼らの額の蛇の刺青を不気味に浮かび上がらせる。


「へへ、旦那がた、お疲れ様でございますだ。今夜はドブ川に浮いていた身元不明の凡人を三体、それと路地裏で野垂れ死んでいた病人を二体、共同墓地へ片付けに行くところで……」


 喜助は卑屈に腰をかがめ、煤けた顔に貼り付いたような笑みを浮かべた。ヤクザの一人が鼻を覆いながら、手にした槍の柄で荷車の上に積まれた死体を乱暴に突き刺した。


「うっ、相変わらずクソてえ臭いだな。……おい、夜桜堂の火事で見つからなかったあの生意気なガキの死体はねえだろうな? 金蔵(かねぞう)の旦那が、あのガキの死体を見つけたら金貨を出すって言ってるんだ」


 時雨の心臓がドクンと小さく脈打った。時雨の体は、死体の下で完全に気配を消している。小夜は息を止め、男装の帽子の庇を深く引き下げて顔を隠した。彼女の細い指先が、恐怖と寒さで激しく震えている。


「そんな上等な死体はございませんだ。ここにいるのは、ただの薄汚いドブネズミばかりで……」


 喜助は懐から、手垢で汚れた『黒蛇の銅銭』を数枚、音を立てずにヤクザの手に握らせた。ヤクザは銅銭の感触を確かめると、満足げに口元を歪め、槍を引き抜いた。


「ケッ、さっさと行け。墓地でカラスの餌にでもしてきやがれ」


 荷車が再び動き出し、泥濘橋のぬかるんだ板を踏みしめていく。検問を抜けた瞬間、小夜は小さく安堵の息を漏らしたが、時雨の心は一切休まることはなかった。明日、共同墓地に現れるという若頭・玄馬(げんま)との決戦。それまでに、玄馬の『蛇咬指法』の猛烈な貫通力に耐えうる「肉体の器」を作り上げなければ、死穴を開放する前に胸骨を粉砕されて即死する。彼に残された時間は、もう一日もなかった。


 やがて、荷車は烏有街の東端に位置する『烏有街の共同墓地』へとたどり着いた。そこは、引き取り手のない死体が無造作に投げ捨てられ、幾重にも重なった盛り土から不気味な腐敗ガスが立ち上る、この世の地獄のような荒れ地だった。周囲の枯れ木には無数のカラスが群がり、時雨たちの侵入を歓迎するように、不吉な鳴き声を響かせている。


「時雨、降りて。もう大丈夫よ」


 小夜が駆け寄り、死体の山を押し退けて時雨の左腕を掴んだ。時雨は感覚のない右腕を引きずりながら、荷車から転がり落ちるようにして泥の上に降り立った。左腕の棘鞭による裂傷が再び開き、包帯にじわりと血が滲む。時雨は激しい眩暈に耐えながら、墓地の湿った土壌を見つめた。


「喜助、例の場所はどこだ」


「あそこですだ、時雨の旦那。数日前に埋められた、黒蛇会の犠牲者たちの盛り土の影……日の当たらない、最も死臭が濃い場所に、その花は咲きますだ」


 喜助が指し示したのは、崩れかけた木製の墓標の影だった。時雨と小夜は泥濘を這うようにしてその場所へ近づいた。鼻を突く猛烈な腐敗臭の中、湿った黒い土から、一本の不気味な薬草が姿を現していた。茎も葉も漆黒に染まり、微かに周囲の死臭と冷気を吸い込んで、濡れたような暗い光沢を放っている。変種の『黒骨花(こっこつか)』だった。


「これよ……通常の黒骨花よりも、死体の腐敗成分と冷気を過剰に吸収して変異した極上品。これなら、お前の暴走する逆脈を一時的に麻痺させ、肉体を極限まで硬化させるための劇薬が作れるわ」


 小夜は素早く薬草採集用の曲がり鎌を取り出し、根を傷つけないように慎重に黒骨花を掘り起こした。漆黒の花弁から滴り落ちる液が、彼女の白い指先を黒く汚していく。


「だが、小夜。これをそのまま使えば、お前の言う通り五感がさらに麻痺するんだろう」


「ええ。右手の感覚消失だけじゃ済まないわ。これを服用して修行を行えば、お前の肉体は一時的に『鉄皮境(てっぴきょう)・初門』の強度を得るけれど、その代償として全身の神経が麻痺し、一時的に視覚や聴覚すら失う危険がある。本当にやるの?」


 小夜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は時雨の復讐を肯定しているわけではない。ただ、目の前でこの少年が、生き延びるために自らを破壊していく姿を見るのが、医師として、そして一人の少女として耐え難かったのだ。


「やるさ。玄馬の指先は、鉄をも穿つ。今の俺のボロボロの皮膚じゃ、死穴を突かせる前に肉体が消し飛ぶからな」


 時雨は感覚のない右手を無理やり動かそうとしたが、指先はピクリとも動かない。彼は自嘲気味に笑い、小夜の手から黒骨花を奪い取ると、その漆黒の茎をそのまま口に放り込み、生々しい苦味と死臭の混ざった汁を噛み潰した。


「う、ぐっ……!」


 一瞬にして、氷の針を胃袋に直接突き刺されたかのような、凄まじい寒気が体内を駆け巡った。逆流する内力が黒骨花の毒性によって強制的に凍結され、同時に彼の全身の皮膚が、泥のように弛緩した後に、徐々に硬く、鉛のような質感へと変化し始める。時雨の視界が急速に狭まり、小夜の泣き顔が霞んでいく。


「時雨! しっかりしなさい!」


「……行くぞ、小夜。次は……万針林(まんしんりん)だ。器を……叩き鍛えなければならん」


 時雨はろれつの回らない舌でそう呟くと、喜助に一瞥をくれ、廃寺の裏手に広がる奇岩地帯へと向かって歩き出した。一歩進むたびに、彼の足音は泥を吸う重い音から、石を踏みしめる硬質な音へと変わっていった。


 烏有街の裏手にそびえ立つ万針林は、天に向かって鋭く尖った奇岩が数万本も突き出た、不毛の禁地だった。常に東極の荒野から強風が吹き荒れ、岩と岩の間を通り抜ける風が、まるで数千本の針が空気を切り裂くような不気味な金属音を立てている。


 時雨は上半身の道着を脱ぎ捨て、むき出しになった痩せた肉体を、鋭利な岩肌の前に晒した。彼の胸元には、蛇骨との戦いで負った傷跡と、脈打つ不気味な黒い死穴の痣が、黒骨花の毒によって黒ずんで浮かび上がっている。


「始めるぞ」


 時雨は自らの身体を、目の前の鋭い奇岩に向かって激しく叩きつけた。ズシン! という鈍い衝撃音が万針林に響き渡る。普通の人間なら、一撃で肩の骨が砕け、皮膚が裂けて大出血するはずの衝撃だった。


 しかし、黒骨花の毒によって弛緩し、硬化し始めた時雨の筋肉と皮膚は、岩の鋭い角を泥のように受け流し、その後に金属的な硬さで弾き返した。これが『鉄皮功・泥濘流(てっぴこう・だいにゅうりゅう)』の基礎だった。攻撃を受ける瞬間に全身の筋肉を泥のように弛緩させ、その直後に一気に硬化させることで、衝撃を全身に分散させる。


「が、あぁっ!」


 痛覚が麻痺しているとはいえ、骨の髄を直接木槌で叩かれるような、鈍い激痛が時雨の脳髄を揺らす。彼は血を吐きながらも、何度も、何度も自らの身体を奇岩に叩きつけ続けた。左腕の重傷の包帯が弾け飛び、傷口から鮮血が噴き出して岩肌を赤く染めるが、時雨はその血を顧みず、自らを破壊するように叩きつけを繰り返した。


「もうやめて、時雨! これ以上やったら、玄馬と戦う前に死んでしまうわ!」


 小夜は万針林の強風に煽られながら、岩陰で叫んだ。彼女の持つ携帯用の薬箱から、薬草の香りが風に流されて消えていく。時雨の全身は、すでに岩の摩擦と激突によって無数の青あざと擦り傷で覆われ、血と泥にまみれていた。しかし、時雨の瞳に宿る、薬師寺玄真(やくしじげんしん)への凄まじい復讐の炎は、大雨の風の中でも決して消えることはなかった。


「まだだ……これでは足りない。玄馬の指先は、この程度の硬さなど一瞬で貫通する……!」


 時雨はよろめきながら、万針林のほぼ中央に位置する、最も風が激しく吹き抜ける巨大な岩の隙間――『針の眼(はりのおめ)』へと向かって歩みを進めた。そこは全方向から強風が吹き荒れ、風圧によって巻き上げられた無数の鋭い小石が、弾丸のような速度で飛び交う物理的な地獄だった。


 時雨が『針の眼』の岩場に立った瞬間、嵐のような風が彼の肉体を襲った。全方向から飛来する小石が、彼の硬化しかけた皮膚を容赦なく叩き、切り裂いていく。プツプツと皮膚から血が噴き出し、時雨の身体は一瞬にして血だるまとなった。


 右手の感覚はなく、左腕は血に染まり、黒骨花の副作用によって視界はほとんど真っ暗だった。時雨は目を閉じ、ただ全身の皮膚に触れる風の揺らぎと、小石が空気を切り裂く音だけに全神経を集中させた。


(風を……読むんだ。物理的な硬さだけでは、指法は防げない。当たる瞬間に、衝撃を逃がす『虚』を作らなければ……)


 時雨は迫り来る小石の軌道を、肌に触れる空気の圧力変化だけで感じ取ろうと足掻いていた。しかし、その未熟な回避能力では、大半の石を避けることができず、全身に小石がめり込んで激痛が走る。彼の肉体の器は、完成する前に崩壊しようとしていた。


 その時――。


 ヒュン、という、周囲の強風とは明らかに異なる、極めて鋭く、精密な風切り音が時雨の右耳をかすめた。


「が、あふっ!?」


 時雨の右肩の急所――『肩髃穴(けんぐうけつ)』に、小さな小石が弾丸のような速度で正確に命中した。その瞬間、時雨の体内で循環していた逆流の内力が激しく乱れ、彼は激しく喀血してその場に膝を突いた。硬化していた皮膚が一瞬にして弛緩し、全身の経絡が激しい軋み声を上げる。


「おいおい、ボロボロの身体を風に晒して、一体何の自殺志願だ? 小僧」


 強風と砂埃の向こうから、だらしなく千鳥足で歩いてくる人影があった。右の袖が虚しく風に揺れ、左手には古びた酒瓶を下げている。白髭を蓄え、片目に不敵な光を宿した隻腕の老達人――半兵衛(はんべえ)が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、鋭い奇岩の頂の上に音もなく立っていた。


「石のように身を硬くしたところで、本物の指法使いの前には、ただの動かない『的』に過ぎんぞ」


 半兵衛は酒瓶を傾け、喉を鳴らして酒を飲み干すと、時雨を見下ろしてその細い指先を静かに突き出した。その指先から放たれる圧倒的な『風の圧力』が、万針林の嵐を一時的に切り裂き、時雨の胸元を正確に捉えていた。

HẾT CHƯƠNG

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