裏切りの影、恐怖の調教
耳を劈くような雨音は消えていた。代わりに、地下密室の湿ったレンガの隙間から、ねっとりとしたドブの臭いと、絶え間なく滴り落ちる水滴の音だけが、重苦しい静寂を刻んでいる。
「……う、く……」
暗闇の中で、時雨(しぐれ)は泥の底から這い上がるようにして意識を取り戻した。肺腑が焼け焦げるような熱さと、凍てつくような悪寒が、同時に胸の奥で渦巻いている。感覚を確かめるように右手を動かそうとしたが、指先一つとして応えない。右腕全体がまるで他人の肉塊になったかのように冷え切り、恐ろしいほどの無感覚が支配していた。先の激闘と逆脈の暴走、そして『赤蛇散』の毒性がもたらした等価交換の代償――右手の感覚の完全な消失だった。
「気がついたのね、時雨」
掠れた、しかし張り詰めた少女の声が闇の向こうから聞こえた。小夜(さよ)だ。彼女は廃寺の本尊の真下、その極小の石室の隅で、泥に汚れた男装の薬師衣を纏ったまま、膝を抱えて座っていた。その瞳は赤く腫れ、疲弊しきっている。
「小夜……俺は、どれだけ眠っていた?」
「二時間と、半よ。『仮死脈打(かしみゃくだ)』の限界である三時間まで、あとわずかだったわ。お前の首の後ろの『風府穴(ふうふけつ)』に刺した太針が、ほんの数ミリでもズレていたら、お前は二度と目覚めない本物の死体になっていたのよ」
時雨は辛うじて動く左腕を伸ばし、首の後ろに深く突き刺さっていた『黒鉄の太針』を指先で探り当てた。左腕は蛇骨の棘鞭によって骨に達するほどの重傷を負っており、包帯の下から鋭い痛みが走る。しかし、時雨は眉一つ動かさず、太針をゆっくりと引き抜いた。針が抜けた瞬間、一時的に停止していた心臓がドクンと不気味な脈動を再開し、全身の経絡を逆流する熱い内力が再び暴れ狂おうとする。
「……はぁ、はぁ……。生きているな、まだ」
「生きてるなんて言えないわ。お前の右手の経絡は完全に沈黙している。左腕の傷も、応急処置をしただけで、少しでも激しく動かせば再び裂ける。夜桜堂を焼かれ、抑制薬の調合設備も失った。今の私たちには、逃げる場所も、お前を延命させる薬もないのよ!」
小夜の声には、やり場のない怒りと絶望が滲んでいた。時雨のために自らのすべてを失った彼女の精神は、限界まで摩耗していた。時雨はそんな彼女の悲痛な瞳を見つめながらも、血に汚れた顔に不敵な笑みを浮かべた。
「場所も薬もないなら、奪うだけさ。黒蛇会の奴らからな」
「まだそんな狂ったことを……!」
小夜が言葉を荒らげようとしたその瞬間、時雨は鋭く目を細め、彼女の口を手で制した。いや、正確には感覚のない右手ではなく、包帯が巻かれた左手で彼女の唇をそっと覆ったのだ。
時雨は目を閉じ、全身の皮膚の神経をセンサーにする『脈動感知(みゃくどうかんち)』を全開にした。耳鳴りが響く頭の中で、地下密室へと続く崩れかけたレンガの階段から、微かな、しかし異常に乱れた鼓動が伝わってくる。
(……一人。いや、この卑屈で怯えた脈動は、黒蛇会の精鋭じゃない。見覚えのあるドブネズミの気配だ)
時雨は小夜に静かに壁の影に隠れるよう合図し、自らは石床の上に再び横たわり、死体のように気配を消した。引き抜いたばかりの黒鉄の太針を、動く左手の指先に滑り込ませる。
やがて、密室の錆びた鉄扉がギィと軋んだ音を立てて開いた。松明の光が薄暗い室内に差し込み、一人の痩せこけた男の影が忍び込んできた。前歯が一本欠け、卑屈な笑みを浮かべたその男は、黒蛇会の下っ端ヤクザ――鉄次(てつじ)だった。
「へへ、やっぱりここにいやがった……。夜桜堂が燃えた後、小娘がこの廃寺の方へ逃げるのを見た奴がいたんだ。あの化け物ガキは死んだか、生きてても虫の息のはず……。小娘とあのガキの死体を金蔵(かねぞう)の旦那に引き渡せば、俺は一生遊んで暮らせる懸賞金が手に入る……!」
鉄次は腰をかがめ、床下に隠されていた小夜のわずかな薬草の袋を盗もうと手を伸ばした。その瞬間、彼の背後の闇が、音もなく立ち上がった。
「誰の死体を引き渡すって?」
耳元で囁かれた冷酷な声に、鉄次の全身の血が凍りついた。彼が悲鳴を上げる暇もなく、時雨の bandaged された左手が、鉄次の首筋を鷲掴みにして床へと叩きつけた。ズシン、と鈍い音が密室に響く。
「ひっ、あ、が……っ!?」
鉄次は恐怖に顔を歪めながらも、懐から隠し持っていた短刀を抜き、時雨の喉元に向けて狂暴に突き出した。しかし、時雨はそれを避けることすらしない。突き出された短刀の刃を、時雨は自らの左手の平で真っ向から掴み取ったのだ。刃が包帯を切り裂き、手の平の肉に深く食い込む。鮮血が滴り落ちるが、時雨の表情は石のように冷徹なままだった。
「な、何なんだよお前は……! 痛くねえのか!? 化け物め!」
「痛いさ。だが、お前の程度の低い突きじゃ、俺の復讐の炎を消すことはできない」
時雨は掴んだ刃を力任せに捻り、鉄次の手首をへし折るような速度で短刀を奪い取った。そして、鉄次が次の行動を起こす前に、左手の指先に挟んだ黒鉄の太針を、鉄次の首の付け根にある経穴に向けて電撃的に突き刺した。精密点穴――『針尖点穴法(しんせんてんけつほう)』。
「あ、が、あぁぁぁぁぁっ!」
鉄次の口から、声にならない悲鳴が漏れた。針の先端から時雨の逆流する内力が鉄次の経絡へと直接送り込まれ、彼の神経を内側から焼き焦がすような凄まじい激痛が這い回る。鉄次の身体はエビのように折れ曲がり、全身の筋肉が激しく痙攣し始めた。
「殺すな、時雨! そいつはただの下っ端よ!」
小夜が闇から飛び出し、時雨の左腕を掴んで止めようとした。彼女の瞳には、時雨の拷問に近い冷酷な仕打ちに対する強い拒絶と恐怖が浮かんでいた。
「どいていろ、小夜。こいつは俺たちを売ろうとした裏切り者だ。泥濘(ぬるまゆ)で生き延びるには、慈悲など何の役にも立たない」
時雨は冷たく小夜の手を振り払い、鉄次の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。鉄次の顔は涙と鼻水、そして恐怖の汗でぐちゃぐちゃに濡れており、その股間からは失禁しかけた不快な臭いが漂い始めていた。
「いいか、鉄次。お前が黒蛇会に忠誠を誓おうが、俺たちを売ろうがどうでもいい。だが、俺を裏切った代償は、お前の想像を超える苦痛となって一生お前の経絡を蝕むことになる」
時雨はそう言うと、自らの麻の道着の胸元を乱暴に引き開けた。そこには、蛇骨との戦いで負った傷跡のすぐ近くに、不気味に脈打つ黒い痣が一つ、そしてその周囲に黒紫色の血管がのたうち回る、人間離れした異形の胸元が曝け出されていた。
「……お、おい……その胸、何なんだよ……」
「突いてみろ」
時雨は鉄次の震える右手の指を掴み、自らの胸元、心臓のすぐ上にある致命の急所――『死穴(しけつ)』へと強制的に押し付けた。鉄次の指先が、時雨の異様な経絡の鼓動に触れる。
「突け。ここを貫けば、俺は死ぬぞ。やってみろ」
時雨の瞳に宿る、底知れぬ暗黒の狂気。鉄次は指先から伝わる不気味な吸引力と、死を全く恐れない怪物の存在を間近で体感し、精神が完全に叩き割られた。彼は狂ったように首を横に振り、涙を流しながら絶叫した。
「嫌だ! 嫌だ、助けてくれ! 俺が悪かった、何でも話す! 金蔵の旦那のことも、黒蛇会のことも、全部話すから、その針を抜いてくれ!」
時雨は鉄次の首からゆっくりと太針を引き抜いた。激痛から解放された鉄次は、床に突っ伏して激しく喘ぎ、時雨の足元に縋り付いた。その姿は、もはや獲物を狙う猟犬ではなく、絶対的な主人に命乞いをする忠実な犬そのものだった。
「……話せ。お前が知っているすべてを」
時雨の冷徹な問いに対し、鉄次は震える声で、自らの魂を切り売りするように極秘の情報を口にした。
「わ、若頭の玄馬(げんま)兄貴だ……。蛇骨がやられたことに激怒して、夜桜堂を焼かせたのもあの人だ。その玄馬兄貴が、明日……烏有街の東端にある『共同墓地』に、直属の部下を連れて現れる。死んだ奴らの身元を確認し、お前の『死体』が本当にないか、自ら確かめるためだ……!」
その言葉を聞いた瞬間、時雨の胸元の死穴が、ドクンと不気味に、しかし確実に脈打った。新たな、そして最初の本物の獲物――玄馬の『蛇咬指法』を喰らうための舞台が、ついに整おうとしていた。
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