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紅蓮の夜桜堂、逆脈の嵐

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油の混じった、ねっとりと粘りつく雨が、烏有街の闇路地を容赦なく叩き続けていた。深夜の暗闇の中、小夜は男装の薬師衣の袖を泥と血で汚しながら、時雨のボロボロの身体を必死に支えて歩いていた。


「しっかりしなさい、時雨! 目を開けるのよ!」


 小夜の悲痛な叫びは、激しい雨音にかき消されていく。彼女の腕の中で、時雨は辛うじて自意識を保っていたが、その肉体はすでに崩壊の危機に瀕していた。黒蛇会十人衆の一人である鞭使い・蛇骨との死闘の代償はあまりにも大きかった。左腕の肉は棘鞭によって骨に達するほど深く引き裂かれ、流れる血が雨水に混ざって赤黒い川を作っている。さらに、経絡を強引に暴走させる激薬『赤蛇散』の反動が彼の内臓を焼き焦がし、時雨は歩くたびに激しく黒い血を吐き出していた。


「ふっ……大げさに騒ぐなよ、小夜。腕の一本や二本、命と比べれば安いものだ……」


 時雨は血塗れの唇を歪め、退廃的な笑みを浮かべようとした。しかし、自らの体に『黒鉄の太針』を刺し込もうとした彼の右手は、すでに氷柱のように冷え切り、指先の精密な感覚を完全に失っていた。太針を握ることすらできず、指の間から針が泥濘へと滑り落ちる。時雨はその様子を、冷え切った瞳で見つめるしかなかった。


「何が安いものよ! 右手の感覚が完全に消えているじゃない! 『赤蛇散』は、お前の寿命そのものを燃料として激しく燃やす禁忌の薬なのよ。戦うたびに、お前の命の蝋燭は縮んでいるの。これ以上、無茶な自傷行為を続ければ、復讐を果たす前に本当に死んでしまうわ!」


 小夜は涙を流しながらも、時雨を抱きかかえ、ようやく彼らの唯一の拠点である薬局『夜桜堂』の裏口へと滑り込んだ。店内は薬草の独特な香りに満ちており、ここだけが彼らにとっての唯一の安息の地だった。小夜は時雨を古い長椅子に横たわらせ、すぐさま止血用の薬草をすり潰し始めた。その指先は、怒りと恐怖で激しく震えていた。


「……小夜、怒るなよ。蛇骨を倒したことで、黒蛇会の若頭・玄馬の動きが制限されるはずだ。奴の『蛇咬指法』を喰らい、胸元の最初の死穴を開放する。それさえできれば、俺の寿命は延びるんだ」


「そんなの、一歩間違えれば即死する博打じゃない! 私は医者よ。患者が目の前でわざと致命傷を負いに行くのを見過ごせるわけがないでしょう!」


 小夜が時雨の左腕の凄まじい裂傷に薬草をあてがい、包帯をきつく締め上げたその瞬間――不気味なほどの静寂が夜桜堂の周囲を包み込んだ。雨音の隙間から、パチパチと何かが爆ぜる乾いた音が聞こえてくる。


 時雨の皮膚が、危険を察知して粟立った。


「……おい、小夜。何の匂いだ?」


 時雨の問いに、小夜が顔を上げた。次の瞬間、夜桜堂の窓の外が、不気味な赤色に染まった。熱気がガラスを押し破るように室内に流れ込んでくる。黒蛇会が、蛇骨の敗北に対する報復として、夜桜堂の周囲に油を撒き、一斉に放火したのだ。


「火事……!? そんな、お父様が遺してくれた薬草や医療器具が……!」


 小夜は絶望に目を見開いた。燃え盛る紅蓮の炎が、夜桜堂の木造の壁を瞬く間に舐め尽くしていく。棚に並んだ貴重な薬草の瓶が熱で次々と破裂し、辺りは猛烈な煙と炎の海と化した。小夜の唯一の居場所であり、時雨の命を繋ぐための薬を調合する聖域が、目の前で灰になっていく。


「くそっ……黒蛇会の奴らめ……!」


 時雨は怒りに任せて立ち上がろうとした。しかし、その精神的衝撃と『赤蛇散』の極激な内力活性化の完全な終了、そして『黒骨花』による日々の抑制の欠如が、最悪の化学反応を引き起こした。彼の体内で、逆流する経絡がかつてない大暴走を始めたのだ。


「が、ああああああああっ!」


 時雨は胸を掻きむしり、その場に激しく転倒した。全身の血管が黒紫色に腫れ上がり、皮膚の下をのたうち回る蛇のように不気味に蠢いている。彼の体内で、逆流する内力が制御を失い、毛細血管を内側から破壊し始めた。皮膚の至る所から、血が霧のように噴き出す『血雨』現象が発生する。時雨の麻の道着は、一瞬にして自らの血で真っ赤に染まった。


「時雨! 嘘でしょう、経絡が内側から自壊しているわ!」


 小夜は燃え盛る梁が天井から崩れ落ちるのを間一髪で避けながら、時雨のボロボロの身体を必死に引きずった。時雨は全身の激痛により、指一本動かすこともできない。逆脈の暴走は、彼の肉体を内側から完全に麻痺させていた。


「小夜……俺を、置いて……逃げろ……」


「黙りなさい! お前を死なせるくらいなら、私は医者を辞めてやるわ!」


 小夜は男装の薬師衣の裾に火が燃え移るのも構わず、時雨の重い身体を肩に担ぎ、燃え盛る夜桜堂の裏口から泥濘の雨の中へと飛び出した。背後で、夜桜堂が凄まじい音を立てて崩壊していく。すべての医療資源と拠点を失った絶望の中で、小夜は時雨を抱え、烏有街の最北端にある『烏有街の廃寺』へと向かって走った。


 土壁が崩れかけ、本尊の頭が欠けた古い廃寺。小夜は時雨を本尊の真下にある地下密室へと運び込んだ。そこは外の雨音や殺気が遮断された、極小の石室だった。


 石床に横たえられた時雨の体からは、激しい紫色の蒸気(暴走した内力)が立ち上り、彼の呼吸は今にも途絶えそうだった。全身から流れる血が、石床を赤く染めていく。


「通常の解毒薬や抑制薬は、この暴走した逆脈の前では全く効果がないわ……。どうすればいいの……」


 小夜は時雨の懐から、神谷一族の形見である『黒鉄の太針』を一本取り出した。彼女の手は激しく震えていた。時雨の体内で暴れ回る内力の圧力は、すでに限界に達している。このままでは数分以内に彼の心臓は内圧によって破裂し、即死するだろう。


(一度、彼の内力の流れを完全に止めなければならない。そのためには……心臓を止めるしかないわ)


 小夜の脳裏に、時雨の父・玄庵が遺した医学書の記述が浮かび上がった。それは、首の後ろの特定の経穴に深く針を刺し、一時的に心臓の鼓動を完全に停止させる極限の禁忌技術――『仮死脈打』だった。


「時雨、聞こえる? 今からお前の心臓を止めるわ。一歩間違えれば、お前は本物の死体になる。だけど、これしかお前を救う方法はないの……!」


 時雨は意識の混濁する中で、かすかに小夜の言葉を聞き取り、血塗れの唇を微かに動かした。彼は何も言わなかったが、その瞳の奥には、小夜に対する絶対的な信頼の光が宿っていた。


 小夜は涙を拭い、鋭い眼光を宿して太針を構えた。彼女は時雨の首の後ろにある『風府穴』の位置を指先で正確に特定する。一寸の狂いも許されない極限の精密さが必要だった。


「お願い、耐えて……!」


 小夜は息を止め、黒鉄の太針を時雨の首の後ろの経穴へと深く、正確に刺入した。同時に、自らのわずかな医療内力を針先に注ぎ込み、時雨の体内で暴走する内力を逆脈の流れに同化させるための『内力逆流制御法』の運気を強制的に作動させる。


 ドクン、と時雨の心臓が大きく一度だけ脈打った。


 次の瞬間、時雨の全身の血管から立ち上っていた紫色の闘気が、彼の胸元へと急速に収束し、そこで不気味に凝縮された。そして、時雨の肌から一瞬にして生気が消え失せ、彼の体温は氷のように冷たくなっていった。心臓の鼓動が完全に停止し、呼吸が途絶える。


 完全な死体と化した時雨の胸元から、凍りついたような紫色の微光が静かに立ち上り、石室の暗闇を冷たく照らしていた。

HẾT CHƯƠNG

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