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蛇骨の鞭、歪んだ覚悟

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ざあざあと、容赦なく降り注ぐ泥混じりの雨が、烏有街の暗い路地裏を激しく叩いていた。ドブ川のような悪臭が立ち上る中、時雨は血塗れの口元を袖で拭った。だが、その腕を動かす彼の右手は、まるで氷柱のように冷え切っていた。指先の感覚が、ほとんどない。赤蛇散の急激な内力活性化と、生まれつきの経絡逆逆流がもたらす凄まじい負荷――その等価交換の代償が、確実に彼の肉体を侵食していた。


「ケケッ……若頭の玄馬兄貴がお前の経絡を解剖したがるのも無理はねえ。殴られて嬉しそうに血を吐くなんて、本物の狂人だねえ、お前は」


 闇路地の奥から、ぬらりとした影が歩み出てくる。黒蛇会十人衆の一人、鞭使いの「蛇骨」だ。蛇の皮で編まれた不気味な鎧を纏った痩せこけた男は、棘のついた長い鋼糸入りの特製鞭を濡れた石畳に引きずり、爬虫類のような細い目で時雨を凝視していた。


「狂人、か。泥濘の底で這いずり回るドブネズミに言われたかないな」


 時雨は冷え切った右手を無理やり動かし、懐から「黒鉄の太針」を指先に挟んだ。だが、感覚の失われた指先は思うように動かない。針の冷たさすら感じ取れない己の右手に、時雨は内心で舌を打った。肋骨の微細なヒビが、呼吸を乱すたびに鋭い激痛を脳髄に送ってくる。


「口だけは達者な死に損ないだ! その生意気な舌ごと、ズタズタに引き裂いてやるよ!」


 蛇骨が腕を振るった瞬間、棘鞭が闇を切り裂く凄まじい風音を立てた。うねる蛇のように放たれた鞭は、時雨の退路を塞ぐように左右から襲いかかる。


 時雨は感覚の麻痺した右手で強引に太針を弾き出した。だが、指先の狂いは致命的だった。放たれた二本の黒鉄の太針は、狙いを大きく外し、蛇骨の鞭が描く不気味な回転の風圧によって容易く叩き落とされた。


「遅い、遅すぎるよ! そんな鈍い針が俺の『蛇身功』に通じるかよ!」


 シュッ、と鋭い金属音が響き、棘鞭の先端が時雨の頬をかすめた。鋭い棘が皮膚を裂き、赤い血が雨水に混ざって流れ落ちる。一歩間違えれば首を撥ねられる一撃だった。蛇骨の鞭は、これまでの下っ端ヤクザの雑な打撃とは比較にならない速度と射程を誇っている。


「くっ……!」


 時雨は即座に姿勢を低くした。泥濘に満ちた路地裏の地面に内力を極薄く展開する。神谷一族の歩法――『泥中魚の身のこなし』。彼は滑るような不規則な軌道を描きながら、泥の上を滑走した。全方向から降り注ぐ鞭の暴風を、紙一重のステップで回避していく。


 だが、回避だけではこの距離は縮まらない。蛇骨は時雨を寄せ付けない間合いを保ちながら、いたぶるように鞭を振り回し続ける。棘が時雨の肩、太腿、背中を容赦なく切り刻み、麻の道着が瞬く間に赤く染まっていく。


「どうした! 自慢の『死穴晒し』とやらは使わねえのか! ここを突いてみろと胸を張ってみせろよ、化物!」


 蛇骨の嘲笑が雨音に混ざる。時雨は激しい息を吐きながら、必死に思考を巡らせていた。常人の遅い打撃なら「経絡滑り」で衝撃を逃がせるが、この変幻自在の鞭を正面から胸元で受ければ、衝撃を吸収する前に心臓が物理的に引き裂かれる。受け止めるには、奴を至近距離に引きずり込み、直線的な「指法」を放たせるしかない。しかし、この間合いをどうやって潰す?


 その時、闇路地のゴミ箱の影から、不自然な風が吹いた。


「これでも喰らいなさい!」


 鋭い少女の声と共に、白い薬草の粉末が蛇骨の顔面に向けて投げつけられた。夜桜堂の目潰し粉――小夜だ。彼女は時雨の無謀な戦いを放っておけず、密かに雨の中を追ってきていたのだ。


「ぶっ!? なんだこの粉は……目が、目が灼ける!」


 不意を突かれた蛇骨が、激痛に顔を歪めて視界を失う。鞭の規則的な軌道が一瞬にして乱れた。


「小夜……! なぜここに来た!」


 時雨は叫んだが、この好機を逃すほど愚かではなかった。彼は泥を蹴り、一気に距離を詰める。しかし、視界を失った蛇骨は、狂乱しながら鞭を全方位に荒れ狂うように振り回した。凄まじい密度の棘の壁が、時雨の前に立ち塞がる。


 避ければ、再び間合いを取られる。時雨は奥歯を噛み締めた。


(腕の一本くらい、くれてやる……!)


 時雨はあえて左腕を突き出し、荒れ狂う棘鞭の直撃を真っ向から受け止めた。グシャリと、棘が左腕の肉に深く食い込み、骨に達するほどの激痛が走る。だが、時雨は叫びを押し殺し、左腕の筋肉を一気に硬化させて鞭を絡め取った。物理的な肉体の硬化――『鉄皮功・初門』の応用。硬化した筋肉が、鞭の鋼糸を強固に噛み込んで固定する。


「な、何だと!? 鞭が抜けない……!」


 驚愕する蛇骨。時雨は血塗れの顔に不敵な笑みを浮かべ、絡みついた鞭を右腕で力任せに引き寄せた。等価交換だ。左腕の肉を引き裂かれる苦痛と引き換えに、奴を強制的に自分の間合いへと引きずり込む。


「引きずり下ろしてやるよ、ドブネズミ」


 一瞬にして、二人の距離がゼロになった。蛇骨の目の前に、血の霧を纏った時雨が肉薄する。蛇骨は恐怖に目を見開き、空いた右手で時雨の胸元を突こうと指先を突き出してきた。だが、その突きは焦りから直線的で、あまりにも単調だった。


「そこだ」


 時雨の「経穴逆探知法」が、蛇骨の突き出す指先が描く空気の揺らぎを完璧に捉えた。時雨は胸元の死穴をあえて晒しながら、突きが命中する寸前、右手の指先に挟んだ「黒鉄の太針」を蛇骨の胸元の経穴(膻中穴)へと電撃的に突き刺した。精密点穴――『針尖点穴法』。


 ピシリ、と不気味な衝撃音が路地裏に響く。蛇骨の指先が時雨の胸に触れる直前、男の全身の動きが完全に凍りついた。時雨の内力が針を通じて蛇骨の経絡に侵入し、その気の循環を強制的に遮断したのだ。


「あ、が……からだ、が……」


 蛇骨は白目を剥き、全身を激しく痙攣させながら泥濘の中に崩れ落ちた。全身の運動機能を永久に失う完全な麻痺。時雨は左腕に絡みついた鞭を忌々しげに振り払い、大きくよろめいた。


「はぁ、はぁ……がはっ!」


 時雨は膝を突き、激しく黒い血を吐き出した。左腕からは大量の鮮血が流れ落ち、右手の感覚は完全に消失している。赤蛇散の反動が、彼の内臓を内側から焼き焦がしていた。


「時雨!」


 闇から小夜が駆け寄り、時雨のボロボロの体を抱きとめた。彼女の手は激しく震えており、その瞳には涙が浮かんでいた。


「馬鹿な真似はやめてって言ったでしょう! 『赤蛇散』は、お前の寿命を燃料として激しく消費する禁断の薬なのよ! 戦うたびに、お前の命は削り取られているの! これ以上使えば、復讐を果たす前に、お前は本当に灰になって死ぬわ!」


 小夜の悲痛な叫びが、激しい雨音にかき消されていく。だが、時雨は血に染まった顔で、消え入りそうな意識の中で、ただ不敵に笑うことしかできなかった。彼の胸の死穴が、次に控える「若頭・玄馬」のより強大な指法を求めて、ドクンと不気味に、しかし確実に脈打っていた。

HẾT CHƯƠNG

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