闇路地のテスト、死穴の予感
夜桜堂の蹴破られた扉から冷たい雨が吹き込む中、時雨の胸の鼓動は不気味な熱を帯びていた。
「時雨、駄目よ! 動かないで!」
小夜が必死に叫び、時雨の細い肩を抱きしめる。だが、時雨はその手を静かに、しかし拒絶の意志を込めて押し戻した。
「……すまねえな、小夜。これ以上ここにいたら、お前の店まで本当に灰にされる」
時雨の口元から、どろりとした黒い血が滴り落ちる。赤蛇散(せきじゃさん)の劇烈な薬効は、彼の逆流する経絡を強引に引き絞り、引き換えにその寿命を確実に削り取っていた。すでに右手の指先は、氷の塊を握らされているかのように冷え切り、感覚が麻痺し始めている。経流境・逆行(けいりゅうきょう・ぎゃっこう)――生まれつき気の流れが逆流するこの肉体は、強すぎる内力を得るたびに自己崩壊の危機に直面するのだ。
「待って、時雨! その体で雨の中に出たら死ぬわ!」
「死にやしないさ。俺の命は、あの男の首を獲るまでは絶対に尽きない」
時雨は退廃的な、しかし狂気に満ちた笑みを浮かべ、夜桜堂を後にした。粘つくような泥濘の雨が、少年の痩せた背中を濡らしていく。小夜の引き留める声を背中で聞きながら、時雨は烏有街(うゆうがい)の闇へと消えた。
たどり着いたのは、街の最北端に位置する「烏有街の廃寺」だった。本尊の頭部が欠け、蜘蛛の巣と埃にまみれた荒れ寺。ここが時雨の唯一の隠れ家であり、誰にも見せられない苦痛の聖域だった。
「がはっ……っ!」
本尊の足元にある隠し床板を開け、冷たい地下密室へと転がり込んだ瞬間、時雨は激しく吐血した。赤蛇散の薬効が切れかけ、体内で逆流する内力が暴れ馬のように暴走し始めている。全身の血管が黒紫色の筋となって皮膚に浮き上がり、体表から不気味な紫色の蒸気が立ち上っていた。
「くそ、脈が……裂ける……!」
時雨は震える手で懐から精精な漆塗りの針筒を取り出した。神谷(かみや)一族の唯一の形見である「黒鉄の太針(くろがねのおおはり)」。十三本の太く頑強な針が、暗闇の中で冷たい光を放つ。
「天針逆行術(てんしんぎゃっこうじゅつ)……!」
時雨は凍え、感覚を失いかけている右手で針を掴み、自らの体に突き刺し始めた。まずは鎖骨の下の「中府穴」、次いで脇腹の「大包穴」。針が肉を貫き、経絡の結節点に達するたびに、脳髄を直接焼き焦がすような凄まじい激痛が時雨を襲う。
「ぐ、ああああああっ!」
痛覚を遮断する余裕などない。時雨は白目を剥き、歯が砕けんばかりに噛み締めながら、十三本の針を次々と自らの急所に深く刺入していった。暴走する逆流の内力を、針の障壁によって強引に抑え込み、一定の軌道へねじ伏せる自傷の儀式。
一時間後。時雨は血の海の中に横たわり、荒い呼吸を繰り返していた。針のおかげで暴走は収まったが、これは一時しのぎに過ぎない。余命は残り三ヶ月。この逆脈を根本的に安定させ、寿命を延ばすにはどうすればいいか。時雨の脳裏に、父・玄庵が遺した医学書の記述が浮かび上がった。
『逆脈の極限において、生と死は反転する。致命の「死穴」に強力な達人の内力をあえて受け、その衝撃を逆脈の渦に滑り込ませて同化せよ。九つの死穴をすべて解放した時、真の再生が訪れる』
(そうか……常人の打撃じゃ駄目だ。本物の「指法使い」の致命の一撃を、あえてこの身に喰らう必要がある……!)
時雨は不敵に笑った。死を避けるのではない。生き延びるために、死を自ら喰らいに行く。そのための戦闘技術をテストしなければならない。
深夜、激しい雨が降り続く烏有街の闇路地。時雨は擦り切れた麻の道着を纏い、わざと足元をふらつかせながら歩いていた。まるで病に侵され、今にも野垂れ死にそうな哀れな薬売りの少年を装って。
「おい、見ろよ。夜桜堂のところにいた死に損ないのガキじゃねえか」
闇の中から、松明を持った黒蛇会のヤクザ三人組が姿を現した。彼らは昼間の下っ端の仲間であり、時雨を探して徘徊していたのだ。先頭の男が、下卑た笑みを浮かべて時雨に近づく。
「若頭の玄馬(げんま)兄貴が、お前を生け捕りにして経絡を解剖してやるってよ。大人しく縄にかかりな!」
時雨は壁に背を預け、怯えるように呼吸を乱してみせた。だが、その瞳の奥は氷のように冷えていた。彼は「死穴晒し(しけつざらし)」の構えを取る。全身の防御の気を完全に解き、胸元の最も致命的な急所を無防備に晒したのだ。
「ひっ……殺さないでくれ……!」
「ハハッ! やっぱりただの腰抜けか! 一撃で大人しくさせてやる!」
ヤクザの男が勝ち誇り、時雨の胸元に向けて強烈な拳を突き出してきた。その拳が皮膚に触れる直前、時雨の脳内で「経穴逆探知法」が稼働した。敵の指先が狙う軌道、殺気の流れが、皮膚に触れる空気の揺らぎを通じて立体的に脳裏に浮かび上がる。
(ここだ……!)
ドォン!
拳が時雨の胸元に直撃する。だが、その瞬間に時雨は「経絡滑り(けいらくすべり)」を発動した。突かれた部位の経絡を一瞬だけ逆回転させ、衝撃の物理的破壊力を皮膚の表面で滑らせて受け流す。そして、拳から侵入した微弱な内力エネルギーだけを、自らの逆脈の流れに引き込んだ。
「ズズズ……」と、内力が吸い込まれる不気味な音が闇路地に響く。
「な、何だ!? また拳が……!」
ヤクザの男が驚愕して顔を引き攣らせる。しかし、時雨のタイミングが僅かに遅れた。完全に衝撃を殺しきれず、肺に強い衝撃が伝わる。
「がはっ……!」
時雨は激しく喀血し、胸元の肋骨にピシリと微細なヒビが入る激痛を感じた。やはり、常人の雑な打撃では、経絡を滑らせるタイミングを合わせるのが極めて難しい。だが、テストとしては十分だった。時雨は血塗れの唇を歪め、不敵に笑った。
「……今度は、俺の番だ」
時雨は冷え切った右手の指先を動かし、袖口から二本の「黒鉄の太針」を弾き出した。シュッ、と風を切り裂く無音の軌道。針は正確に、ヤクザ二人の膝の経穴(足三里)を射抜いた。
「ぶっ!? あ、足が動かねえ!」
「何をしやがった、このガキ!」
二人のヤクザが泥濘の中に崩れ落ちる。時雨は残る一人の男の前に、音もなく踏み込んだ。男は恐怖に目を見開き、後退りしようとする。時雨の右手の指先が、男の喉元の経穴を優しく撫でるように触れた。それだけで、男は声も出せずに硬直した。
「玄馬に伝えておけ。俺の『死穴』は、いつでも開いているとな」
時雨が冷酷に囁いたその時、闇路地の奥から、ヒタ、ヒタと水を踏む足音が聞こえてきた。
冷たい風が吹き抜け、雨の匂いに混ざって、不気味な生臭い獣の気配が漂い始める。時雨は「脈動感知」を全開にし、暗闇の奥を見据えた。
現れたのは、全身に蛇の皮で作られた鎧を纏い、棘のついた長い鞭を濡れた石畳に引きずりながら歩く痩せこけた男だった。黒蛇会十人衆の一人、鞭使いの「蛇骨(じゃこつ)」。
「ケケッ……面白い死に損ないがいると聞いて来てみれば、本当にただの化物だねえ」
蛇骨は不気味な爬虫類のような笑みを浮かべ、棘付きの鞭をゆっくりと持ち上げた。その指先から放たれる内力は、これまでの下っ端とは比較にならないほど鋭く、冷酷だった。時雨の胸の死穴が、新たな強敵の出現に呼応するように、ドクンと不気味な鼓動を刻み始めた。
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