奈落の闇と泥の案内人
泥濘。暗黒。そして、肺を灼くような死臭。
烏有街の地下深く、迷路のように張り巡らされた地下水道は、光を拒絶した死者の腹の中のようだった。頭上からは絶えず冷たいドブ水が滴り落ち、時雨のボロボロの麻の道着を容赦なく濡らしていく。
「がはっ……!」
時雨は壁の湿ったレンガに背を預け、黒い血を吐き出した。左耳の奥では、金属を擦り合わせるような不快な高周波がキィィィンと鳴り響き続けている。玄馬から無理やり奪い取った内力は、未だ彼の体内で完全に調和しておらず、暴れる獣のように経絡を内側から引き裂こうとしていた。さらに、右手の感覚は完全に失われ、まるで氷の塊を肩からぶら下げているかのように冷え切っている。
「時雨……動かないで……」
彼の左腕に抱えられていた小夜が、微かに身を震わせ、朦朧とした意識の中で呟いた。彼女は玄馬戦での治療のために自らの医療内力を使い果たし、本来なら指一本動かせないはずだった。だが、時雨の胸元が、熱と冷気の間で異常に脈打っているのをその細い指先が察知したのだろう。彼女は執念だけで懐を探り、湿った布に包まれた「黒骨花(こっこつか)」の湿布を取り出すと、時雨の胸元、あの最初の「死穴」の黒い痣の上にそっと施した。
黒骨花の冷涼な薬効が皮膚に染み込んだ瞬間、時雨の経絡の暴走が微かに和らぐ。しかし、小夜はそれを終えると、再び力尽きたように時雨の胸に頭を預け、深い昏睡へと沈んでいった。
「すまねえ、小夜……」
時雨は右耳だけで彼女の微弱な呼吸音を聞きながら、無言で彼女の体を抱きしめ直した。自らの復讐のせいで、彼女のすべてを奪ってしまった。その精神的な負債が、時雨の胸を重く締め付ける。
「時雨の兄貴! 大変だ、大変なことになっちまっただ!」
暗闇の奥から、ばたばたと泥水を跳ね上げる足音が響いた。現れたのは、全身泥まみれの鉄次だった。息を切らし、前歯の欠けた口からよだれを垂らしながら、彼は時雨の前に跪き、一枚の濡れた羊皮紙を差し出した。それは黒蛇会内部から盗み出してきた、地下水道の捜索ルートが記された極秘の地図だった。
「黒蛇会の奴ら、玄馬の兄貴がやられたことで完全に狂ってやがる! 本山から青嵐が来ただけじゃねえ。地下の隠密戦闘を得意とする十人衆の二人――『地潜(じせん)』と『毒牙(どくが)』をこの下水道に投入しやがった! 今、ローラー作戦でここへ向かってる!」
「地潜と、毒牙……」
時雨の右の瞳に、冷徹な光が宿る。案内人の長松が松明の火を低く抑え、怯えた声で囁いた。
「兄貴、この先は『奈落の底』と呼ばれる猛毒のガスが溜まるエリアだ。常人なら数分で肺が腐食する。だが、あいつらはその泥の中を泳ぐように迫ってくるぞ」
時雨は目を閉じた。左耳の耳鳴りを意識の隅へと追いやり、全身の皮膚の神経を極限まで研ぎ澄ます神谷一族の感覚超越技術――「脈動感知(みゃくどうかんち)」を発動した。
じっと息を止める。脳裏に、地下水道の暗黒がモノクロの波紋となって立体的に浮かび上がる。滴り落ちる水滴の振動、小夜の微弱な心音、鉄次の恐怖に震える激しい脈動。それらを一つずつ意識から除外していく。
(……いた)
時雨の感覚が、レンガの床下、湿った泥の層の奥深くにうごめく「重く、湿った脈動」を捉えた。まるで泥の中を泳ぐ肉食魚のような不気味な気配。それが、床のレンガを伝って確実に近づいている。敵は、彼らの足音やレンガの微細な振動を感知して、こちらの位置を正確に特定しているのだ。
(なら、あえてその傲慢さを利用してやる)
時雨は長松と鉄次に手真似で下がれと指示した。そして、感覚のない右足を庇いながら、左足にわずかに残る内力を集中させ、床の一枚の緩んだレンガを強く踏みつけた。――ゴン、と重い音が狭い下水道に反響する。
その瞬間、時雨の脳裏の波紋が激しく跳ねた。床下の脈動が、その音に向けて一直線に加速する。
「来るぞ!」
時雨が叫ぶと同時に、彼が立っていた場所のレンガの床が、内側から爆発するように粉砕された。砕け散ったレンガの破片が四方に飛び散る。その泥煙の奥から、特殊合金製の五本の鋭い掘削爪が、獲物の脚を引き裂こうと音を立てて突き出てきた。「地潜」の、地中からの完全な不意打ちの奇襲だった。
「しまっ……!」
時雨は「泥中魚の身のこなし」を使い、泥の上を滑るようにして重心をずらした。しかし、体温調節を失い冷え切った肉体は、本来の俊敏さを発揮できない。避けるのが一瞬遅れた。飛び散ったレンガの鋭い破片が時雨の左頬を深く切り裂き、鮮血が暗闇に飛び散る。激しい痛みが走るが、時雨は不敵な笑みを崩さなかった。
彼は避ける動作の途中で、左手の指先に挟んでいた一本の「黒鉄の太針」を、レンガの割れ目、地潜の掘削爪が突き出ている隙間へと、全体重を乗せて深く突き刺した。針の先端が、泥の中に潜む敵の腕の主要な経穴を正確に捉える。
「ぐあああっ!?」
床下から、こもった絶叫が響き渡った。経絡を直接破壊された地潜の爪が、激しく震えて泥の中へと引き戻されていく。奇襲を防ぐことには成功した。しかし、時雨の肉体にはさらなる負担がかかり、激しい眩暈が彼を襲う。
「へへ……防ぎやがったか、死に損ないめ」
その時、彼らが逃げてきた背後の暗闇から、甘く、そして肺を麻痺させるような不気味な霧が静かに流れ込んできた。レンガの壁を這うようにして、指先に異常に長い爪を装着した不気味な男――「毒牙」の影が、無音で時雨の死角へと迫っていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!