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砕かれた門と風の警告

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ドォォォン!!!


 鼓膜を直接引き裂くような大爆音。しかし、時雨(しぐれ)の左耳には、それが水中に沈んだかのような、低く濁った地鳴りとしてしか届かなかった。代わりに脳髄を直接引っ掻くのは、「キィィィン」という高周波の耳鳴りだ。玄馬との死闘、そして最初の死穴を開放した代償である難聴は、未だ彼の世界を半分閉ざしたままだった。


 崩壊した廃寺の木門。その破片が、白い煙と共に地下階段の入り口まで吹き飛んでくる。空気中に立ち込めるのは、焦げた木材の臭いと、雨に濡れた石塵の冷たい匂い。そして、その奥から静かに漂ってくる、肌が粟立つほどの高密度な闘気。


「乾坤一指(けんこんいっし)」――。


 空気の壁すら穿つという、乾坤指路門(けんこんしろもん)の正統なる指法。その圧倒的な破壊の余韻が、廃寺の境内を支配していた。


「ア、アニキ……門が一瞬で……! 奴が、奴が降りてくる!」


 鉄次(てつじ)が恐怖に顔を歪め、時雨の衣服の袖を掴んでガタガタと震えている。時雨は右耳だけでその悲鳴を聞き流し、左腕に抱えた小夜(さよ)の身体を強く引き寄せた。小夜は完全に昏睡しており、その呼吸は浅く、細い。彼女の懐にある、祖父の形見である薬草調合鉢「木霊(こだま)」の硬い感触が、時雨の脇腹に当たっていた。


(くそ……右手さえ動けば、ここで針を構えられるものを)


 時雨は自らの右腕を見下ろした。感覚が完全に消失した右手は、氷のように冷たく、まるで他人の肉の塊を肩から吊り下げているかのようだった。指先一つ動かせない。この状態で、玄馬の十倍以上の指力を持つ青嵐(せいらん)と正面から交われば、死穴を晒す前に肉体を粉砕されて即死する。それは生存戦略ではなく、ただの無駄死にだ。


 カツン、と静かな足音が、粉砕された門の向こうから響いた。白い刺繍を施した道着を纏う青嵐が、煙を割って歩みを進めてくる。その冷徹な切れ長の瞳は、すでに地下へと続く石段の闇を正確に見据えていた。青嵐の指先から放たれる微細な内力が、まるで目に見えない蜘蛛の糸のように、地下室に潜む時雨の「逆脈」の気配を絡め取ろうと伸ばされている。


 時雨の「脈動感知(みゃくどうかんち)」が、青嵐の鼓動を捉えた。一点の乱れもない、冷酷なまでに規則正しい脈動。それは、弱者を蹂躙することに何の躊躇もない強者の証明だった。


「そこまでだ、小僧」


 闇の向こうから、青嵐の低く通る声が響く。時雨の身体が、本能的な恐怖で硬直しかけた。その瞬間――。


「おいおい、若い衆。こんな薄汚い廃寺に、大層な御一行様じゃねえか」


 ぬっと闇から現れたのは、右袖を虚しく風に揺らした隻腕の老達人、半兵衛(はんべえ)だった。彼は赤くなった鼻をすすり、だらしなく下げた酒瓶を口元に運ぶと、青嵐の目の前で豪快に酒を吹き出した。


「なっ……何者だ、貴様は」


 青嵐の眉が不快げに微かに動く。だが、半兵衛は答える代わりに、空になった重い粘土質の酒瓶を、青嵐の足元に向けて全力で叩きつけた。


 ガシャァン!


 酒瓶が砕け散ると同時に、半兵衛の唯一の左手が、不気味な円を描くように空気を薙いだ。風を操る功法「逆風心経(ぎゃくふうしんげい)」の内力が爆発的に解放される。砕け散った酒の飛沫、そして廃寺に積もっていた数十年分の砂埃と瓦礫の破片が、凄まじい旋風となって巻き起こり、青嵐の視界と気の感知を完全に遮断する強烈な砂嵐を作り出した。


「ごほっ、ごほっ! これは……!」


 青嵐の背後に控えていた紫苑(しおん)が、砂埃に顔を覆って後退する。青嵐もまた、突如として周囲の気の流れを乱され、時雨の逆脈の感知を見失った。


「小僧! うかうかしている暇はないぞ! さっさと泥に潜れ!」


 砂嵐の向こうから、半兵衛の鋭い一喝が響いた。隻腕の老人の身体は、すでに風と同化するようにして闇の中へ消え去っている。


「時雨の兄貴、こっちだ! 急いで!」


 地下密室の隅。湿ったレンガの床板が、音もなく持ち上がった。そこから顔を出したのは、全身に下水泥を塗りたくったネズミの皮を被る少年、長松(ながまつ)だった。彼は時雨に皮膚病を治療してもらった恩義を返すため、命懸けで地下水道の隠しルートを開けて待っていたのだ。


「長松……恩にきる」


 時雨は昏睡した小夜を左腕一本で抱き抱え、右手の麻痺を庇いながら、開かれた暗黒の穴へと滑り込んだ。鉄次もまた、泣き叫びながらその後に続く。長松が素早い手つきで床板を戻し、泥と埃を散らして侵入経路を完全に偽装した。


 ――烏有街の地下水道(うゆうがいのちかすいどう)。


 闇と、耐え難いドブの臭気、そして骨まで染みるような湿気が時雨たちを包み込んだ。足元は膝まで浸かるほどの泥濘だ。時雨のボロボロの肉体に、地下水道の冷気が容赦なく突き刺さる。胸元の「第一死穴」の痣が、急激な温度変化に呼応して、抉られるような痛みを放ち始めた。


「がはっ……!」


 時雨は口から黒い血を吐き出し、湿ったレンガの壁に身体を預けた。左耳の「キィィィン」という耳鳴りが、狭い地下空間で反響し、彼の平衡感覚を狂わせる。小夜の重みが、今の彼の肉体には千斤の岩のように感じられた。


「時雨の兄貴、大丈夫かい? ここは迷路のようになってるから、黒蛇会のヤクザどもじゃ追ってこれねえよ」


 長松が暗闇の中で器用に松明に火を灯し、前方を指し示した。時雨は荒い呼吸を整えながら、右耳を壁に押し当てた。地上の廃寺の様子を探るためだ。彼の「脈動感知」が、薄いレンガと土の層を透かして、地上の振動を拾い上げる。


 地上では、青嵐が立ち込める砂嵐を、ただ右手の指先を一閃させるだけで完全に切り裂いていた。風圧によって砂埃が一瞬で吹き飛ばされ、静寂が戻る。そこにはもう、時雨たちの姿も、半兵衛の姿もなかった。


 青嵐は、時雨たちが消えた床板の前に立ち、静かに跪いた。彼は床の隙間から漂う、微かな気の残滓を指先でなぞる。その指先が、不気味な熱を帯びて微振動した。


 地下水道の暗闇の中、時雨の右耳に、壁を伝って青嵐の冷徹な声が、恐ろしいほどの鮮明さで響いてきた。


「経絡が逆流している……まさか、あの生き残りか」


 その言葉が、地下の冷たい空気を凍りつかせた。時雨は息を止め、自らの胸元を強く握りしめた。神谷一族を滅ぼした太医院の影が、この烏有街の泥濘の地まで、確実に伸びてきている。宿敵に正体が察知された極限の緊張感が、時雨の逆脈を激しく脈打たせた。

HẾT CHƯƠNG

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