青嵐の降臨、新たなる猟犬
キィィィン――。
左耳の奥で、頭蓋を直接針で抉られるような高周波の耳鳴りが鳴り響いていた。烏有街の泥濘に降り続く雨の音も、その金属的な不協和音にかき消され、右耳からしか入ってこない。時雨(しぐれ)は、鉛のように冷え切った右手を自らの胸元に当てようとしたが、指先一つ動かすことすらできなかった。感覚が完全に消失している。玄馬(げんま)の「蛇咬指法」を喰らい、最初の死穴を開放して延命を得た代償は、彼の肉体を確実に侵食していた。
「う、うぅ……」
時雨の胸元に倒れ込んだ小夜(さよ)の、微かな吐息が右耳だけに届く。彼女の顔色は紙のように白く、時雨の逆脈を繋ぎ止めるためにすべての医療内力を使い果たして昏睡していた。彼女の小さな体温だけが、時雨の冷え切った左胸に微かな生の温もりを伝えている。
(すまない、小夜。俺のために、お前のすべてを……)
時雨は動きの鈍い左腕を伸ばし、小夜をそっと抱き寄せた。その瞬間、廃寺の地下密室の天井から、ゾクりとするような氷冷の気配が染み込んできた。雨夜の冷気ではない。刃物のように研ぎ澄まされ、一点の淀みもない、圧倒的に洗練された武人の「内力の波動」だ。
――本物が来た。
烏有街を支配するヤクザ組織「黒蛇会」の背後に君臨する、名門「乾坤指路門(けんこんしろもん)」。その本山から、玄馬の死を調査するために送り込まれた「猟犬」の気配だった。
その時、地下室の錆びた鉄扉が、不器用な音を立てて開いた。松明の光が揺れ、転がり込むようにして現れたのは、恐怖で全身を激しく震わせた鉄次(てつじ)だった。
「ア、アニキ……! 大変だ、大変なことになっちまった……!」
鉄次は時雨の前に跪き、失禁せんばかりの顔で叫んだ。その声は、時雨の左耳にはただのこもった雑音にしか聞こえなかったが、右耳がその必死の警告を拾い上げた。
「静かにしろ。小夜が眠っている」
時雨は冷徹な声を絞り出した。鉄次は一瞬ひるんだが、声を潜めながらも、早口で報告を続けた。
「乾坤指路門の内門弟子……十年に一人の天才と呼ばれる『青嵐(せいらん)』が、この烏有街に降臨したんだ! 奴は、玄馬の死体を一目見ただけで、内力が逆流して吸い尽くされたことを見抜いた。それだけじゃねえ……!」
鉄次の脳裏には、数時間前に烏有街の広場で目撃した、悪夢のような光景が焼き付いていた。
「広場で、黒蛇会の縄張りを狙って暴れていた鉄掌門(てっしょうもん)の屈強な武芸者たちがいたんだ。鉄皮境に達した大男が三人、青嵐に立ち向かった。だが……青嵐は眉一つ動かさず、ただ、右手の指先を突き出した。それだけだ。白い光が一閃した瞬間、大男たちの頑強な皮膚は紙のように貫かれ、経絡の結節点を一撃で破壊されてその場で廃人になっちまった。あの硬い石柱の後ろに隠れていた奴すら、柱ごと胸を撃ち抜かれたんだ。あれが、本山の『乾坤一指(けんこんいっし)』……空気の壁すら穿つ、本物の指法だ!」
鉄次の言葉を聞きながら、時雨は冷徹に自らの現状を分析していた。胸元の痣――「第一死穴」の定着により、余命は半年に延び、体内の基礎内力は倍増した。だが、玄馬の力を同化したばかりの今の肉体は、暴走の余熱でボロボロだ。右手の感覚はなく、左耳は聞こえない。昏睡した小夜を抱え、正面からその「青嵐」と交わるのは、自殺行為以外の何物でもない。
(青嵐の指力は、玄馬の十倍以上。今の俺が『死穴晒し』を使い、あの突きを正面から喰らえば、衝撃を『経絡滑り』で受け流す前に、心臓ごと肉体を粉砕されて即死する。奴を喰らうには、このボロボロの肉体を一度休め、より高度な心理的誘導と、敵の突きを完全に避けるための『何か』が必要だ)
時雨の脳裏に、かつて烏有街の片隅で出会った隻腕の老達人・半兵衛の言葉が掠めた。
『小僧、避けない戦い方は強者の前では通用せん。敵の指先を目で追うな。指が空気を切り裂く瞬間に生じる、微細な風の揺らぎを肌で読め』
(風を読む……。だが、今の俺にはそれを実践する修行の時間すらない)
「鉄次、地下下水道への隠し通路を開けろ。小夜を連れてここを脱出する」
「わ、分かった。案内する!」
鉄次が床の隠し板を取り外そうとしたその時、廃寺の地上から、ギィ……と不気味な軋み音が響いてきた。時雨の「脈動感知」が、地上の状況を脳内に描き出す。無数の足音が廃寺を取り囲み、逃げ道を完全に塞ごうとしていた。代官所の警備兵と、乾坤指路門の精鋭たちだ。
そして、その包囲網の中心に、圧倒的な、冷たく光り輝く内力の塊が静かに佇んでいた。
――地上、廃寺の境内。
激しい雨が、白地に青い刺繍が入った美しい道着を纏う青年の肩を濡らしていた。青嵐。十八歳にして乾坤指路門の頂点に迫る天才は、冷徹な切れ長の瞳で、崩れかけた廃寺の佇まいを見つめていた。その傍らには、紫色のしなやかな戦闘衣を身に纏い、長い黒髪を一つに結んだ少女――紫苑(し苑)が、静かに控えていた。
「青嵐兄上、本当にこの廃寺に、玄馬を殺した者が潜んでいるのですか?」
紫苑の問いに、青嵐は無表情のまま、細く美しい右手の指先を微かに動かした。その指先から放たれる微弱な内力が、空気中の気の乱れを感知している。
「玄馬の死体に残された内力の痕跡は、乾坤指路門の技を模したものではなかった。あれは、内力の流れを強制的に逆流させ、相手の力を奪い取る不気味な『逆脈』の残滓だ。そして、この廃寺の地下から、その逆流する不浄な気の脈動が微かに漏れ出ている」
青嵐の言葉に、紫苑は胸元に飾られた「紫霊石」の首飾りが、不気味に熱を帯びて微振動しているのを感じた。彼女は生真面目で正義感が強いが、門派が裏で行っている平民搾取や、太医院との怪しい裏取引に内心で深い疑問を抱いていた。時雨の「死穴を突かせて生き延びる」という奇妙な戦い方の噂を聞いた時、彼女の心に、恐怖とは異なる奇妙な違和感と興味が芽生えていた。
「逆脈……。そのような不治の病を抱えながら、名門の達人を倒す者が、本当に存在するのでしょうか」
「存在すれば、それは門派の威信を揺るがす害獣だ。ここで確実に処理する」
青嵐は冷酷に言い放ち、廃寺の重い木門の前に一歩を踏み出した。彼の全身から、一点の淀みもない白い闘気が立ち上り、周囲の雨粒がその圧力によって空中で弾け飛ぶ。
地下通路の入り口の闇に身を潜めた時雨は、右耳だけで地上の大気の緊張感を捉えていた。小夜を左腕で強く抱き寄せ、彼女の携帯用薬箱「木霊」を懐に押し込む。右手の麻痺は相変わらず氷のように冷たく、左耳の耳鳴りは「キィィィン」と激しさを増していた。
(来るぞ。本物の、乾坤の指が――)
地上で、青嵐が静かに右手を掲げた。人差し指と中指の先端に、全身の奔流する内力が一瞬で凝縮されていく。その指先は、目も眩むような鋭い白い光を放ち、周囲の空気を高周波の風切り音と共に歪めた。
「乾坤指路・本流――『乾坤一指』」
青嵐の指先が、無造作に突き出された。
ドォォォン!!!
凄まじい衝撃音が烏有街の夜空を震わせた。指先から放たれた不可視の白い光の刃が、廃寺の頑強な重い木門を一瞬にして粉々に粉砕し、背後の石柱ごと大穴を穿った。爆風と共に、無数の木片と石の破片が弾丸となって闇の中に飛び散る。
地下へと続く石段の闇の中から、時雨は目を細め、その圧倒的に光り輝く指先を、冷徹な、しかし狂気的な生の光を宿した瞳でじっと凝視した。
(あの指先だ……。あの圧倒的な『死』の光こそが、俺の逆脈をさらに進化させる、次の極上の獲物だ)
立ち込める白い煙の向こうから、青嵐の冷徹な影が、廃寺の境内へと静かに歩みを進めてくる。時雨たちの、命を賭けた騙し合いの第二幕が、今、最悪の包囲網の中で幕を開けようとしていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!