泥濘の街と死に損ないの少年
烏有街(うゆうがい)の雨は、いつも油のように粘ついていた。泥濘にまみれた路地裏には、腐った薬草の匂いと安価な石炭の煙が立ち込め、行き交う平民たちの顔からは生気が失われている。ここは帝国の最果て、東極の荒野。朝廷の法は届かず、乾坤指路門(けんこんしろもん)の末端組織である「黒蛇会(こくじゃかい)」が暴力で全てを支配する、泥を這うような無法地帯だった。
「はぁ、はぁ……っ……!」
崩れかけた泥壁に背を預け、十七歳の少年、時雨(しぐれ)は胸元を強く掻きむしっていた。麻の擦り切れた道着の下、心臓のすぐ上で、経絡が通常の逆方向にのたうち回っている。まるで数千本の細い錆びた鉄針が、血管を内側から突き破ろうとしているかのような激痛。生まれつき経絡が逆流する奇病「逆脈(ぎゃくみゃく)」。かつて帝都で名高かった医家「神谷(かみや)一族」の生き残りである時雨は、この病のせいで余命わずか三ヶ月という死の宣告を抱えていた。
(まだだ……まだ死ねない。あいつを、一族を罠に嵌めて滅ぼした太医院長・薬師寺玄真(やくしじげんしん)の首を獲るまでは……!)
時雨は不敵な笑みを浮かべようとしたが、口から漏れたのは乾いた咳と、わずかな血の泡だった。懐に手を入れ、今日売りさばいた安価な野草の小銭を確かめる。これでは、痛みを抑える薬草さえまともに買えない。時雨はよろめく足取りで、烏有街の片隅にひっそりと佇む小さな薬局を目指した。軒先に吊るされた、枯れかけた桜の木が目印の場所――「夜桜堂(よざくらどう)」である。
引き戸を開けると、乾いた薬草の香りと、薬研(やくげん)がブロンズの鉢と擦れ合う単調な金属音が時雨の耳に届いた。薄暗い店内の奥で、薬草を調合していたのは男装の薬師の衣を纏った十八歳の少女、小夜(さよ)だった。彼女は端整な顔立ちに凛とした瞳を宿し、入ってきた時雨を一瞥するなり、薬研を動かす手を止めた。
「またお前か、時雨。その顔色……灰を被ったような灰色だ。私の忠告を無視して、またまともな食事も摂らずに荒野を彷徨っていたの?」
「おいおい、手厳しいな、小夜。これでも一応、お得意様のつもりなんだが……」
時雨は軽口を叩こうとしたが、言葉の途中で膝の力が抜け、カウンターに突っ伏した。小夜は呆れたようにため息をつきながらも、素早い足取りで彼の傍らに駆け寄り、細い指先で彼の細い手首を掴んだ。脈を診るためだ。
その瞬間、小夜の表情が驚愕に凍りついた。
「なっ……何、この脈動は!? 経絡の流れが完全に逆行している……! 普通の人間なら、一瞬で全身の血管が破裂して即死しているはずよ。なぜ、お前はこれで生きて動けるの?」
「生まれつきのへそ曲がりでね。内力が普通とは逆方向に流れたがるのさ」
時雨は血の気の失せた唇をつり上げ、退廃的な笑みを浮かべた。小夜は彼の不敵な瞳をじっと見つめ、それが強がりではなく、本物の狂気を孕んだ生への執着であることを察した。彼女は奥の棚から、厳重に封印された小さな漆塗りの木箱を取り出した。中から現れたのは、不気味なほど鮮やかな赤い粉末が収められたガラス瓶だった。
「……これは『赤蛇散(せきじゃさん)』。赤蛇の毒腺と複数の秘伝薬草を私が極秘に調合した活性薬よ。お前の逆流する経絡を強制的に刺激し、一時的に通常の十倍の内力の流れを作り出す。だけど、これは命の灯火を激しく燃やす薪と同じ。使用後は激しい喀血を伴い、お前の本来の寿命を確実に削り取るわ。本当に使う気?」
「削る寿命が残っているだけ儲けものだ。よこせよ、小夜。俺には時間がないんだ」
時雨は躊躇なくガラス瓶を奪い取り、その赤い粉末を喉の奥へと流し込んだ。一瞬にして、食道から胃袋にかけて、沸騰した溶岩を流し込まれたかのような激熱が突き抜ける。逆流する経絡が、まるで火をつけられた導火線のように激しく脈打ち始めた。
――その時、夜桜堂の古い木製の扉が、凄まじい衝撃音と共に内側へと蹴破られた。
「おいおい、湿気た薬臭い店だな! 薬師の小娘、今月のみかじめ料と、裏で仕入れた希少な『黒骨花(こっこつか)』をすべて出してもらおうか!」
入ってきたのは、額に蛇の刺青を施した粗暴な男たち――黒蛇会の下っ端ヤクザ三人だった。先頭の男は、腰に下げた錆びた刀をガチャつかせ、脅すように小夜を睨みつける。
「黒蛇会……! みかじめ料なら先週払ったはずよ。それに『黒骨花』は貧民の熱病を抑えるための備蓄薬。お前たちに渡すものなんてないわ!」
小夜は一歩も引かず、毅然とした態度で拒否した。しかし、ヤクザの男は不快そうに鼻を鳴らし、太い腕を伸ばして小夜の肩を力ずくで掴もうとした。
「うるせえ! 若頭の玄馬(げんま)兄貴が持ってこいって言ってんだよ。逆らうってなら、この店ごと灰にして――」
「よせよ、汚い手で触るなと言っている」
ヤクザの男の前に、音もなく割り込む影があった。時雨だった。彼の全身からは、先ほど飲み込んだ『赤蛇散』の影響で、微かに紫色の熱気が立ち上っている。その瞳は、病人のものとは思えないほど鋭く輝いていた。
「あぁ? なんだこの死に損ないのガキは。邪魔すんじゃねえ!」
苛立ったヤクザの拳が、風を切り裂きながら時雨の無防備な胸元に向けて放たれた。時雨は避ける動作を一切しなかった。それどころか、あえて胸を張り、敵の拳を真っ向から受け止める位置へと自らの身体を差し出したのだ。
(来い……お前たちの浅薄な内力を、俺の逆脈に喰わせてみろ!)
ドォン! と、鈍い衝撃音が夜桜堂の店内に響き渡った。ヤクザの拳が時雨の胸元に直撃する。凄まじい物理的衝撃が時雨の肉体を襲い、彼の肺から空気が押し出された。まだ『天針逆行術』を完全に制御できていない時雨の肉体は、その一撃の衝撃を完全に殺しきれず、口元から一筋の赤い血が流れ落ちた。
「がはっ……!」
「ハハッ! ざまあみろ、一撃で内臓が破裂したか!」
ヤクザは勝ち誇ったように笑おうとした。しかし、次の瞬間、彼の笑い顔は引き攣った恐怖へと変わった。
時雨は、血を流しながら笑っていたのだ。その瞳には、底知れない退廃的な愉悦が宿っていた。
「……今のが、お前の全力か? 蚊に刺されたほども響かないな」
時雨の体内で、逆流する経絡がヤクザの拳から侵入した内力の衝撃を強引に巻き込み、自身の逆脈のエネルギーへと変換し始めていた。ヤクザは、自分の拳が時雨の胸に吸い付いて離れないような、奇妙で不気味な感覚に襲われた。時雨の体表から立ち上る紫色の蒸気が、ヤクザの肌をチリチリと焦がす。
「ひっ……このガキ、化け物か……!? 拳が抜けない……!」
時雨が不敵に口元を歪め、懐から一本の「黒鉄の太針」を抜き取ろうとしたその瞬間、恐怖に駆られた他の下っ端たちが、慌てて仲間を引きずり剥がした。
「お、おい! このガキ、普通じゃねえ! 一度引くぞ!」
「覚えてやがれ! 玄馬の兄貴に言いつけて、お前ら全員泥濘に沈めてやるからな!」
捨て台詞を吐き散らしながら、ヤクザたちは蹴破った扉から這うようにして逃げ去っていった。夜桜堂に、再び静寂が戻る。時雨は太針を懐に戻すと、激しく喀血し、その場に膝を突いた。
「時雨……!」
小夜が駆け寄り、彼の体を支える。時雨の胸元は赤黒く腫れ上がっていたが、彼の瞳の奥に宿る復讐の炎は、これまでになく激しく燃え盛っていた。烏有街の泥濘の地で、少年と少女の運命が、静かに、しかし確実に回り始めたのだった。
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