毒の自爆と白蛇の影
「おのれ……! こうなれば、この井戸ごと全員あの世へ連れて行ってやる!」
泥塗れの地面に膝を突きながら、毒蠍の伝八は狂気と恐怖の入り混じった絶叫を上げた。懐から引きずり出された革袋が、共同井戸の闇深い口の上で危うく揺れている。その中身は、一滴で牛をも即死させる猛毒「黒蠍の毒」であった。
「兄上、俺が――!」
慎之介が折れた名刀「風切」を構え、地を蹴ろうとした。だがその瞬間、物陰に佇む秋月総十郎が、静かに、しかし有無を言わせぬ威厳に満ちた声でそれを制した。
「待て、慎之介。動くな」
「しかし、兄上! 奴の手が離れれば、宿場町は――」
「力ずくで奪おうとすれば、奴は躊躇なく袋を破る。風下にいる我らも、そしてこの井戸の水も、一瞬にして死の沼と化す。……下がっていなさい」
総十郎は竹の仕込み杖を泥濘に静かに突き立て、一歩、また一歩と伝八の方へ歩み出た。その両目は、無極閣の燃え残りで作られた黒い目隠しで固く覆われている。光を失ったその佇まいは、まるで嵐の後の静寂そのもののようだった。
「ひゃはは! そうだ、動くな! 一歩でも近づけば、この袋を井戸の底へ落としてやる!」
伝八は虚勢を張り、喉を鳴らして笑った。だが、総十郎の耳はその欺瞞を瞬時に暴き出していた。
――ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。
総十郎の鼓膜を叩く、異常なほどに速く、乱れた心音。それは「心音の嘘看破」の術を修めた総十郎にとって、暗闇に光る松明よりも明瞭な「恐怖」の告白であった。
「伝八。お前は『全員道連れだ』と叫んでいるな」
総十郎は立ち止まり、静かに首を傾げた。
「だが、お前の心音は嘘をつけない。一分間に百四十回。呼吸は浅く、指先は泥を掴むことすらできずに小刻みに震えている。それは死を覚悟した者の鼓動ではない。己の死に怯え、生の執着に引き裂かれている臆病者の心音だ」
「な、何だと……! 盲目の分際で、知ったような口を!」
「お前がかつて、黒霧谷で何をしたか、およねさんから聞いた。お前は共に薬草を摘んでいた仲間を裏切り、彼らを崖から突き落として錆刃衆に取り入った。……他人の命を吸って生き延びてきた男だ。そんな男が、自らの命をここで捨てる覚悟などあるはずがない」
総十郎の静かな、しかし氷のように冷たい言葉が、伝八の脳髄を直接突き刺した。過去の罪悪感と、今まさに暴かれようとしている本性が、彼の精神的支柱を根底から揺るがす。
「あ……、あ……」
「お前の指先は、毒袋の紐を握りしめたまま硬直している。筋肉が強張っているのは、自爆するためではない。私の言葉に、お前の魂が怯えているからだ。お前は、死にたくないのだろう?」
伝八の呼吸が劇的に乱れ、過呼吸に陥った。総十郎の「絶対音感」は、伝八の肺が引き攣り、全身の経絡が極限の緊張で収縮していく音を捉えていた。精神的に完全に崩壊した伝八は、盲目の男がまるで底なしの深淵のように見え、本能的な恐怖から後退しようとした。
「くるな……! くるなァッ!」
伝八が慌てて後ろへ足を引いた。だが、その足元は、先ほどの嵐が残した深い泥濘であった。滑る足元。バランスを崩した伝八の右足の踵が、井戸の木枠の縁を強く踏みしめた。
そこには、先ほど慎之介が弾き落とし、木枠に深く突き刺さっていた、伝八自身の「黒蠍の毒」が塗られた暗殺針が残されていた。
――チクッ。
泥の沈む音に混じって、微かな、肉を貫く鋭い音が総十郎の耳に届いた。
「あ……、が……っ!?」
伝八の眼球が大きく見開かれ、全身が引き攣るように硬直した。黒蠍の毒は、経絡の気の流れを瞬時に麻痺させ、心臓を停止させる。自ら仕込んだ猛毒が、踵の経絡を通じて一瞬にして彼の全身を駆け巡ったのだ。
伝八の手から、黒蠍の毒の革袋が力なく零れ落ちる。井戸の暗黒の底へと落下していく袋――。
「慎之介!」
総十郎の鋭い指示が響く。慎之介はすでに動いていた。大気をも切り裂かぬ「無音の刺」の軌道を描き、折れた「風切」の平が、落下する革袋の紐を寸前で掠め取った。刀身を滑らせ、衝撃を逃がす「化勁」のいなし。袋は破れることなく、慎之介の刀身の上で静かに静止した。
ドサリ、と重い音がして、伝八の死体が泥の中に崩れ落ちた。口から紫色の泡を吹き、その瞳からは完全に光が消え失せていた。
「……見事だ、慎之介」
総十郎は小さく息を吐き、激しい耳鳴りに耐えながら仕込み杖を収めた。多重思考の酷使により、頭痛が彼のこめかみを締め付けていたが、宿場町の水源は守られた。
だが、勝利の余韻に浸る時間はなかった。慎之介が伝八の懐を改めると、そこから一枚の古い木札が転がり落ちた。乾いた木が擦れ合う音が、総十郎の耳に届く。
「兄上、これは……?」
「金沙湊……。伝八は、あの商業都市の闇と繋がっていたのか。錆刃衆の背後にいる銭形屋の影が、やはりそこへ繋がっている」
そのとき、広場の闇から、すばしっこい足音が近づいてきた。太一の相棒である三吉が、息を切らせて走ってきたのだ。その手には、お蓮からの極秘の書状が握られていた。
「総十郎先生! お蓮の姉ちゃんからの伝言だ!」
総十郎は書状を受け取り、太一に読ませた。太一が震える声でその内容を読み上げる。
『銭形屋宗兵衛が、黒崎代官に莫大な賄賂を贈った。代官所は自警団を「朝廷禁武令」に違反した「逆賊」と認定し、法的に茶屋を包囲して抹殺する許可を出した。……すぐに逃げて』
総十郎の目隠しの奥の眉が、鋭く潜められた。伝八の毒殺計画は、ただの強襲ではなかった。我々の警戒を引きつけ、その間に代官所を動かして「法的な包囲網」を完成させるための、錆刃衆の副頭領「白蛇の信」による冷酷な二重の罠だったのだ。信は、この茶屋が抵抗の「真の脳」であることを見抜いていた。
その瞬間、総十郎の驚異的な聴覚が、夜の静寂を切り裂く「重い足音」を捉えた。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――。
それは、統制された数十人の足音。泥を強く踏みしめる鉄靴の響き、そして微かに擦れ合う朝廷の甲冑の音。黒崎代官所の執行人「大剛」が率いる、武装した足軽兵卒たちの進軍音であった。彼らは、高台の茶屋に向けて、包囲網を狭めながら行進している。
「慎之介、太一。茶屋へ戻るぞ。……黒崎代官所の兵たちが、すでに動き出した。あの重い鉄靴の足音……狙いは我らだ」
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