仕組まれた欠陥
嵐の予兆を孕んだ重苦しい風が、枯葉茶屋の薄い板戸を激しく叩いていた。床板に広がった総十郎の古い喀血の臭いは、雨の湿気と混ざり合い、異様な生臭さを店内に充満させている。
「う、うぅ……」
床に膝を突き、折れた「風切」を握りしめたまま、漣慎之介はついに限界を迎えて崩れ落ちた。胸元の凄惨な爪傷からは、再び黒ずんだ血がじわりと滲み出し、彼の体温は恐ろしいほどに上昇している。鉄爪の狂犬が遺した爪毒が、彼の経絡を内側から蝕み始めていた。
「先生、どうしよう……! 漣の兄ちゃん、息がすごく荒いよ!」
太一が青ざめた顔で、慎之介の体を支えようと駆け寄る。総十郎は目隠しの奥で、慎之介の不規則で促迫した心音を聞き取っていた。これ以上放置すれば、毒が心臓に達し、命を落とすのは時間の問題だった。
「太一、騒ぐな。呼吸を乱せば、外の風に気配が漏れる。……今すぐ裏道から町へ走り、源庵先生を呼んでこい。誰にも見られてはならんぞ」
「わ、わかった! すぐに行ってくる!」
太一はすばしっこい足取りで、嵐の闇へと消えていった。総十郎は静かに立ち上がり、床の血だまりを避けて慎之介の傍らに跪く。その細い指先で慎之介の手首の脈を診ると、気の流れが泥のように濁り、滞っているのが分かった。
「……愚かな。これほどの毒を受けながら、意地だけで剣を振るっていたか」
それから半刻もしないうちに、太一に伴われて、無精髭を生やした初老の医師・源庵が茶屋へと滑り込んできた。彼は薬草の匂いを漂わせながら、すぐに床の血痕と慎之介の有様を見て顔をしかめた。
「おいおい、総十郎。また厄介なものを抱え込みやがって。……それに、この床の血は何だ? お前、また無茶をして肺の毒を吐き出したな?」
「私のことはいい、源庵先生。その若者を救ってやってくれ。漣家の生き残りだ」
「漣家だと? あの覇王会に滅ぼされた……」
源庵は驚きに目を見張ったが、すぐに医師の顔に戻り、持参した薬箱を開いた。彼は手際よく慎之介の傷口を清め、懐から「千草丸」を取り出してその口にねじ込む。さらに、十数本の金針を慎之介の胸元と腕の経絡へ、目にも留まらぬ速さで刺し込んでいった。
「ふぅ……。毒の進行は止めた。だが、完全に抜くには数日の安静が必要だ。おい、総十郎。お前の肺も限界に近い。先代の玄明館長がお前に記憶を託して死んだのは、お前がその知識を抱いて自滅するためじゃないはずだぞ」
「分かっている。……だが、運命がこの男を私の前に運んできたのだ」
源庵は深くため息をつき、総十郎の肺病を和らげるための煎じ薬を太一に手渡すと、闇に紛れて診療所へと帰っていった。
深夜、嵐の雨が茶屋の屋根を激しく打ち据える中、慎之介は意識を取り戻した。高熱は引き、呼吸も安定していたが、その瞳に宿る光は暗く沈んでいた。彼は枕元に置かれた、半ばから無残に折れた「風切」を見つめ、激しい屈辱と焦燥感に身を震わせた。
「なぜだ……なぜ俺の剣は、あの無法者どもに届かなかった……。漣の剣は、天下に並ぶ者なき最強の抜刀術のはず……!」
慎之介は這い上がるようにして布団を抜け出し、折れた刀を握りしめて茶屋の裏庭へと向かった。激しい雨が彼の体を濡らすが、それすら気づかない様子で、彼は狂ったように折れた刀を振り回し始めた。
「ヒュッ……ヒュッ……」
雨音に混じって、刃が空気を裂く音が響く。しかし、その音は総十郎の耳には、あまりにも不快な「濁り」として聞こえていた。
総十郎は静かに縁側に腰を下ろし、雨の冷気を感じながら、目隠しの奥の耳を慎之介の動きへと向けた。
「無駄だ、慎之介。どれだけ剣を振るおうと、その刃が錆刃衆の頭領に届くことはない」
総十郎の静かな声が、雨音を突き抜けて慎之介の耳に届いた。慎之介は動きを止め、肩で息をしながら総十郎を睨みつけた。
「あんたに何が分かる! 俺は幼少期から、父の厳しい指導のもとで漣家の剣譜を完璧に修めてきたんだ! ただ、俺の修行が足りなかっただけだ!」
「いや、違う」
総十郎は首を横に振った。
「お前が刀を抜く瞬間、お前の右肩はほんの三分だけ上に跳ね上がっている。その僅かな力みが、風の抵抗を生み、抜刀の速度を決定的に遅らせているのだ。さらに、その力みによって肩の経絡が圧迫され、気の流れが滞る。一瞬の隙――それこそが、お前の剣の致命的な弱点だ」
「黙れ!」
慎之介は怒りに顔を真っ赤にし、折れた「風切」を総十郎の喉元へと突き出した。刃先は激しく震え、総十郎の皮膚から僅か一寸のところで止まっていた。
「家伝の剣を、父の遺志を侮辱することは許さん! 盲目の隠居が、剣も握れぬ分際で偉そうな口を叩くな!」
総十郎は、喉元に突きつけられた冷たい鉄刃に対しても、眉一つ動かさなかった。目隠しの奥の耳は、慎之介の激しい呼吸と、怒りによって乱れた心拍、そして衣服が擦れる微かな音を完璧に捉えていた。
慎之介がさらに一歩踏み込み、刀を突き出そうとしたその瞬間――。
総十郎の手元にあった竹の仕込み杖が、まるで生き物のように音もなく跳ね上がった。
「――!?」
慎之介が気づいたときには、総十郎の杖の極細の先端が、自身の右肩にある「肩髃(けんぐう)」のツボを正確に射抜いていた。内力は一切込められていない。ただ、慎之介が踏み込んだ瞬間の自重と、関節の動きが完全に静止するミリ秒の「気の継ぎ目」を狙い澄ました、完璧な点穴であった。
「くっ……!」
慎之介の右腕から、一瞬にしてすべての感覚が消失した。指先が麻痺し、握りしめていた折れた「風切」が、床板へと乾いた音を立てて転がり落ちる。
「な、何をした……!? 腕が、動かない……!」
慎之介は必死に左手で右腕を掴み、再び刀を握り直そうとしたが、麻痺した右腕は彼の意志を完全に拒絶していた。彼は絶望と畏怖の入り混じった目で、目の前の盲目の隠者を見つめた。
「お前の剣技が通用しなかったのは、お前の才能が足りないからではない。その剣譜自体が、お前の一族を滅ぼすために仕組まれた罠だったのだ」
総十郎は静かに仕込み杖を引き、元の位置に戻した。
「……どういう意味だ?」
「十年前、覇王会の一文字家が漣家を逆賊に陥れた際、彼らはお前の父に、ある『改ざんされた剣譜』を掴ませた。抜刀の瞬間に右肩が上がるように、巧妙に型を歪められた偽物だ。覇王会の達人たちが誇る『金剛体』は、その僅かな右肩の動き(予備動作)を見て、お前の剣の軌道をすべて先読みし、防いでいたのだ。お前の一族は、最初から勝てぬように仕組まれた剣を信じ込まされ、殺されたのだよ」
「そんな……まさか、父上が、俺たちが信じてきた剣が……偽物だったというのか……!?」
慎之介は膝から崩れ落ち、泥水の中に両手をついた。彼の世界が、誇りが、根底から崩壊していく音が、総十郎の耳にはっきりと聞こえた。彼の肩は激しく震え、悔し涙が雨水と混ざり合って地面に滴り落ちていく。
総十郎はゆっくりと立ち上がり、雨の降る裏庭へと一歩踏み出した。彼の脳内には、かつて無極閣の最深部に保管されていた、失われた本物の『漣家剣譜』の原本が、一字一句違わずに鮮明に浮かび上がっていた。
「漣慎之介。絶望している暇はない。失われた本物の『風の軌跡』は、私の頭の中に眠っている」
総十郎は目隠しの奥から、静かに慎之介を見据えた。
「お前に、真の漣流を呼び戻すための『一の口伝』を授けよう。お前の剣を、本物の神速へと変えるために」
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