折れた刀と血の追跡
夕闇が枯葉宿を包み込む頃、北の山から吹き下ろす風は、牙を剥くように冷たさを増していた。蹴破られた板戸の隙間から、容赦のない冷気が茶屋の店内に流れ込み、床に散らばった乾いた木の葉を不気味に躍らせる。
「先生……!」
太一が総十郎の背後にしがみつき、小刻みに震えながら囁いた。総十郎は動じず、ただ黒い目隠しの奥で、風の音の裏側に潜む「不協和音」に耳を澄ませていた。
ズサリ、と濡れた泥を踏みしめる重い足音が敷居をまたいだ。それは、規則的な呼吸を失い、肺が限界まで軋んでいる人間の足音だった。そして何よりも、鉄の匂い――それも、新鮮な血の匂いが、突風に乗って総十郎の鼻腔を鋭く突いた。さらにその手元からは、折れた鉄刃が風を裂く、鈍く濁った「ヒュルル」という不快な風切り音が聞こえてくる。総十郎の脳内書庫にある『漣流剣譜』の残響が、その音と瞬時に共鳴した。
「……漣の剣、やはりな」
総十郎が静かに呟いた瞬間、敷居をまたいだ人影が、糸が切れた人形のように床板へと崩れ落ちた。凄まじい肉体の衝突音と、鉄が板を叩く音が茶屋に響く。
「先生、誰かが倒れてます! 血まみれで、刀が……半分折れてます!」
太一が悲鳴に近い声を上げた。総十郎は竹の杖を静かに突きながら、倒れた若者の傍らへと歩み寄る。目隠しをしたまま、その細い指先を若者の首筋へと滑らせた。肌は異常に熱く、脈拍は暴馬のように乱れている。衣服はぼろぼろに引き裂かれ、胸元には鉄の鉤爪で引き裂かれたような、凄惨な三条の傷跡から今も血が溢れていた。
若者の名は漣慎之介。没落した剣術名家「漣家」の生き残りだった。その右手が固く握りしめているのは、刃の半ばから無残に叩き折られた漣家の名刀「風切」である。刀の柄頭には、細い赤い絹で編まれた「漣小夜の守り袋」が、彼の血に染まりながらも固く結びつけられていた。
「太一、店を閉めろ。板戸を可能な限り立てかけるのだ。それから、敷居の血痕に砂を撒いて隠せ」
「は、はい!」
総十郎は慎之介の軽い体躯を抱え上げた。内力を持たない総十郎の体には重労働だったが、彼は病んだ肺の苦痛を堪え、静かに慎之介を茶屋の奥、筵の下に隠された狭い地下貯蔵庫へと運び下ろした。
地下の湿った暗闇は、一寸先も見えない漆黒の世界だった。しかし、総十郎にとっては地上の光など不要だった。狭い空間に、慎之介の「ゼェ、ゼェ」という激しい喘鳴と、傷口から床に「ポタリ、ポタリ」と血が滴り落ちる音が、雨垂れのように響き渡る。その恐怖に満ちた心拍音は、まるで地下室全体を揺らす太鼓のようだった。
「静かに。息を吸うな」
総十郎は慎之介の熱い胸元に、自身の氷のように冷たい手をそっと当てた。
「敵はすぐそこまで来ている。お前のその心拍の音は、一流の武芸者なら地上の床板越しに容易に聞き取る。死にたくなければ、私の呼吸に合わせろ」
慎之介は、闇の中で盲目の男の目隠しが自分を見据えているような錯覚に囚われた。総十郎の手から、微かだが奇妙に透き通った拍子が伝わってくる。それは、心臓の鼓動を意図的に遅らせ、体温を低下させる「枯葉の呼吸法」の極致であった。
「……くっ、だが、俺は……漣の剣を……ここで絶やすわけには……」
慎之介が苦痛に歪んだ声で、折れた「風切」を無理やり引き抜こうとした。鉄が鞘を擦る僅かな摩擦音が闇に響く。その瞬間、総十郎の細い指先が、慎之介の手首の経絡(ツボ)を音もなく、だが正確に圧迫した。
「今動けば確実に死ぬ。お前の剣はすでに死んでいる。静かにしろ」
総十郎の冷徹な、しかし絶対的な胆力に圧倒され、慎之介の指先から力が抜けた。総十郎の誘導に従い、慎之介は呼吸を極限まで細く、長くしていく。一分間に数回しか打たない、生きた屍のような心拍。血の流れが劇的に遅くなり、傷口からの出血も奇跡的に止まり始めた。これこそが、総十郎が病んだ肺を守るために編み出した「枯葉の呼吸の極致」の応用であった。
「私は上に戻る。決して動くな」
総十郎は音もなく地下室の梯子を登り、蓋を閉めて筵を戻した。そして、何事もなかったかのように木机の前に座り、玄鉄の碁石を指先で転がし始めた。
その直後、茶屋の敷居を乱暴に踏み鳴らす、凄まじい衝撃音が響いた。
「キィ、キィ、キィ」
不気味な鉄の擦れ合う音が、風の音に混じって近づいてくる。両手に鋭い玄鉄の鉤爪を装着した狂気の武芸者――錆刃衆の斬り込み隊長「鉄爪の狂犬」が、ついに茶屋へと踏み込んできたのだ。
「おい、盲目のジジイ。ここに若いネズミが逃げ込まなかったか?」
狂犬の声は、飢えた獣のように嗄れていた。彼は床板を乱暴に踏み荒らし、敷居のあたりで立ち止まった。その鋭い嗅覚が、風通しの良い茶屋に漂う、微かな「新鮮な血の匂い」を捉えようとしていた。狂犬の視線が、慎之介の血痕が僅かに残る筵の方へとゆっくりと向いていくのを、総十郎は床板の軋みと風の動きで正確に察知した。
地下の狭い空間で、慎之介の心拍数が再び緊張で跳ね上がりかける。床板一枚を挟んだ緊迫した静寂。このままでは、狂犬の鋭い耳と鼻に隠れ家が暴かれるのは時間の問題だった。
総十郎は、自身の肺の奥に眠る「腐食毒」の激痛を、意図的に呼び起こした。深く息を吸い込み、気脈を一時的に滞らせる。
「ゴホッ! ゴホゴホッ、ガハッ……!」
凄まじい喀血の発作が、総十郎の喉を突き破った。彼はわざと、口内に溜まった古い、凝固した暗赤色の血を、狂犬の目の前の床板へとぶちまけた。どろりとした生暖かい液体が床に広がり、茶屋の中に、肺病患者特有の酸っぱい、腐食した金属のような強烈な血臭が立ち込める。
「お、お恥ずかしい……。ただの病人の、汚い血でございます……ゴホッ……」
総十郎は弱々しく身を震わせ、白い布で口元を拭った。狂犬は、目の前にぶちまけられた不快な腐臭を放つ血だまりと、今にも死にそうな盲目の隠居の姿を見て、激しく顔をしかめた。
「チッ、汚ねえ病原菌め! 鼻がひん曲がりそうだ!」
狂犬は吐き気を催すような表情で後退し、茶屋の周囲を軽く鉤爪で威嚇するように引っ掻いた後、足早に立ち去っていった。彼の「キィ、キィ」という鉄の音が遠ざかり、枯葉宿の風の音の中に完全に消えていくまで、総十郎は微動だにしなかった。
やがて、完全な静寂が戻ったとき、総十郎は静かに地下の蓋を開けた。
慎之介が、驚愕と畏怖の入り混じった瞳で地下から這い上がってきた。盲目の、武功を一切持たないはずの隠居が、自身の命を削るような欺瞞と圧倒的な composure(胆力)だけで、あの残虐な狂犬を退けたのだ。
「あんた、一体……何者だ……?」
慎之介は折れた「風切」を握りしめたまま、震える声で問いかけた。総十郎は口元の血を静かに拭い、目隠しの奥から、慎之介の持つ折れた刀へと耳を向けた。
「漣慎之介。お前のその折れた刀は、さきほどから風を裂くたびに、悲しいほどに歪んだ音を立てている」
「な、何だと……?」
「お前が刀を抜く瞬間、お前の右肩は、ほんの三分(約一センチ)だけ上に跳ね上がっている。その僅かな力みが呼吸を乱し、剣技の経絡を滞らせているのだ。お前が使っているその『漣家剣技』は、致命的な欠陥を仕組まれた不完全な偽物だ。だからお前は敗れ、お前の一族は滅びたのだ」
総十郎の冷徹な言葉が、慎之介の崩壊したプライドを容赦なく突き刺した。
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