狐の足音と疑惑の影
大剛が率いる代官兵の捜索網が、炭焼き小屋の防衛線のすぐ外側まで迫っていた。湿った泥を深く踏みしめる鉄靴の響き、そして濡れた甲冑が擦れ合う不快な金属音が、雨上がりの重い空気を通じて秋月総十郎の耳へと届く。
「……敵の先遣隊、およそ六名。本隊は西の谷を捜索中だが、この猟師小屋に気づくのも時間の問題だ」
総十郎は黒い目隠しの奥で、静かに呟いた。その声は微かに喘鳴を帯びており、喉の奥には未だ鉄の味が残っている。診療所で吸い込んだ煙が、彼の病んだ肺を今も内側から苛んでいた。
「兄上、俺が……俺が奴らを食い止めます。この木刀があれば、狭い山路なら持ちこたえられる」
漣慎之介が血の滲む手のひらで熊吉の木刀を握り締め、立ち上がろうとした。その瞳には、未だ己の無力さに対する焦燥が燻っている。
「座れ、慎之介」
総十郎の冷徹な声が、小屋の狭い空間に響いた。
「お前は先ほど『二の口伝』の基礎を掴んだばかりだ。肉体の気脈も未だ不安定な状態で、正規の代官兵と力ずくで渡り合えば、今度こそ経絡が破裂する。……熊吉」
「おう、任せとけ」
熊吉は不敵に笑い、背負っていた大弓を手にした。彼は山中の地理を完全に把握している。総十郎の指示に従い、彼はあらかじめ東の谷筋に、野生の猪を誘い込むための「音の罠」を仕掛けていたのだ。
熊吉が小屋の窓から、特定の周波数を放つ「猪笛」を静かに吹き鳴らす。その音は風に乗り、東の崖下へと吸い込まれていった。数呼吸の後、東の谷から猛烈な勢いで藪をなぎ倒す野生の獣たちの地響きと、それに驚いた代官兵たちの怒号が響き渡る。
「あっちだ! 逆賊どもは東の谷へ逃げたぞ!」
大剛の兵たちの足音は、総十郎の計算通り、炭焼き小屋を大きく迂回して東の闇へと遠ざかっていった。押し寄せていた軍勢の圧力が潮が引くように消え去り、山中には再び雨上がりの湿った静寂が戻る。
だが、総十郎の表情は緩まなかった。彼は仕込み杖を床に突き、じっと耳を澄ましている。多重思考による激しい偏頭痛がこめかみを突き刺していたが、彼の超人的な聴覚は、自然の雑音の中に混じる「異質な無音」を捉えていた。
――大剛の兵たちは去った。だが、別の『狐』が、この小屋の周囲を嗅ぎ回っている。
それは、大剛の粗暴な兵たちの足音とは全く異なる、徹底的に鍛え上げられた隠密の気配だった。足音は一切しない。衣擦れの音すらも、風の揺らぎに完全に同調している。並の武芸者であれば、その接近に気づくことは決してないだろう。
(銭形屋の密偵……『野狐の佐吉』か)
総十郎の脳内書庫に記憶された、銭形屋一味のデータが瞬時に符合する。銭形屋宗兵衛は、毒使い・伝八の不自然な自滅と診療所の火災から、枯葉宿の抵抗の裏に「無極閣の生き残り」である盲目の男が潜んでいると確信し、最も信頼の置く密偵を放ったのだ。
佐吉が使うのは、呼吸を極限まで細く保ち、地面との摩擦を内力で相殺する「狐息法」。その隠密性は影無門の暗殺者にも匹敵する。だが、総十郎の五感は、耳だけに頼っているわけではなかった。
総十郎は「五感連動の風読み」を起動した。目隠しによって光を完全に遮断された彼の皮膚は、周囲の大気の微細な変化を敏感に感じ取る。山から吹き下ろす冷たい風。しかし、小屋の風下、およそ十歩の距離で、その風の温度が僅かに「華氏で零点二度」ほど上昇していた。人間の体温が、冷たい大気を僅かに暖めているのだ。
さらに、その暖かい気流の広がりから、敵がこちらの様子を伺うために「前傾姿勢」を取っていることが、風の密度の歪みとして立体的に脳内へ描き出される。そして何よりも、風が運んできた微かな匂い――金沙湊の闇市場でしか流通していない、暗器専用の極上な「防錆油」の匂いが、総十郎の鼻腔をかすめた。
「太一」
総十郎は、小屋の隅で怯える太一に、仕込み杖の先端で床を「トントン」と二回叩いて合図を送った。それは「芝居を始めろ」という、あらかじめ決めていた合図だった。
総十郎はわざと声を張り上げず、しかし小屋の隙間から外へ漏れる程度の音量で、静かに語りかけた。
「太一、慎之介は無事に隣町へ逃げ延びたか?」
太一は一瞬だけ体を強張らせたが、総十郎の意図を察し、震える声を必死に整えて応じた。
「は、はい、先生。慎之介の兄ちゃんは、熊吉さんの案内で、代官所の関所を避けて西の山路を隣町へ向かいました。今頃はもう、安全な場所に隠れているはずです……」
「そうか。ならば安心だ。あの男さえ生きていれば、漣の剣が絶えることはない。……大剛の兵たちも東の谷へ向かった。我々も、夜明け前にはこの小屋を捨てて移動するぞ」
小屋の外、風下に潜む佐吉の呼吸が一瞬だけ「浅く」なった。総十郎の耳は、その僅かな肺の収縮音を聞き逃さない。佐吉は慎之介が不在であるという情報を信じかけ、このまま銭形屋へ報告に戻るべきか、あるいはこの盲目の男をここで始末すべきか、激しい葛藤に陥っている。
佐吉は極めて慎重な男だ。ただの会話だけでは、それが罠である可能性を疑うだろう。彼の疑念を「確信」に変え、かつ彼をこの小屋の内部へと引きずり込むための、もう一押しの『餌』が必要だった。
総十郎は、腰の袋から「玄鉄の碁石」を一つ、静かに取り出した。そして、それを指先から床の板間へと、わざと滑り落とした。
――カツン……。
重厚な金属音が、炭焼き小屋の静寂に響き渡る。それは、目が不自由な隠居が、緊張のあまり手元を狂わせて碁石を落としてしまったかのような、完璧に自然な「失策の音」だった。
その音が響いた瞬間、風下の暖かい気流が、急激に小屋の壁際へと移動した。佐吉の心拍数が、一分間に百二十回まで跳ね上がる。彼の「狐息法」による静寂の呼吸が、獲物を前にした獣の興奮によって、僅かに「熱い吐息」へと変化した。
(かかったな、狐め)
目隠しの奥で、総十郎の唇が静かに弧を描く。佐吉は、盲目の隠居が一人で怯えていると誤信し、この隙に小屋へ侵入して総十郎の寝首を掻き、銭形屋の秘密を守ろうと決意したのだ。
微かな、本当に微かな、屋根瓦が軋む音が総十郎の耳に届く。佐吉は小屋の壁を音もなく登り、天井裏の梁の上へと侵入したのだ。彼の体重が梁にかかり、木繊維がミクロン単位で圧縮される「軋み」が、総十郎の脳内の仮想盤面に赤く点滅する。
天井裏の暗闇に潜む佐吉は、懐から「黒蠍の毒」が塗られた極細の暗殺針を取り出し、隙間から総十郎の脳天を狙って構えた。その殺気が、冷たい大気を震わせる。
だが、総十郎は動じない。彼は落とした玄鉄の碁石を静かに指先で拾い上げ、木机の上で転がしながら、敵が罠を起動するその「コンマ一秒」のタイミングを、静かに測り続けていた。慎之介は、小屋の暗闇の死角で、木刀を構えて完全に気配を消し、師の合図を待っている――。
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