診療所の火囲いと退路
「源庵先生、診療所にあるすべての乾燥薬草を炉に投げ入れ、風上から煙を流せ」
秋月総十郎の静かな、だが有無を言わせぬ指示に、医師・源庵は一瞬だけ目を見開いた。しかし、すぐにその意図を察し、白髪交じりの頭を深く縦に振った。外からは、代官所の執行人・大剛が率いる兵たちの鉄靴がぬかるんだ泥を踏みしめる音が、容赦なく診療所を取り囲むように迫っている。
「分かった、総十郎! これでおれの長年の城も灰になるが、命には代えられん!」
源庵は素早く薬棚へ走り、幻覚作用を持つ乾燥麻草や、防虫・防腐用に保管されていた刺激性の強いヨモギの束を両腕に抱え、燃え盛る炉の中へと容赦なく投げ入れた。瞬時に、ジュウッという湿った音と共に、濃厚な赤紫色の煙が診療所の天井へと立ち上り始める。
風向は北東。裏手の窓から吹き込む冷たい夜風が、炉から噴き出す煙を正面玄関の木戸の隙間へと押し出していく。木戸の外では、突入のために長槍を構えていた代官兵たちが、隙間から漏れ出した紫煙を吸い込み、激しく咳き込み始めた。
「う、ぐっ!? なんだこの煙は……目が、目が焼けるように痛い!」
「幻覚だ! 足元が歪んで見えるぞ、うわああ!」
外から聞こえる兵たちの混乱と罵声。総十郎は目隠しの奥で、彼らの呼吸音が不規則に乱れ、内力の循環が煙の毒素によって強制的に阻害されていく「音」を聞き取っていた。これこそが、総十郎の「絶対音感による経絡解析法」から導き出された、環境そのものを武器に変える煙幕戦術だった。
しかし、包囲の指揮を執る大剛は、並の武芸者ではなかった。奴の喉から、大気を震わせるような太い怒号が放たれる。
「怯むな、雑兵ども! これは薬草を燃やした煙幕だ! 燻り殺す気か……ならば、この診療所ごと焼き尽くしてやれ! 火矢を放て!」
大剛の非情な命令が下された瞬間、総十郎の耳は、複数の弦が「ビィン」と鋭く引き絞られ、放たれる音を捉えた。次の瞬間、油を塗って火をつけられた矢が、雨のように診療所の茅葺き屋根や木壁に突き刺さる「ドスッ、ドスッ」という重い衝撃音が響き渡る。
火は一瞬にして燃え広がった。乾燥した薬草や木材が、乾いた「パチパチ」という音を立てて炎に包まれていく。診療所を包む空気が急激に熱を帯び、酸素を奪われた空間が不気味に鳴動し始めた。
「くそっ、俺が……俺が立たねば……!」
診療台の上で、漣慎之介が歯を食いしばり、震える腕で身を起こそうとした。だが、信の「黒蠍の蛇毒」は排出されたものの、解毒の過酷な反動によって彼の全身の経絡は麻痺し、力が入らない。膝から崩れ落ちるように床に転がりそうになった慎之介を、少年給仕の太一が小さな体で必死に支えた。
「慎之介の兄ちゃん、ダメだよ! まだ動いちゃダメだ!」
「だが、太一……このままでは、兄上も源庵先生も、俺のせいで……!」
「動くな、慎之介。お前の経絡は今、薄氷のように脆い状態だ。ここで無理に内力を通せば、気脈が破裂して二度と剣を握れなくなる」
総十郎は仕込み杖を床に突き、一歩も動かずに慎之介を制止した。その声は氷のように冷徹だったが、彼の内面は激しい葛藤に引き裂かれていた。
立ち上る炎。視界を遮る濃厚な煙。その熱気と匂いが、総十郎の脳裏に眠る「十年前の悪夢」を強制的に引きずり出した。
――炎上する無極閣。黒く焦げて崩れ落ちる数万の書物。逃げ惑う司書たちの悲鳴。そして、朝廷の特務機関「九重天」が放火の際に撒いた、経絡を内側から腐食させるあの紫色の毒煙。かつての師・玄明が、自分に記憶を託して炎の中に消えていったあの夜の光景が、現在の診療所の火災と完全に重なり合う。
「ごほっ、ごふっ……!」
総十郎の胸の奥から、激しい痛みが込み上げた。十年前の毒煙が残した肺病の真因が、現在の煙に刺激されて暴れ出したのだ。一呼吸するたびに、肺胞が引き裂かれるような激痛が走り、目隠しの奥で視界が真っ赤に染まるような錯覚を覚える。こめかみを割るような偏頭痛が彼を襲い、耳の奥では激しい耳鳴りがノイズとなって周囲の音を遮ろうとする。
だが、総十郎は目隠しを固く巻き直した。ここで自分が倒れれば、この若き弟子も、太一も、すべてが炎に呑まれる。
「源庵先生、慎之介を担げ。太一、私の仕込み杖の端を握り、絶対に手を離すな」
総十郎は「枯葉の呼吸法」を起動し、心拍数を限界まで下げて、肺の燃焼を抑え込んだ。そして、雑音に満ちた炎の海の中で、耳を極限まで澄ました。
炎の音は一様ではない。正面玄関の方向からは、炎が「ゴォッ」と激しく空気を吸い込む音が聞こえる。そこは火の壁だ。だが、診療所の裏手、古い木戸の方向からは、微かな「ヒュウ、ヒュウ」という隙間風の音が聞こえていた。風は裏山から吹き込み、正面へと抜けている。つまり、裏口こそが、煙の最も薄い唯一の退路だった。
――ピキッ、ミシッ――。
その時、総十郎の耳が、天井の梁が熱で歪み、繊維が引き裂かれる特有の高音を捉えた。その音の発生源は、太一が立っている位置の真上だった。
「太一、右へ三歩! 今すぐ動け!」
総十郎の鋭い叫びと同時に、太一は無条件で右へと飛び退いた。直後、ドゴォンと凄まじい音を立てて、燃え盛る巨大な天井の梁が、先ほどまで太一がいた場所に崩れ落ち、激しい火の粉を散らした。間一髪だった。
「ひっ……! あ、ありがとう、先生!」
「立ち止まるな、走れ! 源庵先生、裏の木戸を蹴り破るのだ。そこを開ければ、山からの風が一瞬だけ煙を正面に押し戻す。その隙に脱出する!」
源庵は慎之介を背負い、総十郎の指示通りに裏口の古い木戸へと走り寄った。そして、渾身の力で木戸を蹴り破った。バキィンと板が弾け飛んだ瞬間、総十郎の予測通り、裏山からの冷たい夜風が室内に怒涛のごとく流れ込み、充満していた煙を一瞬だけ正面玄関の方向へと押し戻した。目の前に、一筋の清浄な空気の道が開かれる。
「今だ、出ろ!」
一行は燃え盛る診療所を飛び出し、冷たい夜雨が降る裏山の暗闇へと滑り込んだ。背後では、源庵が長年守り続けてきた診療所が、巨大な火柱となって崩れ落ちていく。
冷たい雨が総十郎の顔を濡らしたが、彼の肺の熱は収まらなかった。吸い込んだ煙が、彼の蝕まれた肺に致命的な損傷を与えていた。胸の奥からせり上がる血の泡を、彼は抑えきれなかった。
「がはっ……、ごふっ!」
総十郎は激しく喀血し、ぬかるんだ泥の上に膝を突いた。手のひらが黒い血で染まり、意識が急速に遠のいていく。仕込み杖を握る指先から力が抜け、彼の体は冷たい地面へと倒れ込みそうになった。
「総十郎!」「先生!」
源庵と太一が悲鳴のような声を上げる。慎之介は動かぬ体で、泥にまみれながらも総十郎の体を必死に支えようと手を伸ばした。
だが、彼らの耳に、絶望の足音が届いた。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――。
燃え盛る診療所の光に照らされた裏山の木々の向こうから、ぬかるんだ泥を踏みしめ、執拗に追跡してくる重い足音が、静かに、だが確実に近づいてきていた。大剛率いる代官兵の山狩りが、すでに始まっていたのだ。
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