死線と救護所の防衛線
雨上がりの濡れた土の匂いと、立ち込める夜霧が、深夜の枯葉宿を重苦しく包み込んでいた。漆黒の闇の中、秋月総十郎は、病んだ肺が破れんばかりの激しい喘鳴を漏らしながら、竹の仕込み杖を泥濘に突き立てて進んでいた。彼の右肩には、全身の経絡を白蛇の信の毒によって麻痺させられ、ぐったりと力なく垂れ下がった漣慎之介の体が乗せられていた。慎之介を背負う総十郎を、少年給仕の太一が小さな肩で必死に支えている。
「先生、こっちだよ! 源庵先生の診療所はもうすぐそこだから!」
太一の焦燥に満ちた囁きが、風の音に混じって総十郎の耳に届く。総十郎の耳の奥では、先ほど信との死闘で自衛のために放った経絡点穴の反動により、「キィン」という鋭い金属的な耳鳴りが鳴り響いていた。脳の処理能力を酷使した代償としての激しい偏頭痛がこめかみを締め付け、口内には常に鉄の味が広がっている。聴覚が一時的にノイズ混じりになり、周囲の音の輪郭が歪む。だが、総十郎は「枯葉の呼吸法」を極限まで行い、心拍数を下げることで、乱れる感覚を必死に繋ぎ止めていた。ここで倒れるわけにはいかない。愛弟子の命が、自らの肩にかかっているのだ。
「……あ、あにうえ……すま、ぬ……俺の、未熟ゆえに……」
背中で慎之介が、消え入りそうな声で呻いた。彼の呼吸は浅く、毒が全身の気脈を蝕んでいるのが、接触している肌を通じて伝わってくる。
「喋るな、慎之介。息を細く保ち、内力を練ろうとするな。お前の経絡は今、毒によって塞がれている。抗えば抗うほど、毒は心臓へ至る」
総十郎は静かに諭した。信の放った「黒蠍の蛇毒」は、経絡の流れを瞬時に麻痺させ、内力を封印する極悪な毒だ。このままでは、慎之介の経絡は永久に壊死し、二度と武功を使えない肉体となる。それどころか、あと半刻もすれば心臓が停止するだろう。まさに経絡遮断の危機だった。
やがて、太一が古い木戸を静かに押し開けた。薬草の独特な、乾いた匂いが総十郎の鼻腔をくすぐる。枯葉宿の中央にある「源庵の診療所」へと、一行は滑り込むように滑り込んだ。
「おいおい、総十郎! それに慎之介まで、なんてザマだ!」
診療所の主である源庵が、寝台から飛び起きて顔をしかめた。無精髭を生やした医師は、慎之介の青白い顔と、総十郎が口元から流している黒い血を見て、事態の深刻さを即座に察知した。
「慎之介が、信の毒刃を受けました。経絡が完全に塞がれ、気が滞っています。源庵先生、すぐに『解毒丹』を」
総十郎は慎之介を診療台へと横たわらせ、自身は仕込み杖に寄りかかりながら言った。源庵は素早く懐から、数十年かけて調合した特製の広域解毒剤「源庵の解毒丹」を取り出し、慎之介の口へと押し込んだ。
「だが、総十郎、これだけじゃ黒蠍の蛇毒は抜けきらんぞ。毒が経絡の奥底にへばりついてやがる。無理に内力を通せば、気脈が破裂する!」
「分かっています。だからこそ、針を使います。源庵先生、私の言うツボに、金針を打ってください。お前の腕と、私の『耳』があれば、毒を体外へ強制的に排出できる」
総十郎は目隠しの奥で、意識を極限まで集中させた。「絶対音感による経絡解析法」を起動する。慎之介の体内で、毒素と内力が衝突し、気脈が悲鳴を上げている「音」を聞き取るのだ。ノイズ混じりの聴覚の奥から、慎之介の不規則な心音と、経絡が滞る微かな「ミシッ」という軋み音を抽出していく。
「慎之介の『天突』のツボの下、三分の位置に金針を。……今です」
源庵は一瞬の躊躇もなく、総十郎の指示通りに鋭い金針を慎之介の首元へ深く刺し込んだ。
「次は『中府』。気の流れが逆流する瞬間を狙います。私が机を叩く拍子に合わせて、針を捻ってください。……カツン」
総十郎が指先で木机を叩いた瞬間、源庵が針を鋭く回転させた。慎之介の体が激しく引き攣り、彼の口から「ごはっ!」と黒紫色の悪臭を放つ血が吐き出された。診療台の床に、毒素を含んだ血がどっと滴り落ちる。
「はぁ、はぁ……、気の、流れが……戻っていく……」
慎之介の呼吸が劇的に深くなり、顔に僅かな赤みが戻り始めた。経絡の封印が解かれ、滞っていた内力が再び循環を始めたのだ。解毒のプロセスは成功した。しかし、慎之介の肉体は毒との死闘で完全に疲弊しており、指一本動かすことができない状態だった。完全に回復するには、まだ数時間の絶対安静が必要だった。
だが、運命は彼らに休息の猶予を与えなかった。
――ズシン、ズシン、ズシン――。
診療所の外から、ぬかるんだ泥を踏みしめる、重く統制された足音が響き渡った。その数は三十を下らない。金属製の甲冑が擦れ合う「ジャリ、ジャリ」という不快な高音と、代官所の兵たちが持つ長槍の石突が地面を叩く音が、診療所を包囲するように狭まっていく。
「逆賊どもめ、そこに隠れているのは分かっているぞ! 大人しく出てこい!」
夜の静寂を切り裂く、野太く冷酷な声が響き渡った。白蛇の信の命令を受け、自警団を「朝廷禁武令」違反として抹殺しに現れた、代官所の執行人「大剛」であった。奴の腰からは、鉄条が仕込まれた凶悪な「玄鉄の鞭」が不気味に垂れ下がっている。
「先生、大変だよ! 大剛の奴らが、診療所を完全に囲んじゃった!」
太一が窓の隙間から外の様子を伺い、顔を青ざめさせて叫んだ。自警団の若者たちが、診療所を守るために竹槍を持って立ちはだかろうとしたが、外からは彼らが大剛の鞭によって容赦なく蹴散らされ、悲鳴を上げて泥の中に崩れ落ちる音が響いてくる。
「くそっ、俺が……俺が立たねば……!」
慎之介が這い上がろうと、震える腕で診療台の縁を掴んだ。だが、毒素が抜けたばかりの彼の肉体は言うことを聞かず、そのまま床へと転がり落ちそうになる。
「動くな、慎之介。お前は今、戦うべきではない」
総十郎は静かに慎之介を制止し、自ら立ち上がった。彼の肺は、多重思考の酷使と、十年前の無極閣の火災で吸い込んだ毒煙の後遺症により、激しい痛みを訴えていた。一呼吸するたびに、胸の奥が焼けるように熱い。だが、彼の頭脳は、この絶体絶命の戦況を覆すための「盤面」を冷徹に描き出していた。
総十郎は目を閉じ、診療所を通り抜ける微かな「風の音」に耳を澄ました。風は裏手の窓から入り、正面の木戸の隙間へと抜けている。風向は北東。風上は診療所の裏手だ。そして、診療所の棚には、源庵が長年かけて収集した、幻覚作用を持つ乾燥麻草や、様々な薬草が大量に保管されている。
「源庵先生、診療所にあるすべての乾燥薬草を炉に投げ入れ、風上から煙を流せ」
総十郎は、静かに、だが絶対の確信を込めて指示を出した。武力を持たぬ盲目の隠者が放つ、環境そのものを武器に変える最後の防衛作戦が、今、始動しようとしていた。
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