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風の吹く茶屋と盲目の隠者

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「カツン、カツン」


 秋月総十郎の細い指先の中で、二つの黒い碁石が冷たい音を立てて擦れ合っていた。それはただの石ではない。高密度の鉄を削り出して作られた「玄鉄の碁石」である。総十郎が指先を僅かに動かすたび、その重い金属音が風の吹き抜ける茶屋の店内に静かに響き渡った。


 総十郎の両目は、黒い布帯で深く覆われている。十年前、天下の武功秘籍を集めていた「無極閣」を焼き払ったあの劫火――その焼け残りである炭化した特殊な織物で作られた目隠しだ。光を完全に失った彼の世界は、漆黒の闇などではなかった。それは、無数の「音の糸」が縦横無尽に織りなす、極めて精密な立体の地図であった。


 ここ「枯葉宿」は、中原の北端に位置する、険しい山岳に挟まれた寂れた宿場町だ。絶えず強い風が吹き下ろし、乾いた木の葉が舞い散る。だが、この不毛な土地こそが、総十郎にとって最大の武器であった。周囲の連峰の配置と街道のねじれが、まるで巨大な集音器のように機能し、数里先で起きる微細な音すら、この高台に建つ「枯葉茶屋」へと収束させるのだ。これこそが、総十郎がこの地を選んで隠居した理由――枯葉宿の地形の秘密であった。


「先生、風が強くなってきましたね。北の谷から嫌な音が聞こえます」


 十二歳になる給仕の少年、太一が、ぼろぼろの雑巾で古びた木机を拭きながら言った。太一は総十郎の「外部の目」であった。目が不自由な総十郎のために、客の顔ぶれ、服の色、持ち物、歩き方の特徴を事細かに観察して報告する訓練を日々受けている。


「ああ、太一。風が運ぶ砂の音がいつもより三分ほど重い。雨を孕んだ北風だな」


 総十郎は痩身の体を灰色の粗末な着物に包み、竹の仕込み杖を膝に立てかけていた。時折、胸を押さえて「ゴホゴホ」と湿った咳をする。十年前の火災の夜、朝廷の特務機関が撒いた「経絡を腐食させる特殊な毒煙」を吸い込んだ肺は、今も彼に消えない死の宣告を突きつけていた。内力は皆無、経絡はズタズタに破壊されている。しかし、彼の脳内には、無極閣に眠っていた数万冊の武功秘籍が、一文字の狂いもなく記憶されていた。


「それに、太一。風の音の裏側に、歓迎せざる客の足音が混じっている」


 総十郎が碁石の動きを止めた瞬間、茶屋の薄い木戸が「バキィン!」と凄まじい音を立てて蹴り破られた。乾いた木片が床に散らばり、太一が悲鳴を上げて総十郎の後ろへと隠れる。


「おい、盲目の隠居! みかじめ料の期日は昨日だったはずだぞ!」


 踏み込んできたのは、この枯葉宿を一帯を暴力で支配する無法者集団「錆刃衆」の雑兵三人だった。先頭に立つ男は、錆びた軍刀を肩に担ぎ、酒臭い息を吐き散らしている。


 総十郎は目隠しの奥で、静かに耳を澄ました。男たちの荒い呼吸、不揃いな足音、そして歩くたびに不自然に軋む革帯の音。系統だった武功など何一つ修めていない、力任せの暴力しか能のない「三流」の無頼漢たち。それが総十郎の脳内では裸同然に解析されていた。


「お、お待ちください! お茶の売り上げは、昨日源庵先生の薬代で消えてしまって……」


 太一が身を挺して総十郎の前に出ようとした。だが、先頭の雑兵は「うるせえ、ガキが!」と、太一の小さな肩を乱暴に突き飛ばした。太一の体が床に転がり、古びた椅子が倒れて大きな音を立てる。


「太一!」


 総十郎の胸の奥で、静かな怒りの炎が揺らめいた。彼はゆっくりと、膝の上の竹の仕込み杖を握り直す。しかし、自ら手を下す必要すら、この三流の雑兵たちにはなかった。


「……みかじめ料、ですか。しかし、お引き取り願いたい。お前たちのその足取りでは、この茶屋から一歩も出られなくなるぞ」


 総十郎の静かな声が、風の音に混じって響いた。


「あぁ? 盲目のくせに何を抜かしてやがる!」


 雑兵の頭が怒り狂い、錆びた刀を引き抜いた。刃が空気を裂く「ヒュッ」という音が、総十郎の耳に届く。その音は、あまりにも無駄が多く、遅かった。


「右足の踏み込みが深すぎる。左の腰の革帯がこれだけ軋んでいるのは、左の関節が歪んでいる証拠だ。お前の重心は、今、完全に左に傾いている」


 総十郎は座ったまま、一寸の身動きもしなかった。ただ、指先に挟んだ「玄鉄の碁石」を、木机の特定の角に向けて「カツン」と強く叩きつけた。


 その瞬間、澄んだ金属音が茶屋の壁に反響した。枯葉宿の特殊な地形と、総十郎が計算し尽くして配置した茶屋の梁の角度により、その音は奇妙に変調され、雑兵の耳元で「右から迫る足音」のように増幅されて炸裂したのだ。これこそが総十郎の「エコーロケーション(反響定位)」の応用であった。


「うわっ!? 誰だ!」


 右からの奇襲を錯覚した雑兵は、慌てて体を左へと捻った。しかし、総十郎が指摘した通り、彼の左の股関節は元から歪んでおり、重心が限界まで偏っていた。さらに、床板には太一が拭き残した水気が泥となって滑りやすくなっていたのだ。


「おっと!」


 雑兵は足元を派手に滑らせ、自らの刀の重さに振り回されるようにして床に転倒した。その際、彼が振り回した錆びた刃が、背後に立っていた仲間の雑兵の腕を深く切り裂いた。


「ぎゃあああ! 何しやがる、この馬鹿!」


 切られた仲間が悲鳴を上げ、転んだ男の胸倉を掴む。狭い茶屋の中で、雑兵たちは自爆的な混乱に陥り、互いに罵り合いながらもつれ合った。盲目の男が指先一つ、石一つ動かしただけで、自分たちがなぜ自滅したのか、彼らの三流の頭脳では到底理解できなかった。


「化け物め……! この茶屋、何かがおかしいぞ!」


 底知れぬ恐怖を覚えた雑兵たちは、負傷した仲間を抱え、蹴り破った板戸から慌てて逃げ去っていった。彼らの足音が遠ざかる中、総十郎は「ゴホッ、ゴホゴホッ」と激しく咳き込み、懐から取り出した白い布で口元を覆った。布には、微かに赤い血が滲んでいる。感覚を研ぎ澄まし、音の反響を脳内で限界まで計算した代償が、彼の病んだ肺を確実に蝕んでいた。


「先生! 大丈夫ですか!?」


 太一が駆け寄り、総十郎の背中を優しくさする。


「……大丈夫だ、太一。ただの、いつもの発作だ」


 総十郎は乱れた息を「枯葉の呼吸法」で静かに整えた。心拍数を極限まで下げ、世界の雑音と同化していく。耳鳴りが消え、再びクリアな音の世界が戻ってきたとき、彼の耳は、宿場町の入り口から近づく「新たなる音」を捉えた。


 それは、これまで聞いた誰の足音よりも早く、そして乱れていた。泥を跳ね上げ、何かに追われるように必死に走る、若き武芸者の足音。その呼吸は浅く、肺が限界まで軋んでいる。さらに――その風切り音の奥から、鉄を伝う「血の匂い」と、何よりも「折れた刃」が風を裂く不協和音が、総十郎の脳内マップに鮮明に描き出された。


「……漣の剣、そして血の匂い」


 総十郎の指先が、玄鉄の碁石を固く握りしめた。風は、一人の若き武芸者の絶望を、この枯葉茶屋へと運んできたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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