廃棄工場のボイラー室
不純な魔力を孕んだ熱風が、狭い排気ダクトの壁を這うようにして僕たちの背後に迫っていた。スチームが放つ「キィィィ」という高周波のきしみ音は、ただ肌を焼く熱さだけでなく、吸い込めば肺を内側から結晶化させる毒を帯びている。背後を振り返る余裕などない。
「お兄ちゃん、あと三秒でスチームの噴射周期が変わるよ! 今、右斜め下に滑り降りて!」
僕の左袖を引くトトの小さな手が、激しく震えていた。目隠し代わりの灰色の包帯の奥で、僕は「残響知覚「響きの世界」」の解像度を極限まで引き上げる。トトの囁きと同調するように、暗闇のダクト内に張り巡らされた鉄パイプの細かな振動が、脳内に金色の立体的なホログラムとして浮かび上がった。
僕の右腕は、先の調律の代償として完全に感覚を失い、外套の袖の中でただの冷たい肉の塊と化している。温度も、鉄の冷たさも、何も感じない。すべての動作を左手一本で行わねばならない。僕は動かない右腕を胸元にかばい、左手だけで錆びついたダクトの縁を掴むと、トトの指示通りに奈落へと身を投げ出した。
「うおっと!」
下で待ち受けていたカイの屈強な左腕が、滑り落ちてきた僕とトトの体を確実に受け止めた。カイの右腕――僕が「ステッチ・ライン」で完璧に調律した義手型魔導杖「鉄腕」は、黒い遮断布に包まれたまま、静かで力強い黄金の魔力残響を周囲に放射している。
「無事か、シキ。……ここはひどいな。地獄の釜の底だ」
カイの低く濁った声が、ボイラー室の轟音にかき消されそうになる。着地した床から伝わるのは、靴底を溶かさんばかりの異常な熱だ。鼻腔を突くのは、石炭と魔導具の芯材が焦げる不気味な臭い。そして、耳を塞ぎたくなるほどの、無数の「悲鳴」だった。
そこは、帝国軍廃棄魔導具処理工場の最下層――『廃棄工場のボイラー室』だった。
部屋の中央には、天を衝くほど巨大な魔力ボイラー炉が鎮座し、赤黒い炎を上げて吼えていた。炉の覗き窓から漏れ出るのは、不調和に歪んだ魔力の閃光だ。そして、その炉の供給口へとベルトコンベアで運ばれ、次々と投げ込まれていくものを見て、僕は息を呑んだ。
それは、戦争で壊れ、辺境に捨てられたはずの魔導杖たちだった。しかも、ただの木切れではない。その多くは、まだ微かに「意志」を残したまま、持ち主との絆を求めて泣いている半生命体だった。
「キィィィ……」「熱い、焼ける……」「嫌だ、まだ戦える……!」
数千、数万の杖たちが発する不協和音の絶叫が、ボイラー室の熱気と混ざり合い、渦を巻いている。帝国が壊れた杖を辺境に捨てる『廃棄魔導杖の真の回収目的』――それは、平民たちにこれらの杖を拾わせて生活魔力を吸い取らせ、その生命力が極限まで蓄積された頃に「不法投棄物の回収」と称して再び奪い去るためだったのだ。回収された杖たちはこの炉で強制的に燃やされ、軍の資金源となる「人工魔晶石」へと変換されていく。
兵器として使い潰され、最期はただの燃料として消費される。帝国の敷く魔導特権制度の残酷な真実が、赤黒い炎となって僕の視覚なき世界を血のように染め上げていた。胸の奥から、言葉にならない激しい、静かな怒りがせり上がってくる。彼らは道具ではない。かつて誰かの命を守り、共に生きた魂なのだ。
「シキ、怒るのは後だ。奴らが来るぞ」
カイが僕の肩を叩き、前方の影を指し示した。残響知覚が、ボイラー室の巡回経路を歩く工員たちの足音を捉える。トトが僕の左手をそっと握り、制御盤の位置へと導いてくれた。
「お兄ちゃん、あそこ。大きな鉄の箱の真ん中に、おじいちゃんの『黒鉄の音叉』が刺さってる……!」
トトの指し示す方向を、僕は残響の音波でスキャンした。巨大なボイラー炉の出力を制御する、中央制御盤。その複雑に絡み合った魔力回路のバイパスの中心に、異質な、だが僕にとってはあまりにも聞き慣れた周波数の振動が存在していた。極限まで引き裂かれ、炉の暴走を防ぐための「安全弁」として強制接続されている、師ルインの遺品――『黒鉄の音叉』だ。
「私をここから引き剥がせ」
音叉が発する、かすかな魔力の残響が、僕の耳の奥に直接届いた。それは師の魂が、僕を呼んでいるかのようだった。
「カイさん、工員たちの目を盗んで、制御盤に近づきます。トトはここで待っていて」
「分かった。警備の排除は俺に任せろ」
カイは音もなく動き出し、炉の点検のために近づいてきた工員二人の背後に忍び寄ると、その巨体から放つ物理的な力だけで、声を上げさせる間もなく彼らを気絶させた。コンクリートの床に倒れ込む音がボイラーの轟音に紛れる。
今しかない。僕は左手で白杖を突き、制御盤の前に歩み出た。熱せられた鉄の板が放つ熱線が、僕の顔を焦がす。感覚のない右腕を外套の中に隠し、僕は左手だけで制御盤のレバーに触れた。複雑な魔術結界が、音叉の周囲を強固に守っている。無理に引き抜けば、警報が鳴るだけでなく、結界が作動して僕の肉体を焼き尽くすだろう。
僕は左指の先から、極細の『黄金の魔力糸』を紡ぎ出した。魂を直接削り出すような感覚と共に、黄金の糸が制御盤の隙間から、防犯回路の奥深くへと滑り込んでいく。
「――不適合属性の流体調整」
僕は、制御盤を流れる火属性の過剰な魔力流と、音叉が持つ無属性の調和波動の衝突を、一時的に中和するための「真空のバイパス」を脳内で設計した。黄金の魔力糸が、防犯センサーの信号を騙すように、回路の接続を一時的に書き換えていく。冷たい汗が額を伝い、包帯を濡らした。
ジュウウウウッ!
その瞬間、炉の過剰な魔力熱が、糸を通じて僕の左腕へと逆流してきた。焼け焦げるような痛みが走り、さらに感覚のないはずの右腕の古い火傷の痕が、不気味に熱を帯びて疼き始める。バイパスの維持時間は十秒もない。僕は痛みに歯を食いしばり、左手で『黒鉄の音叉』の柄を強く掴んだ。
「ルイン先生……!」
僕は全ての魔力を左手に込め、音叉を制御盤のコアから一気に引き剥がした。
ガキン! という鋭い金属音と共に、音叉が僕の左手の中に収まる。しかし、その瞬間、制御盤の魔力バランスが完全に崩壊した。音叉という絶対的な調和の楔を失ったボイラー室の魔力流が暴走を始め、火花が四散する。
ウゥゥゥゥゥン――! ウゥゥゥゥゥン――!
けたたましい魔導警報の赤黒い残響が、工場全体に鳴り響いた。ボイラー室の防壁に張られた警告ライトが一斉に明滅を始める。
「ねずみ共が、俺のボイラーに何をしやがる」
背後のスチームの霧が引き裂かれるように割れ、地響きのような足音が近づいてきた。残響知覚が捉えたのは、熊のように大柄な男の輪郭。煤と油に汚れた頑強な体躯を持つ、この『帝国軍廃棄魔導具処理工場』の監督官ボグドだった。ボグドは不敵な笑みを浮かべ、その太い腕で、超高熱の魔力スチームを自在に操る火炎の杖を構えていた。出口へと続く通路は、噴き出す熱風によって完全に塞がれてしまった。
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