残響の導き
闇市場の出口を塞ぐように現れた魔力回収官ゼクスの、冷酷な探知波が通り過ぎるのを、シキは雑踏の影で息を潜めてやり過ごした。カルロの闇倉庫へと命からがら逃げ帰ったシキは、冷え切った自身の右腕を左手で静かにさすった。感覚は完全に失われている。熱さも冷たさも、指先を流れる血の温もりすらも、今の右腕は捉えることができない。だが、立ち止まっている猶予はなかった。奥の部屋で眠る妹アリアの結晶化した足は、一時的に沈静化しているとはいえ、世界の魔力歪みが解決しない限り、再び侵食を始めることは明白だった。
「シキ、これがジャンから仕入れた『帝国軍廃棄魔導具処理工場』の内部地図だ」
隻腕の戦士カイが、黒い布で厳重に包まれた義手型魔導杖「鉄腕」を静かに置きながら、机の上に一枚の羊皮紙を広げた。その摩擦音と、カイの力強い心拍が、盲目のシキの「残響知覚『響きの世界』」を通じて、脳内に金色の線画となって立体的に描き出される。
「ジャンが浮浪児たちのネットワークを使って調べ上げた情報だ。この工場は、基準値を超える危険な魔力廃棄物を、毎夜こっそりと『杖の墓場』に不法投棄している中枢らしい。そして……ボグドの執務室と、魔力ボイラー室の正確な位置もここに記されている」
「ありがとうございます、カイさん。……ルイン先生の音叉は、ボイラー炉の強制制御コアとして組み込まれている。そして、アリアを救うための『白亜の粘土』の保管場所も、その工場のどこかにあるはずです」
シキは左手で、母エルザの形見である「黄金の魔導針」をそっと握りしめた。右手が動かぬなら、左手ですべてを紡ぐだけだ。その決意を秘めたシキの前に、一人の少年が力強く歩み出た。
「お兄ちゃん、僕も行くよ。僕がお兄ちゃんの『目』になる」
シキの工房の居候であり、弟子のトトだった。煤だらけのオーバーオールを着た十歳の少年は、震える手で工具袋を握りしめていた。目が見えないシキが、厳重に警備された軍事工場へ潜入するには、物理的な障害物やライトの動きを瞬時に伝える『目』が不可欠だった。
「トト、危険な場所だ。君を連れていくわけには……」
「嫌だ! お兄ちゃんが右腕の感覚を失くしたのも、アリア姉ちゃんを救うためだろ! 僕だって、この工房の家族なんだ。お兄ちゃんの足元を照らすことくらい、僕にだってできる!」
トトの心拍は激しく波打っていたが、そこには「嘘の共鳴」は一切なかった。ただ純粋な、家族を守りたいという強い意志の基底音が響いていた。シキはそっと左手を伸ばし、トトの茶色い髪を優しく撫でた。
「……分かりました。トト、私の目を頼みますね」
「うん!」
深夜、ブラス・タールの最果てに位置する帝国軍廃棄魔導具処理工場の外壁。冷たい魔力霧が立ち込める中、シキ、カイ、トトの三人は、工場の巨大な石壁の影に身を潜めていた。ガチャン、ギギギ……と、遠くから重々しい機械の駆動音と、焦げたオゾンの臭いが風に乗って漂ってくる。
「お兄ちゃん、右から二つ目のサーチライトの光が消えて……三、二、一、今だ! 三歩前に出て、屈んで!」
トトがシキの袖を小さく引っ張りながら、完璧なタイミングで囁いた。シキは一音の狂いもなくその指示に従い、冷たい石畳を静かに進む。サーチライトの不気味な青い光が、シキの頭上をかすめて通り過ぎていく。トトの物理的な誘導は、盲目のシキにとって完璧な羅針盤だった。
「カイさん、この壁の向こうに魔力検知障壁が張られています」
シキは「残響知覚」をさらに深く起動した。工場の防壁に張り巡らされた魔導院製の検知センサーが、空間に「キィィ……」という、常人には聞こえない極めて微細な高周波の音を放射している。その音波の反射を脳内でマッピングし、障壁の正確な位置を特定していく。
「……厄介だな。少しでも魔力の揺らぎを検知されれば、即座に警報が鳴り響く。強行突破するか?」
カイが低く問いかける。だが、シキは首を振った。
「いいえ、まずは私の魔力で偽装を試みます」
シキは左指からかすかな魔力を紡ぎ出し、検知障壁の波長に偽装して同調させようとした。しかし、その瞬間、工場の最新式センサーが不規則なパルスを放ち、赤い警告光が微かに明滅し始めた。単純な魔力偽装呪文では、帝国軍の厳重なシステムを欺くことはできなかったのだ。警報が鳴り響く寸前、シキは即座に戦術を切り替えた。
「ピコ、お願いします!」
チチ、とシキの肩の上で、手のひらサイズの風精霊ピコが微かに羽ばたいた。ピコが作り出した風の微振動が、シキの紡ぎ出す音波を空間へと均等に拡散させる。
「――消音結界術『ミュート・コード』」
シキは、自身の周囲数メートルを包み込む極小の消音結界を展開した。結界内の空気振動と魔力波長を完全に『無音』へと還元する。センサーが放つ探知線がシキたちの体を透過した瞬間、シキは『魔力消音「ミュート」』を重ねて発動し、一時的に検知器の受信周波数を完全に沈黙させた。
ブゥン……と、センサーの明滅が静まり、正常な青い光へと戻る。結界の連続維持により、シキの耳の奥にキィィという激しい耳鳴りが走り、一時的に平衡感覚を失いかけたが、彼は壁に左手をついて必死に耐えた。
「……今です。ゴーレムが来ます」
重々しい金属の足音が近づいてくる。巡回する警備ゴーレムだ。しかし、ゴーレムは結界内の魔力反応を一切検知できず、不審な音も感知しないまま、シキたちの目の前をゆっくりと通り過ぎていった。完全に死角を作り出すことに成功したのだ。
「ジャンが教えてくれた隠し排気ダクトは、この壁の下だ」
カイが黒い布から『鉄腕』を露出させ、ダクトを塞ぐ錆びた鉄格子を掴んだ。魔力を使えば検知される。カイは純粋な物理的な怪力だけで、音を一切立てずに鉄格子をぐにゃりとへし折った。暗く湿ったダクトの侵入口が、ぽっかりと口を開ける。
「よし、中へ入ろう」
トトが先頭に立ち、シキの手を引いてダクトの狭い通路へと這い進む。カイがその後に続いた。冷たい鉄の感触と、カビ臭い空気が肌を刺す。
しかし、排気ダクトの奥へと進み、工場の内部へと完全に足を踏み入れたその瞬間だった。
シキの「残響知覚」の耳に、想像を絶する凄まじい『音』が突き刺さった。
「……っ!?」
シキは思わず耳を押さえ、その場にうずくまった。ダクトの奥、工場の最下層から響いてくるのは、ただの機械音ではない。それは、数千本、数万本の魔導杖が、意志を残したまま引き裂かれ、同時に悲鳴を上げているような、この世のものとは思えない恐ろしい不協和音の残響だった。
「オレを、壊さないで……」「熱い、体が溶ける……!」「持ち主は、どこだ……!」
脳髄を直接掻きむしられるような絶望の絶叫が、暗闇のダクトの中に満ち満ちていた。帝国が「廃棄」と称して回収した杖たちの、生きた魂の悲鳴。それが、工場の奈落から、冷酷な残響となって盲目のシキの全身を震わせていた。
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