闇市場の取引網
「衛兵隊長のガッザの野郎が、アリアちゃんの治療に必要な『白亜の粘土』が湧き出る泥池を、完全に封鎖しやがった!」
カルロの悲痛な叫びが、半壊した地下工房の静寂を冷酷に引き裂いた。
調律台の傍らに崩れ落ちていたシキは、自身の右腕をそっと左手でさすった。感覚がない。熱いとも、冷たいとも思わない。先ほどの調律で、カイの義手「鉄腕」の暴走熱を「傷の肩代わり「ペイン・シェア」」で引き受けた代償は、右腕全体の完全な触覚喪失という形で、シキの肉体に刻み込まれていた。皮膚は赤黒く焼け焦げ、まるで硬い炭のようになっている。
「ガッザの野郎……アリアちゃんの命綱まで奪う気か!」
カイの義手から放たれた黄金の魔力が、静かな怒りとなって地下室の空気を震わせた。調律を終えた「鉄腕」は完璧な円環を描いて魔力を循環させており、もはや先ほどのような暴走の兆候はない。しかし、だからこそ、その守護者としての力は研ぎ澄まされていた。
「落ち着いてください、カイさん」
シキは震える息を整えながら、静かに立ち上がった。視覚を失った彼の世界は、周囲の空気の振動と魔力の残響だけで構成されている。奥の部屋からは、アリアの苦しげな吐息が聞こえていた。白亜の粘土の在庫はもう底を突いている。今すぐ新しい粘土を塗らなければ、彼女の足の結晶化は一気に膝上まで進行し、命に関わるだろう。
「カルロ、ガッザはその粘土をどうするつもりですか?」
シキの問いに、ジャンク屋の主カルロは額の汗を拭いながら声を潜めた。
「横流しだよ。ガッザは泥池を封鎖して採取した粘土を、裏で闇市場のボスである武器商人ゴルドに売り払ってやがる。平民から薬を奪い、闇市場で貴族や犯罪者に高値で転売して私腹を肥やしてやがるんだ」
「ゴルド……」
シキはその名を聞き、かつて師ルインが語っていたブラス・タールの裏社会の構造を思い出した。闇魔導商ギルド「錆びた黄金」を牛耳る男。彼は暴走寸前の粗悪な魔導杖を平民に売りつけ、使い潰させることで魔石を永久に消費させる悪徳なサイクルを作っている。ガッザとゴルドは、この街の搾取の構造で固く結びついているのだ。
「そこへ行くしかありませんね」とシキは言った。
「正気か、シキ!?」カルロが声を裏返した。「あそこは廃工場の地下に広がる『ブラス・タールの闇市場』だぞ。衛兵の目が届かないのをいいことに、人殺しや密輸商人が我が物顔で歩いてる。お前のような盲目の調律師が足を踏み入れれば、一瞬で身ぐるみを剥がされる!」
「私にはカイさんがいます」シキは、隣に立つ大柄な戦士の気配を振り返った。「それに、ゴルドの取引網を叩かなければ、粘土の流通ルートは掴めない。何より……ゴルドの周辺には、ルイン先生が処刑された際に奪われた遺品――『黒鉄の音叉』の情報が流れているはずです」
ルインの遺した音叉。それがあれば、シキの「ソウル・チューニング」の精度は劇的に向上し、アリアの治療にも新たな道が開けるかもしれない。
「……分かったよ」カルロは諦めたようにため息をつき、懐からずっしりと重い革袋を取り出した。「これは俺のジャンク屋の裏金だ。『魔晶石の欠片』が詰まってる。交渉の軍資金に使え。ただし、無茶はするなよ」
「感謝します、カルロ」
シキは革袋を左手で受け取り、深く被ったフードの紐を締め直した。右腕は外套の袖の中に隠し、動かない肉体を他人に悟られないようにする。カイもまた、外套のフードを目深に被り、黄金の残響を放つ「鉄腕」を黒い布で厳重に包み込んだ。トトにアリアの看病を託し、二人は深夜のブラス・タールへと歩みを進めた。
冷たい魔力霧が立ち込める路地裏を抜け、二人は放置された巨大な廃工場の錆びた鉄扉の前に辿り着いた。カルロに教えられた合言葉を扉の監視孔に囁くと、重々しい音を立てて扉が開く。地下へと続く長い石段を下りるにつれ、湿ったカビの匂いと、安酒、そして制御を失った不安定な魔導具が放つオゾンの臭いが鼻腔を突いた。
石段の先には、およそ辺境とは思えないほどの混沌とした活気が広がっていた。剥き出しの魔導松明が赤黒い光を放ち、仮面を被った商人や、血の臭いを漂わせた野良魔術師たちが、怪しげな取引に興じている。ここが『ブラス・タールの闇市場』だ。
「シキ、右方に三人、左方の物陰に二人、こちらを監視している奴らがいる。全員、仕込み刃か杖を隠し持っているな」
カイがシキの耳元で低く囁いた。シキは「残響知覚「響きの世界」」を研ぎ澄まし、周囲の状況を脳内に投影した。物理的な光は見えなくとも、人々の足音、心拍の鼓動、そして不規則に蠢く魔力の波長が、金色の光の輪郭線となって彼の闇を彩っていく。
(……不快な音だ。ここの杖たちは、どれも泣いている)
市場に並べられた魔導具からは、無理やり魔力を充填され、芯材がきしみを上げている不協和音が絶え間なく響いていた。使い手を蝕み、いずれ自壊する「使い捨ての武器」。それらを平然と売り捌く商人たちの強欲な心拍が、シキの耳障りなノイズとなって絡みつく。
シキとカイは、市場の最奥に位置する、一際豪華な天幕へと向かった。そこはゴルドの直轄する取引所で、ゴルドの側近である「ドラン」という男が、不法に回収された魔晶石の価格交渉を取り仕切っていた。
「おい、この質の魔晶石でその価格は高すぎるぞ!」
天幕の前で、貧民風の買い手がドランに抗議していた。ドランは派手な刺繍の入った外套を着た、肥満体の男だ。彼の周囲には、四人の武装した野良魔術師が冷酷な笑みを浮かべて控えている。
「嫌なら失せろ。ゴルド様が仕入れた一級品だ。他じゃ手に入らねえよ」
ドランが鼻で笑う。シキは「不協和音検知「嘘の共鳴」」を稼働させた。ドランの心拍は一見落ち着いているが、魔晶石を指先で弄ぶたびに、彼の体表から漏れる魔力波長が微かに細かく震えていた。嘘をついている。その魔晶石は、一級品などではない。
シキは静かに天幕の中へと足を踏み入れた。
「その魔晶石は、不純物が混ざっていますね。あと三回も使えば、内部の魔力核が自壊して、使い手の指を吹き飛ばすでしょう」
静かだが、よく通る声が天幕の中に響いた。ドランの心拍が一瞬、激しく跳ね上がった。周囲の野良魔術師たちが、一斉にシキへと鋭い視線を向ける。
「あぁ? どこの馬の骨だ、てめえは。盲目のガキが、ゴルド様の商売にケチをつける気か?」
ドランが椅子から立ち上がり、威圧的にシキを睨みつけた。護衛の魔術師たちが、それぞれの杖に手をかける。不快な魔力の起動音が周囲の空気をピリピリと緊張させた。
カイが一歩前に出ようとし、その「鉄腕」から微かな重力の圧力が漏れ出したが、シキは左手でそれを制した。ここで力尽くで暴れれば、市場全体が封鎖され、粘土の情報も音叉の行方も永久に失われてしまう。
「私はただ、事実を申し上げたまでです」シキは穏やかに微笑み、カルロから預かった革袋をポン、とテーブルの上に置いた。「ですが、私はあなたの商売を邪魔しに来たわけではありません。この『魔晶石の欠片』と引き換えに、少しお話をしたいだけです」
革袋から覗く、高純度の魔晶石の欠片。ドランの目が強欲に細められた。しかし、彼はすぐに不敵な笑みを浮かべ、護衛たちに目配せをした。
「話だと? だったら、その袋を置いて、てめえの持ってる金目のものを全部吐き出してからだ。おい、この盲目のガキを外に引きずり出して、徹底的に洗え」
護衛の魔術師がシキの肩を掴もうと手を伸ばした。物理的な暴力による脅迫。だが、シキは動じなかった。彼は「残響知覚」でドランの心臓の拍動、そして彼の体表を流れる魔力の微細な変化を極限まで聞き取っていた。
(ドランの魔力波長……右胸のあたりに、ゴルドの魔力とは異なる、極めて高純度な魔力の『澱み』がある。これは、横領した魔石を隠し持っている個人の波長だ。そして、彼の心拍は、私が『不純物』を指摘した瞬間、ゴルドへの恐怖で一気に縮小した)
シキは一歩踏み込み、ドランの耳元に向けて、周囲には聞こえないほどの極小の声で囁いた。
「……ドランさん。あなたがゴルド様の仕入れから、高純度の魔石を二十パーセントずつ抜き取り、地下水道の隠しキャッシュに溜め込んでいること。……ゴルド様が知れば、どのような罰を下すでしょうか? 『吸魔の刑』で、二度と魔法が使えない体にされるのでは?」
その瞬間、ドランの心拍が「ドクン!」と爆発するように跳ね上がり、彼の魔力波長が恐怖で一気に縮小した。顔面は蒼白になり、額から冷や汗が吹きこぼれる。シキの「不協和音検知」には、完璧な『真実』が響いていた。彼の推測は、ドランの動揺によって確信へと変わった。
「て、てめえ……何者だ……!?」
ドランは震える声で呻き、護衛たちを制止した。周囲の魔術師たちは怪訝な顔をしたが、ドランのただならぬ様子に手を引っ込めた。
「ただの、耳が良いだけの調律師です」シキは静かに言い、テーブルの上の革袋を少し前に押し出した。「この欠片の半分を差し上げます。これで、私の質問に『真実』だけで答えてください」
ドランは生唾を飲み込み、震える手で革袋を掴んだ。彼は周囲の護衛たちを天幕の外へと退散させると、掠れた声で言った。
「……何を聞きたい」
「ガッザが封鎖した泥池から採取した『白亜の粘土』。あれはどこへ流されましたか?」
「……粘土は、ゴルド様がすべて買い取った。だが、ここにはねえよ。すでに帝国の役人どもに引き渡された。あいつらはその粘土を使って、何やら不気味な実験を始めるらしい」
シキの胸の奥が冷たく凍りついた。やはり、ガッザの封鎖の裏には帝国魔導院の影がある。アリアの薬すら、彼らの兵器開発の実験材料にされているのだ。
「もう一つ」シキは「黒鉄の音叉」の情報を求めて、さらにドランに迫った。「かつて、ルインという調律師が処刑された際、魔導院に没収された『黒鉄の音叉』の行方を知りませんか? 闇市場に流れたという噂を聞いたのですが」
その瞬間、ドランの魔力波長が、先ほどの横領を指摘された時とは異なる、純粋な『恐怖』によって急激に縮小した。シキの耳には、ドランの精神が激しく怯え、きしみを上げる不協和音がはっきりと聞こえた。
「……その名前を出すな」ドランは周囲を怯えたように見回し、声を極限まで潜めた。「あの音叉は、確かに一度ゴルド様の手元に流れてきた。だが、あんな呪われた代物、ここには置いておけねえよ」
「どこにあるのですか?」
「『帝国軍廃棄魔導具処理工場』の監督官……ボグドの野郎が、強引に奪っていきやがったんだ。あの音叉には、ルインの強力な魔力残響が封印されてる。ボグドはそれを使って、工場の最下層にある魔力ボイラーの炉の出力を強制的に制御する『コア』として利用してやがるんだ。……あそこは厳重な軍事結界に守られた禁域だ。平民が近づけば、一瞬で消し炭にされるぞ」
ボグド。廃棄工場の監督官。そして、ルインの音叉が、兵器を解体し魔力を強制抽出するための工場の炉に組み込まれているという真実。
「……よく話してくれました」
シキは革袋の残りをドランの前に残し、カイを振り返った。カイは無言で頷き、シキの肩を支えて天幕を後にした。
「シキ、どうする? 廃棄工場に潜入するつもりか?」
市場の雑踏に戻りながら、カイが低く問いかけた。シキはフードの奥で、静かに唇を噛み締めた。右腕の麻痺の痛みが、微かに疼くように響いている。
「行くしかありません、カイさん。そこに音叉があり、そしてアリアを救うための粘土の保管場所も、工場の内部にあるはずです。……ルイン先生の遺品を、帝国の非道な機械の部品として使い潰させるわけにはいかない」
二人が闇市場の出口へと向かって歩き出した、その時だった。
シキの「残響知覚」が、出口付近の空気の急激な『凍結』を捉えた。雑踏のざわめきが、潮が引くように一瞬で静まり返っていく。
コツ、コツ、コツ――。
冷酷な、寸分の狂いもない規則正しい軍靴の音が、石畳を叩いて近づいてくる。その音と共に、シキの耳に、高周波の不気味な機械駆動音が響き渡った。それは、周囲の魔力残響をリアルタイムでスキャンし、未登録の魔力反応を炙り出す、魔導院特製の魔力検知器が放つ音波だった。
(この波長……魔力回収官ゼクス!)
出口の光を背に、灰色の機能的な外套を纏った細身の男が、携帯型の検知器を手にゆっくりと市場内へと歩みを進めていた。検知器のセンサーが、シキの体から微かに漏れ出る、調律直後の純粋な黄金の魔力残響を捉えようと、不気味な明滅を繰り返している。
シキは息を潜め、感覚のない右腕を外套の奥へと深く隠した。逃げ道はない。冷酷な査察官の魔力検知網が、すぐ目の前まで迫っていた。
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