路地裏の徴税官
「おい、この中に違法な魔導反応を感知したぞ! 扉を開けろ!」
石段を揺らす軍靴の響きと、鼓膜を不快に震わせる怒号。半壊した木製の防護扉が激しく蹴りつけられ、古い時計塔の地下室に煤と埃が舞い散った。
盲目の調律師シキは、灰色の包帯で覆われた両目の奥で、静かに呼吸を整えた。彼の脳内に展開される「残響知覚「響きの世界」」は、侵入者の姿を鮮明な音響ホログラムとして描き出している。
入ってきたのは三人。先頭に立つ男の足取りは、ひどく乱暴で傲慢だ。重い金属鎧の擦れ合う音、安煙草の悪臭、そして何よりも、その男の懐から放たれる魔導杖の「音」が、シキの耳に不快な雑音として突き刺さった。
「やはりここにいたか、無資格の闇修理屋め」
現れたのは、帝国辺境衛兵隊ブラス・タール支部の汚職衛兵、マイルズだった。彼はだらしなく制服を着崩し、下劣な笑みを浮かべているのが、その歪んだ呼吸の周期から容易に伝わってきた。
「マイルズ様……」
シキの傍らで、十歳の助手トトが「消音の鐘」を握りしめたまま、恐怖で体を硬直させていた。調律台の後ろでは、先ほど杖を直してもらったばかりの少女ミルが、祖父の形見である「小さな火種」を抱きしめて震えている。
「下がっていなさい、トト、ミルちゃん」
シキは感覚の消え失せた右手をそっと職人着の袖に隠し、左手だけで調律台を支えながら立ち上がった。彼の目の前には、アリアが眠るベッドがある。彼女の膝下の蒼い結晶は、先ほどの応急処置によって一時的に明滅を静めているが、ここで騒ぎが起これば、その脆弱な魔力循環が再び暴走しかねない。
「これは衛兵様。このような深夜に、何の御用でしょうか。当方はただの、平民向けの道具の修繕屋に過ぎませんが」
「とぼけるな!」
マイルズが一歩踏み込み、無造作に調律台の脚を蹴り飛ばした。ガタガタと工具が揺れ、ハンダやヤスリが床に転がり落ちる。金属音が地下室に反響し、シキの脳内ホログラムを一瞬だけ白く濁らせた。
「今、この広場一帯に、未登録の強力な魔導波長が感知された。ガッザ隊長が定めた『魔導登録税』を支払わずに、違法な調律を行った証拠は上がっているんだ。その小娘が抱えている杖をよこせ!」
「……この杖は、ただの調理用の発火杖です。魔導兵器などではありません」
シキは穏やかな声を保った。しかし、彼の「不協和音検知「嘘の共鳴」」は、すでにマイルズの言葉の裏にある「本音」を捉えていた。
マイルズの心拍は、欲望によって異常に跳ね上がっている。彼の魔力波長は、汚く濁った泥のようにうねっていた。ガッザの命令による公的な没収などではない。マイルズは、シキが調律した杖が「異常な高値で売れる極上品」であるという噂を聞きつけ、個人的な小遣い稼ぎのために強奪しに来たのだ。
さらに、マイルズの視線――その体温の向きが、調律台の端に置かれたガラス瓶へと向けられた。中に入っているのは、アリアの命を繋ぐための「白亜の粘土」の軟膏だ。
「ほう、これは高価な『白亜の粘土』じゃないか。平民が持っていい代物ではないな。これも登録税の代わりに没収させてもらう」
「待ってください。それは、奥で寝ている私の妹の薬です。それを取り上げられたら、彼女は……」
「知ったことか! 命が惜しければ、その薄汚い包帯を剥ぎ取って、ここにある金目のものをすべて差し出せ!」
マイルズが粘土の瓶を掴み、シキの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。物理的な暴力による抑圧。シキは抵抗せず、ただマイルズの足裏が床を踏みしめる音、そして鎧の重心移動の音に全神経を集中させた。
(マイルズの足音……右足に極端な重心の偏りがある。かつて戦場で足を負傷しているな。踏み込みの瞬間、左膝がわずかに外側に開く)
シキは頭の中で、マイルズの次の動きを完全に先読みしていた。しかし、これ以上の対話は無意味だった。マイルズは平民を人間とも思っていない。言葉での説得は、この男の強欲さを前にして完全に破綻していた。
「おい、ぐずぐずするな! 逆らうなら、その妹ごとこの場で焼き殺してやってもいいんだぞ!」
マイルズが懐から、帝国軍の標準支給品である魔導杖を引き抜いた。その波長は「同調率10%〜30%:起動期」。使い手の意志を無理やりねじ伏せて魔力を絞り出す、雑音だらけの不快な音が地下室を満たす。
「キィィィ……ガガガ……」
粗悪な魔力循環が、杖の先端に赤黒い火花を散らせる。マイルズが火炎魔法の詠唱を開始した。その瞬間、シキの耳は、杖の内部で魔力流が臨界点に達する「共鳴の瞬間」を正確に捉えた。コンマ数秒後の発動。
「トト、耳を塞ぎなさい!」
シキは叫ぶと同時に、左手で歩行用の仕込み杖を床に強く突き立てた。その先端に埋め込まれた、ルインの遺品である特殊な合金の音叉が、床の石畳を通じて重々しい低音を響かせる。
「――ミュート・コード!」
シキが展開したのは、音叉の特定の振動数を利用した絶対防御技術『消音結界術「ミュート・コード」』だった。彼の周囲数メートル、そしてマイルズの足元を包み込むように、目に見えない「静寂のドーム」が展開される。
その瞬間、地下室を満たしていたすべての音が消失した。
マイルズの杖から放たれようとしていた火炎魔法の魔力振動が、結界の境界線に触れた瞬間、まるで水に消される炭のように一瞬で霧散した。赤黒い火花は消え去り、杖の刻印は冷たく沈黙した。
「な、なんだと……!? 魔法が、発動しない……!?」
マイルズが驚愕し、何度も詠唱を繰り返そうと杖を振る。しかし、結界の内部では、いかなる魔力の振動も許されない。完全な「無音」の世界。
「貴様、何をした! 呪いか!?」
魔法を封じられたマイルズは、怒り狂って物理的な殴打へと切り替えた。重い金属の拳が、シキの顔面に向けて振り下ろされる。
しかし、シキにとって、視覚なき世界での物理攻撃ほど予測しやすいものはなかった。マイルズが拳を引く際の風切り音、踏み込んだ右足のきしみ、そして鎧の擦れ合う金属音。そのすべてが、シキの脳内にスローモーションのように投影されていた。
シキは、マイルズの拳が届く直前、わずか半歩だけ左に身をかわした。マイルズの拳は空を切り、その勢いのまま、シキが事前に予測していた「位置」へと突っ込んでいく。
そこには、かつて時計塔の巨大な歯車を支えていた、半ば自壊しかけた重厚な鉄製のキャビネットが置かれていた。
「おっと……!」
ドガァァァン!
マイルズの巨体が、錆びついた鉄製キャビネットに真っ直ぐに激突した。激しい衝撃により、キャビネットのバランスが崩れ、うずたかく積まれていた古い歯車や金属の端材が一斉にマイルズの上に崩れ落ちた。
「ぎゃああああっ! 熱い、重い、誰か助けろ!」
マイルズは重い金属片の下敷きになり、無様にのたうち回った。彼の部下の衛兵二人も、シキの展開した不気味な消音結界と、隊長の無残な自滅に完全に怯え、それ以上の攻撃を躊躇っている。
「……消音(ミュート)」
シキが仕込み杖を軽く引くと、結界が解除され、再び地下室に歯車の規則正しいチクタクという音が戻ってきた。
しかし、結界を維持した反動は、シキの肉体に冷酷な代償を突きつけていた。彼の鼓膜に極限の圧力がかかり、頭を割るような激痛が走る。彼の左耳からは、生暖かい液体が微かに流れ落ちていた。一時的な失聴。左耳の世界が、完全な砂嵐のような雑音で埋め尽くされていく。
シキは顔色一つ変えず、血を袖で拭うと、冷徹な声でマイルズに語りかけた。
「衛兵様。この工房には、あなたが探しているような高価な魔導杖はありません。ですが……もしこれ以上騒ぎを大きくされるなら、ガッザ隊長に、あなたが『白亜の粘土』を私的に横領しようとして自滅した事実を、この街の闇市場を通じて報告せねばなりませんね」
その言葉に、マイルズの心拍が恐怖で一気に跳ね上がった。「嘘の共鳴」を暴かれた汚職衛兵は、自身の不正が上層部に露呈することを何よりも恐れていたのだ。
「く、くそっ……! 覚えていろよ、平民の分際で! ガッザ隊長がお前たちを絶対に許さないからな!」
マイルズは部下たちに助け起こされ、崩れ落ちた金属片を跳ね除けながら、這うようにして地下室から逃げ出していった。彼らの軍靴の音が石段を上り、遠ざかっていく。
嵐は去った。シキは調律台を掴み、激しいめまいに耐えながら深く息を吐いた。アリアの薬は守り抜いた。しかし、これで帝国辺境衛兵隊を完全に敵に回したことは確実だった。ブラス・タールでの彼らの生活は、いよいよ引き返せない死線へと追い込まれていく。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
トトが心配そうにシキの袖を引いた。シキは微笑み、彼の頭を優しく撫でようとしたが、その瞬間、彼の「残響知覚」が、工房の入り口に佇む「新たなる影」を捉えた。
その男の足音は、衛兵たちのそれとは全く異なっていた。
片足がわずかに引きずられ、そして――右腕のあたりから、重々しく、かつ不気味な金属のきしみ音が響いている。それは、大破した軍用魔導兵器の残骸から放たれるような、制御不能の「重力の残響」だった。
暗闇の中から、鋭く冷酷な眼光を放つ隻腕の戦士が、音もなく姿を現した。
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