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静寂の逆鳴

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静寂は、冷酷なまでに絶対的だった。


 鼓膜を破らんばかりの爆音も、崩れ落ちる天井の轟音も、今のシキには一切届かない。両耳から流れ落ちた血が顎を伝い、首元を赤く染めていく。音を失った世界の中で、シキの感覚を支配しているのは、足の裏から伝わる床の狂おしいきしみと、「残響知覚「響きの世界」」が描き出す魔力のホログラムだけだった。


 脳内のホログラムにおいて、迫り来る脅威は「赤紫の巨大な激流」として視えていた。衛兵隊長ガッザの暴走軍用杖「赤熱の槍」から放たれた極大の熱線――空間そのものを熱膨張で圧壊させるほどの熱波が、目の前まで迫っている。


 カイの身体が、熱線を遮る巨大な盾のように、アリアのベッドの前に跪いていた。彼の右肩の肉は、障壁を透過した不純な暴走熱によってじりじりと焼け焦げ、インディゴブルーの重力波を放つ義手「鉄腕」の伝導率は急激に低下している。カイの心拍数は危険領域に達し、その痛みの波形がシキの感覚を激しく揺さぶっていた。このままでは、あとコンマ数秒でカイの障壁は完全に粉砕され、奥の部屋で眠るアリアごと、全員が灰へと帰す。


(アリアを、カイさんを……絶対に死なせはしない)


 シキは外套の袖の中で冷たく垂れ下がったままの、完全に触覚を失った右腕をかばい、唯一動く左手で懐を探った。指先が触れたのは、先ほど廃棄工場のボイラー室から命がけで奪還した、師ルインの遺品――「黒鉄の音叉」だった。


 音叉を左手で握りしめた瞬間、シキの体内の魔力循環が爆発的に加速した。頭脳が焼け付くような熱を帯び、彼の意識は現実の肉体を半ば置き去りにして、「同調率90%以上:無限同調(インフィニティ)」の神聖な領域へと一気に跳ね上がる。


 シキの包帯に覆われた両目の奥から、目に見えない黄金の光が溢れ出した。彼の左指の先から、蜘蛛の糸のように美しく、極限まで圧縮された黄金の魔力糸「紡ぎ手」が幾重にも紡ぎ出され、半壊した工房の空間全体へとプラネタリウムのように広がっていく。糸は空気中に漂う魔力の泥嵐の結晶化毒素を微小に中和し、同時に、迫り来るガッザの熱線の波長をミリ秒単位で解析し始めた。


 聞こえないはずの世界の中で、シキはガッザの「赤熱の槍」が放つ致命的な不協和音を、魔力の振動として完璧に「聴いて」いた。ガッザが服用した戦闘魔薬のせいで、彼の心拍数は一分間に百八十拍という狂ったリズムを刻んでいる。その異常な拍動と同調した「赤熱の槍」は、キースによる無理な「芯材の強制結合(ハイブリッド)」のせいで、熱量が最大に達する瞬間に、特定の魔力バイパスが激しくきしみ、右側に深刻なノイズ(右偏ノイズ)を漏らしていた。


 熱線の先端が、シキの鼻先を掠める。前髪の数本が熱風に煽られて一瞬で焼け焦げ、その先端が白銀色へと変色していく。だが、シキは一歩も引かなかった。


 彼は左手に持った「黒鉄の音叉」を、自身の白杖の金属頭へと、渾身の力で叩きつけた。


 ――キィィィィィィン。


 物理的な音波ではない。純粋な魔力の逆位相波動が、音叉から全方位へと放射された。シキが脳内で完璧に描き出した、ガッザの熱線魔法と「完全に上下逆の波形(逆位相)」――「逆位相魔力相殺「アンチ・レゾナンス」」の起動だった。


 激突の瞬間、轟音は生まれなかった。ただ、圧倒的な『静寂』が空間を支配した。


 すべてを溶かすはずの赤熱の熱線が、シキの放った黄金の音波と接触した瞬間、まるで水に落とされたインクのように、音もなく霧散していった。熱波が奪い去った酸素が空間に急速に戻り、張り詰めていた熱気が一瞬にして冷気に変わる。炎は一瞬にして消音され、赤黒い光は黄金の光の粒子となって、静かに床へと舞い落ちた。


 力による破壊ではなく、調和による無力化。魔法そのものを空間から「消し去る」奇跡の光景が、そこにあった。


 ガッザの驚愕の波形が、床の激しい震えとなってシキに伝わってきた。ホログラムの中のガッザは、自身の最大出力の魔法が塵一つ残さず消滅したことが理解できず、狂ったように「赤熱の槍」を振り回している。彼はさらに魔力を注ぎ込もうとするが、戦闘魔薬の過負荷と、先ほどの相殺による魔力の逆流に、杖の内部の強制結合部が耐えきれず、耳を劈くようなきしみ声を上げていた。


(今です、カイさん)


 シキは、自身の左指から伸びる黄金の魔力糸を微かに震わせ、カイの義手「鉄腕」の魔力バイパスへと直接信号を送った。音が聞こえない世界において、この糸こそが、二人の魂を繋ぐ唯一の伝達路だった。


『右を。ガッザの杖の、右の結合部を叩いてください』


 カイは、シキの意志を右腕の義手を通じてダイレクトに受け取った。彼のインディゴブルーの瞳に、戦士としての冷徹な光が戻る。右肩の激痛を力ずくでねじ伏せ、カイは床を強く踏みしめた。彼の体表の血管が黄金の魔力光で明滅し、義手「鉄腕」が限界突破の駆動音を立てる。


「おおおおおッ!」


 カイは咆哮し、弾かれたように前方へと跳んだ。重力衝撃波を拳全体に纏わせ、ガッザの懐へと肉薄する。ガッザは慌てて槍を盾にしようとしたが、戦闘魔薬の副作用による手の痺れで、武器を正しく構えることすらできなかった。


 カイの義手「鉄腕」が放った重力衝撃の拳が、ガッザの「赤熱の槍」の右側――キースが無理やり接着した、火属性と風属性の骨の境界線の亀裂へと、寸分の狂いもなく叩き込まれた。


 パキィィィン!


 き澄んだ破砕音が、大気の振動となってシキの肌を打った。ガッザが不当に強化し、貧民たちを脅し続けてきた「赤熱の槍」は、その結合部から真っ二つにへし折れ、無数の破片となって飛び散った。杖に宿っていた精霊の怨念と、過剰に充填されていた魔力が一気に逆流し、ガッザの肉体を内側から焼き始める。


「ぎ、ぎゃあああああああッ!」


 ガッザは絶叫し、両手から煙を吹き出しながら床に転がり回った。彼の心拍数は急激に低下し、魔力波長は完全に崩壊して、二度と魔法を使えない廃人同然の体となって崩れ落ちた。彼を包囲していた衛兵たちも、隊長の無残な敗北と、その杖を粉砕したカイの圧倒的な威圧感に恐怖し、武器を投げ捨てて爆煙の向こうへと逃げ惑うように退散していった。


 衛兵隊長ガッザとの最終決戦は、シキの調律とカイの一撃によって、完全な決着を迎えたのだ。


 しかし、シキは安堵していなかった。相殺の精神負荷により、彼の脳内には激しい偏頭痛が走り、残響知覚のホログラムが一時的に砂嵐のように乱れていた。左指の指先には、結晶化の初期斑点が不気味に輝き、彼の寿命がまた一歩削られたことを告げている。


 さらに、彼らの足元を揺らす、大地の震えが止まらない。いや、震動はむしろ、より巨大なうねりとなって激しさを増していた。


 トトがシキの左手を強く握り締め、彼の掌に必死に指先を走らせた。


『広場が。街の中心が、蒼く光ってる。泥嵐が、来る』


 その瞬間、シキの脳内ホログラムの砂嵐が晴れ、遥か遠くの「霧の広場」の状況が立体的に投影された。不法投棄された万本の杖の怨念と、解放された精霊たちの怒りが結合し、街全体を飲み込もうとする巨大な「魔力の泥嵐」が、ついにその臨界点に達しようとしていた。


 無音の世界の最深部から、大気そのものを結晶化させるような、巨大な、禍々しい精霊の咆哮が、大地の地響きとなってシキの足裏を激しく叩きつけた。

HẾT CHƯƠNG

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