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不協和音の響く街

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時を刻む歯車の音が、一定の規則正しさで地下室の静寂を支配していた。

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 かつて放棄された古い時計塔の地下室。ここが、二十一歳になる盲目の魔導調律師、シキの工房であり、最愛の妹アリアと身を寄せる唯一の平穏な聖域だった。

 だが、その平穏を脅かす「不協和音」は、すぐ目の前で冷たく脈打っていた。

「う……あ……っ」

 粗末な木製のベッドから、押し殺した呻き声が漏れる。シキは静かに歩み寄り、ベッドの傍らに膝を突いた。視覚を失った灰色の包帯の奥で、彼の感覚は極限まで研ぎ澄まされる。

 シキの手が、アリアの細い足へと伸びた。指先が触れたのは、人間の柔らかい肌ではない。ガラスのように滑らかで、鉄のように冷徹な、結晶の塊。魔力の逆流病――通称「魔晶化病」によって、アリアの両足の膝から下は、透き通るような美しい、しかし不気味な蒼い魔晶石へと変貌していた。

「冷たいな、アリア」

 シキが囁くと、アリアは小さく首を振った。

「平気……だよ、お兄ちゃん。少し、チクチクするだけ……」

 それが優しい嘘であることは、シキの「耳」にはっきりと聞こえていた。旅詩人オルフェから叩き込まれた「残響知覚訓練法」によって、シキは世界を「音」として観る。アリアの体内を流れる魔力は、今や激しく逆流し、体内の魔力核が悲鳴のような高周波を上げていた。それは、暴走寸前の魔導杖が発する、崩壊のプレリュードに酷似していた。

 シキは傍らの薬瓶を手に取ったが、その内側を指先でなぞっても、何も付着しなかった。魔力の中和剤である「白亜の粘土」をベースにした軟膏が、完全に底を突いている。

「……すぐに薬を調達してくる。ここでじっとしているんだよ」

 アリアの額に優しく触れた後、シキは立ち上がり、古い職人着を羽織った。手元には、金色の魔導針と、仕込み音叉である歩行用の杖。それだけを携え、彼は地下工房の重い扉を開けた。


 地上に出ると、帝国辺境の古街「ブラス・タール」の冷たい霧が、シキの頬を撫でた。

 目が見えないシキにとって、この街は混沌とした音の洪水だった。戦争で廃棄された魔導杖の残骸がうずたかく積まれた「廃棄魔導杖集積所」からは、持ち主に裏切られ、使い潰された武器たちの「呪い」のような不協和音が、絶え間なく霧の中に響いている。

「キィィ……」「……オレを、捨てないで……」「熱い、体が焼ける……」

 それらの悲鳴を、シキは耳の奥で聞き分けながら、慣れた足取りで石畳を進む。平民が魔導杖を持つことを禁じる帝国の「未登録魔導杖の修復禁止令」の下、シキはここで「無資格調律師」として、闇の修復を請け負うことでアリアの薬代を稼いできた。

 やがて、シキの杖が「コツン」と特有の硬い金属音を捉えた。ジャンク屋を営む闇商人、カルロの店だ。油と錆、そして安煙草の匂いが、シキの鼻腔をくすぐる。

「よう、シキ。こんな霧の深い日に、盲目の先生が何の用だ?」

 カルロの濁った声が響く。シキは「残響知覚「響きの世界」」でカルロを観た。カルロの心拍は不規則に速い。何かを隠しているか、あるいは後ろめたい取引を控えているときの拍動だ。

「白亜の粘土を売ってほしい、カルロ。アリアの足の結晶化が進んでいるんだ」

 シキが懐から、これまでの調律で得た「魔晶石の欠片」が入った袋を取り出し、カウンターに置いた。ジャラリ、と鈍い音が響く。しかし、カルロはため息をつき、葉巻を深く吸い込んだ。

「悪いな、先生。その程度の『欠片』じゃ、今は粘土の泥一粒も買えやしねえよ」

「どういうことだ?」

 シキの眉が微かに動く。カルロの心拍に「嘘の共鳴」はない。事実を語っている。

「辺境衛兵隊長ガッザの野郎が、泥池の採取権を完全に封鎖しやがった。平民どもから『魔導登録税』を搾り取るために、粘土を買い占めて闇市場に流してやがる。今や白亜の粘土は、通常の十倍以上の値で取引されてるんだ。お前の手持ちじゃ、まるで足りねえ」

 シキの胸の奥で、静かな怒りが火花を散らした。帝国は、平民の命を単なる魔力の燃料としてしか見ていない。アリアの病も、彼らが中央で魔力を一極集中させて大地の循環を歪めた結果生まれた公害病だというのに、その治療薬すら搾取の道具にするのか。

「……アリアの命がかかっているんだ。何でもする、カルロ。何か取引はないか?」

 シキが静かに問いかけると、カルロの心拍が一瞬、大きく跳ね上がった。周囲の空気が緊張に包まれる。カルロはカウンターの奥から、ずっしりと重い黒い木箱を取り出し、目の前に置いた。

「……お前がそう言うと思ってな、先生。極上の『依頼品』がある」

 カルロが箱を開けた瞬間、シキの耳に、まるでガラスを引き裂くような不快な不協和音が飛び込んできた。

「キィィィィィ――ッ!」

 耳の奥を直接針で刺されたような激痛。シキは思わず眉間を押さえた。

「これは……」

「帝国軍の将校が戦場で使い潰し、不法投棄した一等魔導杖の残骸だ。芯材の魔獣の骨が物理的に割れてやがる。帝国に見つかれば、無許可修復の罪で一発で両手切断、最悪は死刑だ。だが、こいつを今すぐ完璧に『調律』して起動できる状態に戻せば、お前が欲しがっている『白亜の粘土』を一瓶、タダで融通してやる」

 カルロの言葉に、シキは沈黙した。

 目の前にある杖は、単に壊れているのではない。芯材が使い手の暴力的な魔力によって引き裂かれ、精霊が「拒絶期」の極限状態にある。修復には、シキ自身の魂を削り、指先から「黄金の魔力糸」を紡ぎ出して、杖の精神世界に深く侵入する「ソウル・チューニング」を行わなければならない。

 黄金の魔力糸を紡ぐたびに、シキの肉体は削られ、指先の感覚が麻痺していく。調律師としての生命を縮める、等価交換の代償。

 だが――シキの脳裏に、ベッドの上で蒼い結晶の痛みに耐え、健気に微笑むアリアの姿が浮かんだ。

「……いいだろう。取引成立だ」

 シキは覚悟を決め、席に着いた。感覚のない右手の指先を、冷たい魔導杖の亀裂へと這わせる。

 彼は深く呼吸を整え、体内の魔力を極限まで圧縮した。指先から、微かに発光する極細の「黄金の魔力糸」が紡ぎ出され、杖の亀裂へと吸い込まれていく。杖に宿る精霊の、裏切られた恐怖と怒りの感情が、魔力の逆流熱となってシキの腕を駆け上がった。

「ぐ……っ!」

 凄まじい熱量がシキの肉体を焼く。シキは歯を食いしばり、黄金の糸で引き裂かれた魔力回路を一本ずつ、精密に縫い合わせていった。一針、また一針。まるで、壊れた魂を優しく刺繍するように。

 調律が完了した瞬間、不快な不協和音は完全に消え去り、杖は澄んだ青い光を放って沈黙した。完璧な調和。

「……見事なもんだ。本当に『本物の芸術』だな、お前は」

 カルロが感嘆の声を上げ、約束通り、白い粉末の入った薬瓶をシキの手元に置いた。シキはそれを受け取ろうとしたが、右手の指先が、まるで冷たい石のように感覚を失っていることに気づいた。黄金の糸を紡いだ代償として、右手の触覚が一時的に完全に麻痺してしまったのだ。

「……ありがとう、カルロ」

 シキは麻痺した右手を隠し、左手で薬瓶を握りしめると、一刻も早くアリアの元へ戻るため、霧の街を駆け抜けた。


 時計塔の地下室に戻ると、シキは急いでアリアのベッドの傍らに駆け寄った。

「アリア、薬を持ってきた。今、塗ってあげるからね」

 シキは左手で白亜の粘土をすくい、アリアの結晶化した右足に優しく塗り広げた。粘土が逆流する魔力を吸着し、一時的に結晶の明滅が静まり、アリアの表情に安堵が広がる。

「……あったかい。ありがとう、お兄ちゃん」

 アリアがシキの手を握りしめた。その瞬間、シキの心臓が冷たく跳ね上がった。右手の感覚がないため、妹の手の温もりを、右指で感じることができないのだ。

 このまま調律を続ければ、自分はいつか、すべての感覚を失うかもしれない。だが、それでもアリアを救えるなら――。

 シキがそう自分に言い聞かせた、その時だった。

 アリアの結晶化した足が、突如として不気味な蒼い閃光を放ち、激しく明滅し始めた。

「あ……っ、熱い! お兄ちゃん、体が、燃えるみたいに……っ!」

 アリアが悲鳴を上げ、ベッドの上で激しく身悶えする。白亜の粘土が、吸着した過剰な魔力によって一瞬で黒く結晶化し、ポロポロと崩れ落ちていく。

「アリア!?」

 シキの「残響知覚」が、アリアの体内から放たれる、通常の薬では到底抑えきれない限界を超えた『極大の不協和音』を捉えた。魔力逆流病の進行が、彼らの予想を遥かに超える速度で、アリアの命を蝕み始めようとしていた――。

HẾT CHƯƠNG

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