暗闇のチェイス:這い寄る影の指揮棒
右耳は完全な静寂に沈み、左耳はまるで深い水底に潜っているかのように、すべての音が遠く、篭って聞こえる。鼓膜の奥で「キィィィン」と鳴り響く金属的な耳鳴りだけが、今の松本健太にとって唯一鮮明な音だった。
放課後の喧騒が去った都立常盤木高校の旧校舎。午後五時のチャイムを境に、世界は禍々しい紫色の霧に包まれた異界「逢魔街(おうまがい)」へと反転していた。湿った埃と乾いた木材、そして天然の膠(にかわ)の生臭い匂いが入り混じる廊下は、現実のそれよりも遥かに引き伸ばされ、無限の闇へと続いているように見える。
健太は、サイズの大きい制服のブレザーの袖から、左手を見つめた。薬指と小指は完全に灰色に変色し、乾いた桜の木の樹皮のような質感へと変質している。爪はすでに剥がれ落ち、触れても冷たい石に触っているようで、ピクリとも動かない。普通の高校生としての日常や、かつて神童と呼ばれたピアノ奏者への復帰の道は、あのメトロノームの怪異との死闘の代償として、永遠に閉ざされたのだ。
だが、後悔はなかった。健太の隣には、首元に白いスカーフをきつく巻き、スケッチブックを胸に抱きしめた少女――瀬戸朝陽が立っている。異獣『沈黙の喉』に歌声を奪われ、一切の声を失った幼馴染。彼女の奪われた「声の結晶」が、この旧校舎の廃廊下の奥にある『旧校舎の開かずのロッカー』から、地下ボイラー室へと連れ去られた。それを奪還することだけが、今の健太を突き動かす唯一の執念だった。
健太の肩には、チェリーウッドの削り屑から生まれた小さな精霊『コッパ』が寄り添い、乾燥した指板の状態を心配そうに見つめている。健太は右手で、首から下げた真鍮製の古い音叉をそっと握りしめた。ポケットの中では、先ほど回収した怪異『焦燥の秒針』の残骸である『錆びたギア』が、微かに赤く、冷たく拍動している。
「……」
健太は声を出さずに、朝陽に向かって小さく頷いた。調律中、あるいは逢魔街の深層においては、一切の言葉や呟きを発してはならない。それは、白石宗達から厳命された『有声音の発声禁止令』の絶対ルールだ。一言でも叫べば、抱えている『神骨のクラシックギター』が魔力の暴走によって爆発し、己の命が吹き飛ぶ。二人は、視線と呼吸だけで意思を通わせるしかなかった。
朝陽は、うつろな闇を見つめる大きな瞳に強い決意を湛え、スケッチブックを片手で開き、もう片方の白い指先を静かに動かした。それは、言葉を失った彼女が健太の「耳」となるために編み出した、無音の旋律――手話のナビゲーションだった。
『廊下、静か。でも、壁の奥、何かが這っている』
朝陽の指先が、闇の中に白い軌跡を描く。健太は『共鳴視覚』を起動した。彼の瞳の奥に薄い金色の五線譜の紋様が浮かび上がり、視界がモノクロームに染まる。空気の微細な揺れが、紫色の波紋となって空間に視覚化された。
二人は、懐中電灯の細い光だけを頼りに、音を立てないよう慎重に歩みを進めた。目指すは、かつて合唱部で挫折した生徒が自身の未練を閉じ込めて失踪したとされる、緑色のスチールロッカーだ。
しかし、その時だった。健太が踏み出した一歩が、老朽化した床板の僅かな歪みを捉えてしまった。
――ギィ。
篭った左耳の奥に、その小さなきしみ音が爆音のように響き渡った。健太の心臓がドクンと跳ね上がる。
次の瞬間、廃廊下の天井から、不気味な赤色灯が「チカチカ」と点滅を始めた。闇の中から現れたのは、細身のタクト(指揮棒)の姿をした自律飛行する偵察使い魔――『影の指揮棒(Shadow Baton)』だった。その赤く発光する先端が、健太たちの位置を完璧にロックオンしたのだ。
「キィィィィィン――!」
指揮棒が、一般の人間には聞こえない高周波の警戒アラートを放ち、周囲の影を揺らす。廊下の壁や床の隅から、ズルズルと蠢く黒い液体のような人型の影――『夕暮れの影法師(Twilight Shadow)』たちが一斉に這い出てきた。彼らはチャイムの音を聴き逃した生徒たちの孤独な未練。侵入者の影を喰らい尽くすため、一糸乱れぬ動きでこちらへと殺到し始める。
(しまっ――!?)
大声を出せば、さらに多くの影が押し寄せ、完全に包囲される。健太は瞬時にギターを構えた。だが、彼の左手は人差し指と中指しか動かない。薬指と小指は灰色の木と化し、弦を押さえることすらできない。
朝陽が健太の前に立ち、素早く指先を躍らせた。
『右、3歩、影、這い寄る。避けて!』
その視覚的な指示が、健太の脳内で正確な「調律のテンポ」へと翻訳される。健太は『尺八の息吹』の呼吸法を起動し、肺の空気を極限まで吐き出した。心拍数が一気に低下し、周囲の影の動きが静止画のように遅く見える。
健太は右手の掌の肉厚な部分をギターのブリッジに強く押し当て、弦の響きを極限まで殺す『消音爪弾き(ミュート・ストローク)』のフォームを構えた。そして、動く人差し指と中指だけで五弦(A音)の低音を押さえ、親指で強く弾いた。
トツ、トツ、トツ――。
放たれた超低周波の消音音波が、一般の怪異には聞こえない黄金の細い糸となって床を這い、這い寄る『夕暮れの影法師』の足元へと突き刺さった。健太はスライドバー(真鍮ボトルネック)を左手の動かない小指に物理的に押し当て、三弦の上を滑らせて、微かな逆位相の摩擦音を発生させる。
ピキピキピキッ!
影法師たちの足元の影が、健太の消音スライド音波によって床板に物理的に縫い止められ、動きを完全に封じられた。不格好だが、これまでに培った泥臭い運指の技術が、完璧なステルス攻撃となって影を各個撃破していく。
しかし、天井の『影の指揮棒』が、さらに激しく赤色灯を点滅させ、周囲の空気を振動させて大音量のハウリング衝撃波を放とうと、エネルギーを先端に収束させ始めた。もしあれを放たれれば、学校全体の怪異がこの廊下に殺到する。
(放たせるか……!)
健太は、指揮棒が放とうとしている音波の周波数が、かつてレッスン室で戦ったメトロノームの「きしみ音」と同じ高周波(八百八十ヘルツ)であることを見抜いた。彼はギターの一弦(錆びた高音弦)を右手で強くミュートし、あえて重低音の五弦のみを使い、真逆の波形をぶつける準備をした。
朝陽の指先が、暗闇の中で激しく動く。
『今! 指揮棒の先端、赤が最大!』
健太は、朝陽の「無音の目」が示した完璧なタイミングに、自らの右親指を叩きつけた。弦の振動が、ギターの裏板に埋め込まれた父親の「白い骨(神骨)」へと伝わり、ドクンと激しく脈打つ。
消音爪弾きの逆位相波が、弾丸のように天井の『影の指揮棒』へと直撃した。
ジジ、ジジジッ――!
指揮棒の赤色灯が激しく点滅し、内部の魔力回路が健太の低周波によって霊的にショートさせられた。指揮棒は悲鳴を上げることもできず、黒い火花を散らしながら、静かに床へと落下し、粉々に砕け散った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
周囲の影法師たちも、指揮棒の消滅と共に、セピア色の塵となって廊下の闇へと霧散していった。張り詰めていた緊張が解け、健太は激しい虚脱感に襲われた。左腕の木化の激痛が手首から二の腕へと這い上がり、朝陽の指先も極度の緊張と冷気によって紫色に凍りつき、激しく呼吸を乱している。
だが、二人の目の前には、緑色の錆びついたスチールロッカー――『旧校舎の開かずのロッカー』が、静かに佇んでいた。ロッカーの隙間からは、濡れた悲鳴のような、朝陽の声の結晶の残響が「ヒタヒタ」と漏れ出している。
健太は、動かない左腕を庇いながら、右手でロッカーの取っ手に手を伸ばした。
その、瞬間だった。
バキ、バキバキバキッ!
ロッカーの目の前の古い木造床板が、二人の体重と、これまでの戦闘による霊的摩耗に耐えかねて、凄まじい音を立てて物理的に崩落したのだ。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴。足場が完全に消失し、健太と朝陽の体は、暗黒の深淵へと真っ逆さまに落下していった。健太は咄嗟に右腕を伸ばし、朝陽の冷え切った体を強くかき抱いた。
懐中電灯の光が虚空を舞い、落下していく二人の視界の下で、不気味に赤く拍動する錆びた配管と、蒸気が悲鳴のように噴き出す巨大な闇の空間が口を開けていた。
――それは、朝陽の声が囚われた最深部、旧校舎の『地下ボイラー室』へと続く、底なしの暗黒の階段だった。
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