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不協和の逆転:アドリブの生

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「キィィィィィン――」


 顎の骨から脳髄へ、直接叩き込まれた四百四十ヘルツの純粋な振動。


 鼓膜を介さぬその基準音(A音)は、濁ったレッスン室の空気を切り裂き、健太の狂いかけた絶対音感を力ずくで引き戻した。


「は、あッ……!」


 閉ざされていた肺が物理的に開き、冷たい空気が健太の気管へと流れ込んだ。メトロノームの怪異『焦燥の秒針(ヘイスティ・メトロノーム)』が刻む、一分間に二百拍を超える狂気的な等時音(プレスト)が脳内で鳴り響く幻聴を、祖父の形見が放つ圧倒的な物理振動が押し流していく。


 だが、窮地を脱したわけではない。目の前では、身長一メートルを超える木製の細長い骸骨のような怪異が、真鍮製の鋭い振り子を左右に激しく揺らし、再び健太の心拍数を強制同期させようと、床から重低音の衝撃波を放ち始めている。


 カチ、カチ、カチ、カチ――!


 床から伝わる微細な振動が、健太の足元から這い上がり、彼の心臓を再びその一定のテンポへと引きずり込もうとする。脈拍が跳ね上がり、呼吸が再び浅くなりかける。


(抗うな。波に乗るな。自らの内に、別の『静寂』を作れ……!)


 健太は、部室の虚無僧幽霊・蓮山から教わった呼吸法を思い出した。


『尺八の息吹』。


 彼は開いた口から、肺の中のすべての空気をゆっくりと、限界まで吐き出した。横隔膜を物理的に固定し、肺を完全に空にする。喉の奥を閉鎖し、息を止める。


 ドクン……ドクン……。


 一分間に百八十を超えていた心拍数が、物理的な酸素欠乏によって急速に低下していく。百二十、八十、六十、そして――三十八。


 健太の心臓は、怪異のプレストを拒絶し、極限の「徐脈」へと突入した。彼の瞳の奥に、黄金色の五線譜の紋様が浮かび上がる。共鳴視覚。メトロノームの針が刻む正確すぎる等時音の「波形の谷(死角)」が、空間に赤く光るノイズの線として立体的に視認できた。


(今だ……!)


 健太は床から神骨ギターを拾い上げ、指板に左手を這わせた。


 だが、左手の薬指は完全に灰色に変色し、一本の乾いた小枝のようにダラリと垂れ下がったままだ。感覚は一切ない。


(薬指が動かないなら、人差し指と中指、あるいは親指だけで弾く……!)


 変則的な二本指の運指。健太はギターのネックを顎の骨に強く押し当て、骨伝導でピッチを確認する。


 怪異『焦燥の秒針』は、健太が「完璧なクラシックのソナタ」を弾き始めるのを待ち構えていた。もし、健太が母親に強要された楽譜通りの完璧な演奏をしてしまえば、それは幻想楽会の術式に取り込まれ、彼の精神は即座に人形化される。


『完璧な演奏の自己禁止』。


(俺の音は歪んでいる。完璧な神の調和なんて、知るか……!)


 健太は右手の親指で、錆びついた五弦を強く弾いた。


 ベベン――。


 それは、クラシックの優雅な一音ではない。あえて裏拍を突き、拍子を大きく遅らせた、泥臭いブルースの「ブルーノート(歪んだ単音)」だった。


「ギィ!?」


 メトロノームの怪異が、一瞬、不気味にきしんだ。


 健太は左手の人差し指で二フレットを押さえ、中指で三フレットを叩くように押さえる。薬指を使わない変則フォーム。そして、右手の掌で弦の根元を軽く消音しながら、不規則なシンコペーションを刻み始めた。


 ズン、タッタ、ズン、タッタ――。


 楽譜にはない、その瞬間の感情だけで紡がれる即興演奏(アドリブ)。一オクターブずらした、歪んで泥臭いコード進行が、レッスン室の空気振動を強制的に上書きしていく。


 カチ、カ、チ、カチ……。


 怪異の刻む一定のテンポが、健太のアドリブの「ゆらぎ」を処理しきれず、狂い始めた。メトロノームの内部で、真鍮製のギアが「キリキリ」と異常な摩擦音を立てて悲鳴を上げる。


(いける……! この不格好なノイズが、奴の規律をバグらせている!)


 健太はさらに攻勢に出た。左手小指に真鍮製のボトルネック(スライドバー)をはめ、錆びた三弦の上を滑らせる。


 キィィィィィン――!


 悲鳴のような、しかしどこか哀愁を帯びた美しいスライド音が響き渡り、レッスン室の重力結界を物理的に切り裂いていく。


 だが、その瞬間だった。


「――ッ!!」


 健太の左手の小指に、焼きゴテを直接押し当てられたような激痛が走った。


 等価交換の代償。神骨ギターが放つ調律の死気が、彼の左手小指の神経を一気に逆流し、皮膚を灰色に変色させていく。


 声を出してはならない。『有声音の発声禁止令』の禁忌が健太の喉を強く締め付ける。彼は唇を噛み締め、血を滲ませながらも、一切の叫び声を漏らさずに無言でスライドバーを動かし続けた。


 小指の爪が、ペキリと音を立てて剥がれ落ち、床に転がる。その下の皮膚は、完全に桜の木の樹皮のような、乾いた灰色へと変質していった。感覚が、永久に消え去っていく。


(指の一本や二本、くれてやる……! 朝陽の声を、取り戻すためなら!)


 健太は、感覚を失った小指を物理的に指板に叩きつけ、最後の一撃を放つ。


 一オクターブずれた、歪んだ不協和音のフルストローク。


 ドォォォォォン――!


 その温かく、しかし圧倒的なノイズの波動が、メトロノームの怪異の胸部を直撃した。


 バキバキバキッ!


 怪異の内部で、赤く拍動していた真鍮製のギアが、健太の不規則なビートの共振に耐えかねて、物理的に粉々に砕け散った。


「ギ、ギギギ……ア……ッ」


 メトロノームの骸骨は、断末魔のきしみ音を上げながら、セピア色の塵となって空間に霧散していった。


 同時に、歪んだレッスン室の幻影が、インクが水に溶けるように消え去り、元の埃っぽい地下レッスン室の静寂が戻ってきた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 健太はギターを抱えたまま、冷たいコンクリートの床に崩れ落ちた。


 左手の小指は、薬指に続いて完全に灰色に「木化」し、ピクリとも動かない。右耳の難聴はさらに悪化し、世界の音が完全に遠ざかっていた。


 だが、彼の瞳は、怪異が消え去った床の上に残された、微かに赤く脈打つ「錆びたギア」を捉えていた。


 健太は震える右手でそのギアを回収し、ポケットに収める。


 ふと、破壊されたメトロノームが置かれていたロッカーの裏の暗がりに、白い紙の端が覗いているのが見えた。


 健太が手を伸ばし、ロッカーの隙間から引きずり出したのは、黒い革で装丁された、ボロボロの古いノートだった。


 表紙には、掠れた血文字のような跡と、見覚えのある手書きの文字が記されていた。


――『宗達の調律手帳』。


 それは、かつて失踪した父親・松本創一が、この場所に遺していった、調律師の禁忌の記録だった。

HẾT CHƯƠNG

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